夕陽は既に丘の向こうに落ち、窪地は赤く染まった空の最後の照り返しでようやく目鼻の区別がつく程の闇に落ちました。
「貴更様、もう陽が落ちましたし寒くなります。お部屋が用意してありますのでおいでください」
唇を噛みしめ黙り込んでしまった貴更に、ほたるは声を掛け先に立って歩き始めます。
初めて周りの暗さに気付いた貴更は、ほたるに言われるままにその後をついてゆきました。
谷間の森の奥の岩崖に目立たず斜めに走っている坂を上ると、大岩に隠された小さな穴が岩壁に開いており、そこからゆるい登り坂の洞穴を進み、その奥に大きな岩室がありました。崖の下から見てもそんなところに穴があるなど気付かない造りでした。
岩室の暗がりの中で火打ち石を打つ音がし、やがてともされた蝋燭の灯が岩室の中を照らしだします。
そこは荒い岩の壁面に囲まれた四角い箱型の岩室でした。四周の壁面は彩色された幾何学文様が描かれています。岩室の中央に人が寝て入れるほどの四角な岩の箱があり上が厚い岩の蓋で覆われています。
岩室の奥には幾重にも藁が重ねられその上には場違いなほどに上等の布団が敷かれていました。見れば他の壁の下には調理道具を始めとした生活用品までが揃えられています。
「ここは何なのだ。自然の洞穴とは思えないが」
貴更は特に目立つ壁面の幾何学文様を見上げて問い掛けます。
「ここは昨年の火事の時に私が導いて獣達が隠れ難を避けた岩室です。ずっと昔の人々が造った貴人の墓地だと思います。おそらくその岩の箱の中に葬られているかたを祀ったのではと」
「墓地か、ここは」
貴更は箱におろそうとした腰を慌てて戻します。
「気持ち悪いですか」
「そんなことはない。お前達を救い、今又私が落ち着けたところじゃ。どなたかは存じ上げぬが感謝いたす」
貴更は石棺に向き直り、両手を合わせ軽く礼をします。
そして目を壁際の真新しい生活用品へと向けます。
「あの布団や鍋釜はほたるが？」
「はい。この日の為、貴更様の為に取りそろえました」
恥じらいの笑みを浮かべてほたるは答えます。その間も手は休みなく動き、部屋の隅に設けられた竃に蝋燭の火を移します。
「獣達もこの場所を知っておるのじゃな」
「はい。貴更様がここにお入りになったことも彼らは知っております。でも獣達はもうここには近づきません。火がありますし、それに私と私のわくらばを恐れておりますので」
「それじゃ、知りたかったのは。わくらばとは『病葉』と書くのか」
貴更は首をかしげて尋ねます。
「あやかしの私が使える術です。天竺渡りの恐ろしい病を操ります」
「病だと？ 獣ですら怯えておったな。待て！ 何故、私には効かぬ？ 私もあそこで紅葉に触れたぞ」
パチパチ燃える竃の火のゆらめく灯を横顔に受け、ほたるは小首をかしげます。その口元に微笑が浮かんでいます。
「お忘れですか、貴更様。貴更様が最初に私と出会った時、貴更様は私の矢傷から毒と共に私の血を吸われました。そして私は貴更様の足の指から血を吸わせていただきました。私と貴更様との血の交わりはもう済んでいたのです。その時から貴更様にはわくらばは効かなくなっておりました」
「最初に出合った時からだと。待て、ほたるは最初から私に血を吸わせるつもりで矢に当たったと言うのか！ 少し考えさせろ」
貴更は腕組みし、上目遣いにほたるを見詰めながら顔を落とします。
「おかしい・・・筋が通らぬ。ならば庭で私の足が切れてお前が血をすすった時も、足が切れるように地面に細工をしたというのか？ 何故じゃ」
貴更の激しい問いにゆっくりとほたるはうなずきます。
「何と聡いかたなのでしょう、貴更様。これまでお話ししなかったことがございます。全てお話いたします。でも、その前にお答えいただけますか？ 先ほど、私が大徳寺の家を滅ぼしたことをお詫びした時に、貴更様はいずれご自分がお家を滅ぼしていたとおっしゃいました。どういうことなのでしょうか」
貴更は唇を噛みしめ下を向きます。そして大きく溜息をついて岩室の奥の布団へと歩き、その上に腰を下ろします。
貴更の後を追ったほたるは、その目の前の床に正座します。
「話そう。楽しい話しではないがな」
膝の上で自分の両手を組み合わせ、乾いた声で語り始めます。
「お前が望月の間者と思われて大徳寺の館から逃げた後のことじゃ」
「私は父上の前に引き据えられ取り調べを受けた。もとより知らんことは言えん。お前があやかしなどと言っても通らないのは自明のこと。それに軍議から遠ざけられていた私には語るべき大徳寺の軍機すらなかったのにじゃ」
「それなのに彼らは求める答えを言わぬ私に業を煮やし、責めをかけたのじゃ」
「縛られ、吊るされ、板で打たれ、水責めにされた。父上が目の前で全て指揮し私を責め上げた。それでも私から何も聞きたいことは聞き出せなかったのじゃ」
「身内に裏切られたと思い込み、口を割らぬことも腹に据えかねたのであろう。また・・・実の娘を責め上げることで気がおかしくなったのやもしれん。縛られ水責めにされた私のあられもない姿に気が昂ぶったのかも知れぬ」
「父上は・・・私をその場で穢した」
「血走った目で吐け！ 吐け！ と叫びながら実の娘の私を狂ったように穢したのじゃ」
「父上はことを済ませると、周りの家臣達皆に私を穢させた。兵衛門が最初にむしゃぶりついてきおったわ。後の者は覚えておらぬ。だが父上は穢される私を皆の後ろから最後まで見詰めておった」
貴更は言葉を切り、乾いた唇を舐め湿らせました。ほたるは俯き、膝の上で固く自分の両手を握り合わせていました。
「翌日から私は奥座敷に軟禁された。夜は侍の寝ずの番が日替わりで付いた。だが彼らには私の身体を自由にしてよいと申し渡しがされていたのじゃ。私はそれから一年の間、毎夜館の男達に弄ばれたのじゃ。ややこを孕まなかったのが不思議な程じゃ」
「菊地の殿には、私が色好みで寝所に男達を引き込んでいる、男達は拒むことも出来ず精を絞り取られていると話しをつけていたと聞いた。菊地の狒狒めはさすがは鬼姫、頼もしいことと満更でもない御様子だったそうじゃ」
「館の中では私は下働きの者達からも蔑みの目で見られていた。父上は私の姿を見ようともしなかった」
「あの館は私が帰る館などではない！ あそこは・・・廓じゃっ！」
「そんな毎日を送りながら私は考えた。菊地の殿の側室となりその寵愛を得、あわよくば世継ぎを孕んで殿の心を掴み、菊地に根を下ろしてから私を踏みにじった父上や大徳寺の者共に復讐しようと考えたのじゃ！」
貴更は両手で自分の顔を覆い、うつむき、言葉を吐き出します。
「何という浅ましさじゃ」
顔を覆ったまま貴更は言葉を続けます。
「今になって身震いする。そんな怨念を心に秘めて一年を送り、菊地の狒狒の元へと送られる今日は密かに心を躍らせていたのじゃ。じゃが、ほたるの術の一振りで私の策略が一気に叶ってしまった」
「策略？ 何が策略じゃ！ 自分を諦め切り、菊地の殿を誑し込み、その力で怨みを果たそうとは！ これではまるで虎の威を借る・・・」
貴更はぴたりと言葉を止めます。顔を覆った両手を降ろし、ゆっくり面を上げます。
正座し固い表情で自分を見詰めるほたると正面から目が合います。
「すまぬ、ほたる。私は獣以下じゃ。嗤ってくれ。おまえの前にいるのは怨みに狂い、獣以下に堕ちた浅ましい女なのじゃ」
貴更は長く太い溜息を吐きだします。
「これで全てじゃ。つまらぬ話しじゃろう」
ほたるは姿勢を崩しません。が、膝の上で握り合わせてた両手が細かく震えています。
檸檬児
'2002-11-10