その時、館の見回りの武士が貴更の部屋の前の庭に差し掛かり、障子に異様な影が写っていることに目を剥きました。巨大な耳を持つ獣が蹲っているように見えます。さらに障子を通して明らかに貴更のすすり泣く声が聞こえてきました。
その声に獣が何かを舐めるような音さえ混じります。
「曲者！」
許しも請わず、武士はタンッと障子をたたき開けます。
武士の目に着物の襟を大きくはだけ、上気した顔に涙まみれで身を起こした貴更と、その貴更の上に覆い被さっていたと思われるほたるが素早く身を起こす姿が行灯の光に照らされて飛び込みます。
「無礼者！」
鋭く叫び慌てて着物の胸元をかき寄せる貴更には目もくれず、武士は抜刀するや部屋に駆け込み、膝立ての姿勢で自分を睨み付けるほたるへ飛びかかるや一気に太刀を降り降ろします。
「しゃっ！」
その太刀の下を人とは思えぬ敏捷さですり抜け、障子の桟で大きく跳ねてほたるは庭のはずれに舞い降ります。
中天に浮く晩秋の月にススキの穂が白く輝き、月とススキとを背にほたるは息一つも乱してはおりません。
「ほたるっ！ 私はお前と行くぞ。だから今は逃げろっ！」
部屋から貴更はほたるへ向かって叫びます。
「貴更様、お心が変わらないままでしたら花の散る頃にお迎えにあがります。それまでお待ちくださいませ」
その貴更の耳元でほたるの声が囁きます。これだけの距離が離れているのに耳元で語られたような囁き声です。
「者共！ 出合え、出合えっ！ 曲者じゃ、望月の間者じゃっ！」
武士の甲高い叫びに屋敷中の襖、障子が激しい音で開き、皆がこの部屋に殺到してくる足音が轟きます。
抜刀したまま部屋から駆け降り迫る武士の姿に、ほたるは最後に貴更へと笑いかけ、ススキの向こうへと身を翻しました。
館の者達が近辺を捜索しましたがほたるは跡形もなく姿を消し、いくら探しても影も見つかりませんでした。
そして貴更は領主の父の前に引き据えられ激しい責めを伴った取り調べを受けたのです。
結局、貴更は望月の女間者に誑し込まれて心を操られたと断じられ、その日から奥座敷に軟禁されることになりました。
見回りの武士の見た障子に映ったという獣じみた巨大な影の話は一笑に付されました。しかしその話は後に領民に伝わり、狐に誑かされた貴更姫として噂になったのです。
檸檬児
'2002-11-10