「貴更様、私も思い出したことがございます。矢の刺さった母ギツネと子ギツネのその後の話です」
ほたるが静かに語り始めます。
「母ギツネは巣穴まで逃げ帰ったものの、そこで毒が回り力尽きて死にました。２匹の子ギツネはまだ狩りの仕方も学んではいませんでした。真っ暗な巣穴の奥で子ギツネの１匹も冷たくなった母ギツネの隣で啼きながら餓え死にしていったのです」
「ほたる・・・おまえは」
貴更の両肩口には静かにほたるの両手が置かれていました。
貴更はほたるの膝の上で身を固くし、上目遣いで語り続けるほたるの顔を見上げます。
「そして残されたもう１匹の子ギツネは飢えのあまり、死んだ兄弟の骸を」
ほたるは言葉を切ります。
「喰らったのでございます」
見上げる貴更の目に、乾いた唇を舐めて湿らせるほたるの小さな舌の動きが見えます。
「暗い巣穴の奥で兄弟の骸を喰い尽くした子ギツネは、飢えに導かれるままにもう腐りかけていた母ギツネの骸をも喰らいました」
「ほたる」
「何日経ったか分からない日々が過ぎ、全てを喰い尽くし子ギツネは巣穴から出てきました。でも森での狩りははかばかしくなく、飢えのあまり子ギツネは人間の墓をあばき、死骸を喰い漁ったのです。そしてこの館のそばに隠れ貴更様を見続けることで日々を過ごしていたのです」
「ほた・・・」
「母を殺し自分を苦しめた貴更様とはどんな人間なのか、どうやって怨みを果たそうか、そればかりをくる日もくる日も思い続けて、貴更様を見詰めていたのです」
ほたるの両手の下で貴更の肩が激しく震えています。
「獣らしからぬ狩りの智慧が付き、人の墓をあばき、いくさの跡で死骸を漁る暮らしを続けるうち、子ギツネはいつか自分がキツネとも妖ともつかぬ者になっている事に気付きました。貴更様に取り入る機会を得、貴更様への憎しみを果たそうとの怨念がそうさせたのやも知れませぬ」
ほたるは口をつぐみ、貴更を見おろします。貴更は静かに目を閉じます。
二人とも動かぬまま、屋外からの風のざわめきと貴更の荒い息遣いとが部屋の中にある音の全てでした。
ふと貴更の両腕がのろのろと動き出し、自分の着物の両襟に差し込まれました。
次の瞬間、貴更は着物の襟を大きく左右に掻き広げます。
「ほたる！ その子ギツネに伝えよ！ 私ののどを噛み裂け！ 私は逃げぬ・・・噛み裂け」
目を固くつむったまま貴更は繰り返します。
「噛み裂け・・・私ののどを。喰らえ、私の心臓を」
ゆるりとほたるは身を滑らせて膝から貴更の頭を床に移し、仰向けのその身体に馬乗りになり、両腕を貴更の頭の左右の床について貴更の上半身を見下ろします。
はだけられのけ反った貴更の白いのど、その下に広がる胸の鎖骨の尖りが目に飛び込みます。白い胸は大きく上下に動いています。
「・・・すまぬ」
貴更は最後にその言葉を漏らすと口を閉ざしました。引締められたその唇は激しく震えています。
ほたるは口を半開きにして顔を貴更ののどへとゆっくり落としてゆきます。
貴更はのどに燃えるような吐息を覚えます。
熱い舌がひたりと貴更ののどに触れ、のどからおとがいへと舐め上げてゆきます。
そのままほたるの口はのどを離れ、貴更の顔の上へと移ると左目の上に落ち、鋭い音を立てて溢れ流れる涙を吸い取ります。すぐ唇は右目に移り、そこでも涙を吸い取りました。
「貴更様」
唇と唇を接っするばかりに近づけて、ほたるは静かに語りかけます。
「貴更様には涙は似合いませぬ」
その言葉には笑みが含まれていました。貴更は両目を開きます。吸い込まれるようなほたるの瞳がすぐ真上から覗き込んでいました。
「貴更様は人としてこの世で生きるにはすなおすぎたのです。短い間ですがお仕えして、私にも今なら母ギツネが最後の日に子ギツネ達を貴更様の元に一緒に連れて行こうとした時に、語った言葉の意味が分かりました」
「母はこう言ったのです。貴更様はすなおな心許せるお方だ。私達もきっと仲良くなれるだろうと」
「ほたる・・・」
着物を通して身体を重ねたほたるの体温が伝わってきます。
「森へ・・・貴更様も私と共に森へまいりませんか？ 私はもっと貴更様のことが知りとうございます」
「森へ？ 許してくれるのか？ 私を」
呆然とした貴更の顔を見おろしてほたるはやるせない微笑みを浮かべ、静かに頭を左右に振ります。
「怨みを忘れた訳ではございません。でも、私は貴更様と共にいたいのです。怨みを果たしてしまったら・・・私はもうひとりでは淋し過ぎます」
のどを鳴らしてつばを飲み込み、貴更はほたるに尋ねます。
「森へ行くのはいやだと言ったら？」
ほたるは黙って貴更をしばし見詰めます。
「私はここから立ち去るだけです」
そう囁くと、ほたるは口をつぐみ、貴更の言葉を待ちました。
「・・・すまぬ」
その言葉と共に貴更の両目から再び涙が溢れ出します。両手が襟から離れほたるの背中に回されます。
「すまぬ、ほたる。こんな私を」
ほたるはすすり泣く貴更を抱きしめ、頭をめぐらし耳元で囁きます。
「御本心に背き、詫びの気持ちからでしたら森に来なくてもよろしいのですよ。森の暮らしはきれいごとではありません。心から貴更様がお望みでしたら、私が森にお連れいたします」
そしてほたるは貴更の涙の流れる目へ口づけします。
檸檬児
'2002-11-10