猛牛奮迅
作：松本丈山 少年倶樂部 昭和二年二月号掲載
かって「のらくろ」も掲載された雑誌「少年倶樂部」の昭和二年二月号掲載の小説
作者の没後50年が経過し著作権保護期間の切れた文学作品
復刻版「少年倶樂部」誌面からスキャナーで読み取りOCR ソフトにてテキスト化
勘 兵 衛 の 意 地
これは明治二年の秋、横浜かいわいを騒がせた実際の話。
ーーーその日も勘兵衛は例の如く、海岸のよしず張りのうちで、数人の異人相手に、洋銀の取引をやっていた。
と、なんの拍子からか、話は諸国の動物談に移り、めいめい自国の猛獣を誇り合った。
「・・・日本は島国だけに強い獣はいないな。」
ジョージと呼ぶ一米人がそういうと、ほかの異人たちも、ロをそろえていった。
「そのとおりそのとおり。こんな小さい国に強い獣なんかいないサ。」
勘兵衛はそれを聞くとヒドク日本が軽蔑されたように感じた。
「なに？ 日本に強い獣がいないッて・・・ばかをいうな。日本には牛という猛獣がいる。朝鮮牛なんかとはワケがちがう。恐らくライオンだって日本の牛と戦ったら、どっちが勝つかわかるまい。」
「だめだめ、日本の牛なんか、ノロノロしている、あれでは朝鮮の虎にだってとてもかなわない。」
「朝鮮の虎？」勘兵衛ほ朝鮮と聞くとむやみに腹がたった。
「朝鮮の虎など、日本の牛の敵じゃない。あんなものは角で一突きだ。第一からだからいっても、くらべものにならないじゃないか。」
勘兵衛がそういうと、ジョージも一時にイキリたってきた。
「からだでケンカするのじゃない。虎は敏捷です。今日も本牧の見せ物小屋で見てきたが、牛なぞの比じゃアない。さすがに支那朝鮮は大陸です。強い獣もいる。日本などのような小さな島国とはちがいます。いったいきみは牛が強い強いというが、じつさいにその戦いを見たことがあるのかい。」
「ない。ないけど強いと思っている！」
「バ、バカな・・・それではお話にならん。ぼくはじっさい支部でやったのを見ています。なんならひとつ本牧の見せ物小屋に談判してあそこの虎と、牛とをケンカさせて見ようか。どうです。これがいちばん早いだろう。諸君いかがです？」
「イヤ、こいつはおもしろい！ 大賛成！」
「勘兵衛さん。きみもいまさらイヤだとはいわないだろう。イヤ、きみがいったって、こっちがいわせない。」
二、三人の外人ごろつきはカサにかかってそういった。
「さア・・・？」
さすがに勘兵衛もしりごみした。いかさま牛と虎のケンカをさせれば、きっとこの勝負のカケがはじまる。そして外人は虎へかけるに相違ないし横浜じゅうの日本人はみな牛へつくだろう。もしこのとき不辛にして牛が負ければ、横浜じゅうの銀貨をかれらにひっさらわれるかもしれぬ。これはウッカリしたことはやれない・・・と勘兵衛はしばし返答にちゅうちゅうちょした。
「どうしました。勘兵衛さん？ やる度胸はないのかい？」
「イヤ。どうせこんなことだろうと思ったよ。口ばかり強いのが日本の流儀サ。攘夷攘夷とロでばかりサワいでも、とうとう今日のように開港してしまったんだ。人間が弱いから、いる動物まで弱いのさ、ばかばかしい。イザとなればこのとおりなんだ。」
「ざまを見ろ！」
かれらは、口々に勘兵衛をののしりつつ、よしず張りを出てゆこうとした。
「待て！」
勘兵衛はキッとして叫んだ。
「この勘兵衛一人のことはがまんもするが、わが日本国のことをののしられてはもうかんべんならぬ。ヨシ！ 牛と虎の勝負、この勘兵衛しかと承知した。」
「承知した？ やらせるか？」
「勿論だ。」
「ホウ！ それアおもしろい、いつやる？」
「いつでもいい、明日はどうだ。」
「よろしい。じやア早速、見せ物小屋に話をつけようが、勘兵衛さん、こうなってはカケも少なくてはおもしろくないぞ。」
とジョージはちょっと小首を傾けていたが、
「ウム、おもしろいことがある！ 樽、酒樽一杯の銀貨をかけよう。どうだ勘兵衛さん。酒樽いっぱいの銀貨をかけるんだ。どうだ・・・それともきみには、それだけの銀貨がないのか？」
「ないものか、必ずかけて見せる。」
勘兵衛はもう覚悟した。男子としていまさらあとへは引けなかった。ぜがひでも引き受けねば男子の一分がたたなかった。
友 の 心 配
「オイ勘兵衛さん。おまえどえらいことをしでかしたなア。」
と、友だちの惣吉が、驚いて勘兵衛を尋ねたのはその晩おそくだった。
「なにを？」
「聞いたぞ、おまえ明日えらい賭けをするというじゃないか。」
「ウム、聞いたんならいうが、おれはこのんで、カケなどしたのじゃない。あまり毛唐のやつらがしゃくにさわるから、牛と虎の勝負を引き受けたまでだ。カケなんかどうでもいい、まア明日を見ていてくれ。」
「だがおまえ、そんなにおちつきはらっていてだいじょうぶか。聞けば酒樽一杯の銀貨というカケだってな。おまえそんなに銀を持ってるのか。」
「持ってる、それ見ろ、土間に酒樽があるじゃないか。」
「アッ！これがそうか、が、どうしておまえ、こんなに銀貨を・・・どこで借りてきた。」
「借りてはこない。」
「でも借りるか、盗むかしなければ、そんなにできる道理はない。いったいどうしたんだ。勘兵衛、友だちの惣吉が、まじめにきいているんだぞ。」
「アハハハハハ。」
勘兵衛はとつぜん笑いだしながら、
「惣吉、心配するな。まア、樽の中を見せてやろう。」
いいつつ土間に下りて、酒樽のふたをとると、これはまたいっぱいの銀貨！
「銀貨だな。」
「銀貨だ。しかしまア待て、ちょっと手を貸せ。」
勘兵衛は惣吉の手を借りて、酒樽を横にした。
「ヤヤ！ これは！」
「驚くな、惣吉、おれに酒樽一杯の銀貨などあろう道理はない。財産全部かき集めても上二寸だけの銀貨しかない。それから下は、コレこのとおりの石ころだ。」
「ア！ もし先方に知られたらどうする。」
「知れたら知れたときのことよ。勘兵衛はもう命を投げ出している。下の石がバレるときは牛が負けたときだ。負けたら勘兵衛は蹴を切る。なアに驚くことはない。死ねばいいだろう。」
「ようし、よくいった！そのことばを忘れるなよ！」
惣吉は、勘兵衛の手をとって、強く振った。
虎 猛 然 と し て
翌日は、朝からの快晴ーー早くもジョージをはじめかれの仲間が吹聴したものと見え、戦いの場所に選まれた海岸の、広場は朝から人の山を築いた。
ジョージらの金樽と、勘兵衛の金樽とは一段高い所にすえられた。
やがて、今日の立て役者なる牛と虎は引き出された。
かれらは自分たちが、それほどまで人気をそそっているとも知らず、ゆうゆうとして引き出された。
忽ちワッワッという騒ぎである。
そのうち、牛はノソリノソリ、広場の中央に引かれた。虎を入れた厳重な檻も引き出されてまさに戸を開かれんとした。
「いいか？」
「オーライ！」
虎の番人は手をかけていた檻の戸をスッとあけておいて群集の中にかけこんだ。
「ウー！」
虎は、喜びのウナリとともに、檻を飛び出した、久しぶりに広場へ出たためか、しばしキョロキョロとしていたが、つと向こうに牛のいるのを発見すると、がぜん目をいからし鋭いきばをむいて身をすくめた。
「ソレ出たぞ！」
「出たな！」
群集は、口々に叫ぶ。
勘兵衛は金棒のわきのむしろに端然と座していた。
ジョージらは、早くも虎の勝ちを信じているかのように、なにやらベラベラしゃべっている。
果然、虎は前足をちぢめたと見る間に疾風の如く牛を目がけて飛びかかった。
「ヤヤ！」
見る間に虎は、牛ののどぶえにキバを立てんとした。
牛はキラッて首を振った。が虎の襲撃は早い。たちまち牛の頚部からサッと鮮血がほどばしった。
すばやく身をひるがえした虎はらんらんたる怒眼に全身の毛をふるわせつつ、再び牛に飛びかからんとしている。
が牛は依然として動かない。いかれるさまもなく、ただジイッとして微動だもしない。
「ウー！」
げに山月にうそぶくという文字のとおり虎はすさまじいウナリ声を発すると、首を一振り、再び猛然と身をおどらした。
グサ！ 爪にさかれたか、見る見る牛の顔面は血に染まった。しかも虎は鮮血したたるその爪に、また飛び上がりざま牛の目をネラった。
が、牛は、なおこの挑戦に応じない。
「ウー！！」
虎は荒れに荒れた。その鋭牙を奮ってあたりきらわず食いついた。
「どんなものだい。」
といわぬばかり、ジョージらは自慢の鼻をうごめかしつつ勘兵衛を見た。
が勘兵衛は石のように動かない。かれはただ牛の目をジッとみつめているようだ。
「ど、どうしたんだろう、牛はちっとも手を出さない。」
「ええッ！ 胆が煮える。いやしくも日本獣類の王といわれる牛じゃないか。このままじゃ今にきっと倒される。ええッ！ じれったいなア！ 牛、オイ、牛！ うーし・・・ちくしょう！ どうしたんだ！」
日本人はみな声を限りに叫んだ。
最 後 の 一撃
虎は、もはや勝ち誇り顔に、ここに最後の一撃を加えんとした。
「ウー！」
身をちぢめ限をむいた虎は三度び猛然として飛びかかった。
そのときだ！
俄然牛はそのおとなしい眼をカッといからしたと見る間に、今飛びかかってきた虎の襲撃に、ヒョイと首を下げた。下げたと思った一瞬間、モロに飛びかかった虎ののどに、そのものすごい角をグサと突き刺した。
突き刺すが早いか振るが早いか、いきなり一振り、虎を角に刺したまま、ググーンとプリまわした。驚くべし。この金剛力！ 虎はウナりを生じて宙天高くほね上げられ、プンねじれるようになって、はるかの地上にたたきつけられた。
非常の深手と見えて、血は噴水の如くほどばしった。
「やったな！」
勘兵衛はバネのように立ち上がった。
「それ、もう一突きだ！」
思わず彼は腕をまくりあげて叫んだ。
が、さすがに虎も群獣の雄だ。投げ出されるより早く、あけに染まった首を振り立てながら、
「ウォーッ！」と異様の叫びをあげて弾丸の如く牛にかみかかった。
今はもうむちゃくちゃの強襲である！
牛は角を伏せると見えた瞬間プッリ角先に虎の胴を突き上げた。
「アッ！」ジョージらの色を失ったのも無理はない。ときすでに虎はギャッと地上にたたきつけられドドドドドッと血を吐いた。
「ウ、ウー！」
虎はついに苦しいウナリを発すると、もうからだが動かなかった、
・・・それは断末魔のウナリであった。
かくして猛獣の戦いは牛の勝ちに帰した。感きわまった熱涙が勘兵衛の頼を流れる。勘兵衛は勝った。日本は勝ったのだ。
しかもかれはジョージらのかけた酒樽一杯の銀貨は取らなかった。
「カケは自分の本意ではない、日本獣類の王たる牛が虎を破ればそれで充分だ。銀貨はきみたちにくれてやる。」といった。
勘兵衛は、命の恩人として永くこの牛を養った。
檸檬児
'2009-1-7