ほたるちゃんの誕生日
「ほたるちゃ〜ん」
「あ、貴更さん」
「誕生日、おめでとう！ ほたるちゃん」
「ありがとうございます。何だか恥ずかしいです。それに一緒にコンサートに行って貴更さんのお家にお泊まりなんて夢みたいです・・・それに、それに、今日の貴更さんのドレスって素敵です。レースの紅い色がバラみたいで貴更さんにとっても似合ってます」
「ありがと、照れるなぁ。ほたるちゃんのドレスも可愛いわ。アリスみたい」
「恥ずかしいです。子供っぽくないですか？」
「うぅん、素敵。あたしには着れないタイプのドレスだから羨ましいな・・・それでねっ、Maiden & Unicorn は夕方７時からだけど、ほたるちゃんのバッグを先にあたしの家に運んで、それから何かお腹を作っておこうか？ まだ２時間あるわ」
「はい、軽いものがいいです」
「それじゃサンドイッチか何にしよっ。その前にね、はいっ！ 誕生日プレゼント」
「わぁ、ありがとうございます。和風の箱、何ですか？」
「開けてごらんなさい」
「はい・・・え、貝殻と筆？」
「そ。いつも行く本屋の街に新しく江戸紅のお店が出来たの。本紅よ。こうやって貝殻の中に塗って売られているの。板紅もあったけどこっちの方が使いやすいし貝殻の方が奇麗でしょ」
「紅って、口紅ですか？」
ほたるちゃんは手を口元に当てて頬を赤らめます。
「そうよ。ほたるちゃんも誕生日を祝って紅を点けてみない」
「そんな、わたし・・・口紅って塗ったことないですし」
「大丈夫。あたしが点けてあげるから」
ほたるちゃんはますます頬を紅く染めます。
二人の他には誰もいない夕焼けの迫る公園で、貴更はほたるちゃんをベンチに座らせます。
ぎくしゃくとベンチに腰を下ろしたほたるちゃんは。ドレスの上からもその胸が大きく上下しているのが分かります。
貴更は手早く繰出し式の小筆の先に紅を含ませます。
「ほたるちゃんは、今度の誕生日で」
「15です。今日で６回目の15歳になります」
「わぁ、あたしは12月１日だけど今年で16回目の16歳だな」
ほたるちゃんは笑い出します。
「ごめんなさい、ごめんなさい。貴更さん。でも、とてもおかしくって」
「それでいいの。緊張すると唇まで固くなるから。ねっ、リラックスしてあたしに任せて」
「はいっ！」
「じゃ、くすぐったくても動かないでね、はみ出しちゃうから」
「はい」
貴更はほたるちゃんに身を寄せ、おとがいに左手を添え、右手の紅を含ませた穂先を唇へと近づけます。
薄桃色の唇は穂先に押されるままに柔らかくくぼみ、筆を引くと紅色に染まって穂先の跡から盛り上がってきます。
ほたるちゃんの大きな瞳は間近に迫った貴更の顔を見詰めています。
「小さく口を開けて。内側の方をやるから」
外周部に紅をさし終え唇から穂先を遠ざけ、貴更は囁きます。その言葉にほたるちゃんは軽く口を開きます。再び身を寄せた貴更の鼻腔に、吐息に混じるほたるちゃんの唾液の香りが漂います。
貴更は唇に接した穂先の動きを止め、生唾を飲み込みます。
ほたるちゃんは頬を赤らめたまま、大きな瞳で貴更を見詰めています。
「もう少しよ。この内側を塗ればお姫様の出来上がり」
貴更はおとがいにあてがったままの左手でほたるちゃんの両頬を軽く２回揉み、笑いかけます。
「マシュマロみたい。じゃ、続けるね」
貴更は筆を動かし始め、念入りに内側近くの唇を紅色に染めてゆきます。
ようやく紅を点け終え貴更は筆を外します。小さく紅色に膨らむ唇に目が吸い寄せられ離せません。
「似合いますか？」
はにかむほたるちゃんの声に、貴更は無言で見詰めるばかりです。
「やっぱり変ですか？ わたしには」
不安げなほたるちゃんの声で、貴更は我に返ります。
「ううん！ ねっ、ほたるちゃん。鏡を見ようよ！ あたしんちにお泊まりバッグを運んでうちの鏡でご覧なさい。さ、行こう」
言うが早いか、貴更はほたるちゃんのバッグを持ってベンチから起ち上がり先に立って歩き出します。
「あ、貴更さん！」
ほたるちゃんは、慌てて貴更の後を追います。
Maiden & Unicorn のプライベート・コンサートはカフェ・フローライトの別棟の屋敷の中にある小さな教会で７時に開演されました。
もともとカフェ・フローライトはシモーヌさんのお屋敷の玄関脇にふくらんだ広いサンルームが長いこと使われていなかったので喫茶室として散策する町の人達に開放することにしたものです。
ウェイトレスはこのお屋敷の４人のメイドさんがシフトを組んで、いつも２人が顔を出しています。
お屋敷のコック兼パティシエのルイスの焼くケーキとメイドさんの入れる英国式のお茶が評判を呼び、いつも静かな賑わいを見せています。
ルイスはまたシモーヌさん率いるバンドMaiden & Unicorn でキーボードを担当しています。
今日のコンサートの行われた教会はお屋敷本体の中にあり、観客は喫茶室に掲示された案内に応募したごく気心の知れた人達ばかりでした。
ケルト世界に想いを馳せるシモーヌさんの作曲したメロディーと歌詞、更に発掘してきた古いバラッドを中心に、５人のアンサンブルは電子楽器も使いながらほぼアコースティックな響きをうねらせて、コンサートはゆっくりと盛り上がってゆきます。
ほたるちゃんと貴更はよくカフェ・フローライトでお茶を楽しみました。町の外れのこの洋館付きの趣味の良い喫茶室で二人で過ごす時間は、特別な時間でした。
喫茶室のいわれを知り、街のケーキ屋とは一味違うケーキを二人で楽しむのは贅沢な喜びでした。
この店のことを何も知らずに最初に来た時に店内で売られていたCD を見掛けた貴更が驚いて、街のコンサートに時々参加する謎のバンドであること、以前から気にいっていたことを一緒にいたほたるちゃんに話し、それ以来よく通うことになったのです。
Maiden & Unicorn のリーダーのシモーヌさんがこのお屋敷の主であることが一般に知られていなかったのは、資産家のお嬢さんの道楽芸と思われたくなかったので広く言わなかったからだということを貴更達が知ったのは後になってからでした。
今日の夕方のコンサートの聴衆も何度か喫茶室で出会った顔だけ知っている人が目立ちます。
ほたるちゃんと貴更は並んで席に腰をおろしています。
ほたるちゃんはやや固い表情をし、唇にはもう紅は点いていません。足元には貴更の家に置いてくるはずだったお泊まり用バッグが置かれています。
話は２時間前に遡ります。
貴更に引っ張られるように彼女の家に着いて一緒に玄関の鏡を覗き込んだほたるちゃんは、唇どころか顔まで真っ赤になりました。
「恥ずかしいです、貴更さん。こんな大人っぽいのわたしには早すぎます！」
「どうして？ こんなに奇麗なのに。とっても素敵よ。バラみたいに紅くって凄くほたるちゃんに似合うわよ」
貴更は両手で顔を覆って激しく恥じらうほたるちゃんの姿に戸惑います。
「だめです！ こんな顔でわたし外へ行けません。町の人やフローライトの人達に見られたら死んじゃいます」
いくらなだめても、ほたるちゃんは聞きません。涙すら浮かべかねない恥じらいぶりにとうとう貴更は苦笑します。
「分かった。ごめん。じゃ紅を落として一緒に食事に行こう。ねっ」
うつむいたほたるちゃんを軽く抱き寄せその肩を貴更は元気に叩きます。
ほたるちゃんの動きがピタリと止まります。
貴更の腕の中でおかっぱの頭がおずおずと持ち上がり、貴更の顔を見詰めます。
「・・・ごめんなさい、貴更さん。せっかくの貴更さんのプレゼントなのに、わがまま言って」
濡れた大きな瞳が間近から貴更を見上げます。紅色の唇が開き小粒の歯がその奥に見えます。震える吐息に乗って、ふわと、ほたるちゃんの唾液の香りが鼻をくすぐります。
これで二度目でした。
貴更の両腕は凍りつきます。
半開きの紅い唇から目が離せません。
「貴更さん？」
怪訝そうなほたるちゃんの問い掛けに貴更は生唾を飲み込みます。
「紅・・・あたしが落としてあげる」
こわばった声で囁くと、貴更は両手でほたるちゃんの頬を包むように押さえ、紅い唇へと顔を落としてゆきました。
３分だったか５分間だったかわからない時間の後、身体を離した貴更の長髪は激しかった動きに乱れていました。
ほたるちゃんは立ちすくんだまま、固い表情で貴更を見詰めます。
唇の周りに薄くなった紅がでたらめな模様を描いています。
「ごめん、ほたるちゃん」
貴更はほたるちゃんの視線の前でうつむきます。
「貴更さん・・・怖かったです」
「ごめんなさい。軽蔑して、あたしを」
「謝らないでください。明日になれば・・・きっとわたし今まで通り貴更さんとお話できます。でも、今夜はお泊まりしません。ごめんなさい、貴更さん大好きです。でも今は」
ちらと、ほたるちゃんは玄関の鏡に映った自分の顔に目を走らせます。右手が上がりそっと唇の上を撫でます。
「洗面台、お借りします」
言い残すとほたるちゃんはバスルームのドアの向こうに消えました。
ドアの向こうから聞こえてくる洗面台に弾ける水の音を聞きながら、貴更は両手で顔を覆って壁に背中をあずけます。
コンサートは快い緊張の内に盛り上がり、最後にシモーヌさんの新作ラブソング「冬のアイスクリーム」が始まりました。
趣向を変えてケルトものではなく現代を舞台にした歌と前置きをし、それまで奏でていたバイオリンを置いて、シモーヌさんのアルトが静かに流れ始めます。
凍てついた北の果て、海辺への道を二人は歩む。
氷すら凍りつき、河は硬く流れを止める。
空気はハガネの硬さで白い木々を抜けあくまでも澄み渡る。
世界にいるのは二人だけ。流れのない川べりを何も語らず二人は歩み続ける。
どこまでも広がる白い地平線と灰色の空。
動くものは二人の影だけ。
なのに二人は何も語らず歩み続ける。
互いに触れ合うこともなく二人は海辺を目指す。
二人の間を吹く風はガラスのように透き通り、ただただ冷たい。
貴更の家で共に気まずい時を過ごした後、二人は予定していた食事も摂らず早めにカフェ・フローライトに到着しました。
この日のコンサートを申し込んだ時に、そこに居合わせたシモーヌさんはこの日がほたるちゃんの誕生日であることも知っていて、当日を楽しみにしていると話しかけられたこともあって、コンサートまで行くのを止める訳にはいかなかったこともあります。
シモーヌさんの笑顔を裏切る気にはなれませんし、何より二人ともMaiden & Unicorn の音楽が大好きだったびです。
会場の小さな教会の席に並んで腰を下ろし互いに言葉を交し合わない二人に、開演前に話しかけたシモーヌさんは合点のいかない表情でした。
「演奏、楽しみましょう」
開演直前にほたるちゃんは貴更を向き、ぎこちない笑顔で囁きました。
貴更は小さく頷きを返しました。
目の前で生演奏を繰り広げる大好きなバンドの姿と、会場に満ち全身を包む音楽の響きは心を日常から高く舞い上げます。ほたるちゃんはのめり入るように音楽のうねりに身を任せていました。隣に貴更が座っていることすら意識から離れていました。
そんな高潮した耳に、フィナーレを飾るこの歌は極北の凍てついた海辺を歩む二人の情景を語りかけます。
二人の立つ海辺に他に人影はない。
氷すら凍りつき、海は世界の果てまで白く広がる。
空気はハガネの硬さで二人の間を抜けあくまでも澄み渡る。
世界にいるのは二人だけ。凍りついた海辺で何も語らず二人は佇む。
どこまでも広がる白い水平線と灰色の空。
佇むのは二人の影だけ。
なのに二人は何も語らない。
互いに触れ合うこともなく視線さえ交えない。
二人の間を吹く風はガラスのように透き通り、ただただ冷たい。
短調で語り続けた歌が、ここで伴奏と共に一気に長調に転じました。
シモーヌさんはアルトからメゾソプラノへかけて声を伸ばしながら最後の歌を歌い上げます。
一人が渡すアイスクリーム。
紙袋の中の二つのアイスクリーム。
分け合う時に視線が交わる。
並んで見詰める白い海の果て。
氷すら凍りつくガラスの風の中、唇に触れるアイスクリームは暖かい。
世界にいるのは二人だけ。凍りついた海辺で二人はアイスクリームを食べる。
風は凍ったハガネの硬さだけど、並ぶ二人の唇にアイスクリームは柔らかく暖かい。
どこまでも広がる白い水平線と灰色の空。
佇むのは二人の影だけ。
二人の間には誰も入れない。
互いに触れ合わず視線さえ交えなくとも、二人の唇は同じ暖かさを感じ合う。
二人で食べようアイスクリーム。
誰もいない世界の中で、真冬のアイスクリームを。
世界の全てが氷で満ちても二人の間には誰も入れない。
両手を大きく広げてシモーヌさんが歌い終った後をインストゥルメンタルが後奏を掻き鳴らし、コンサートの最後を締めくくりました。
演奏後の拍手の中、聴衆に手を振って廻っていたシモーヌさんはふいにステージの上に用意してあったバラの花束を手に取りました。
そして花束を握った右手をピタリと観客席後方に座っていたほたるちゃんの方に突き出すとウィンクし、
「Happy Birthday ! ほたるちゃん！」
と叫ぶや、大きく花束を振りかぶりました。
シモーヌさんの手から放たれた真紅のバラの花束は、教会の椅子に座る人々の頭上を大きく弧を描いて飛び、
突然のシモーヌさんからの名指しにぼうとなったほたるちゃんの腕の中にすっぽりと納まりました。
周りの聴衆も笑顔で皆ほたるちゃんを向いて拍手を送っています。
「素敵！ 真っ紅な色がほたるちゃんに凄く似合ってる」
貴更も隣で顔を上気させて手を叩いています。
「カフェ・フローライトのバースディ・プレゼントね、いいなあ」
聴衆の一人の女性が笑顔で語りかけます。
花束を抱きしめたまま、周りを見回していたほたるちゃんの目に、ステージで笑顔を浮かべて手を振っているシモーヌさんの姿が入ります。
「あ、ありがとうございます！」
ほたるちゃんは慌てて立ち上り、シモーヌさんに頭を下げます。
そのほたるちゃんに、更に大きな拍手が周りから沸き起こります。中でも一番夢中で手を叩いていたのは貴更でした。
「ありがとうございます、皆さん」
ほたるちゃんは真っ赤な顔のまま、周りの人々に礼をします。
コンサートが閉会になり、ほたるちゃんと貴更は並んで帰りの夜道を歩いていました。道には二人の他、誰も歩いていません。
さっきまでの興奮が嘘のように、貴更は口をつぐんでいます。
「貴更さん」
ほたるちゃんは語りかけます。やるせない目で貴更は振り向きます。
「このバラ、貴更さんにも似合います。半分っこしましょう！」
あわいほほえみが貴更の口元に浮かびます。
「いいの、気を使ってくれなくても」
顔を正面に戻し、貴更は歩き続けます。
「貴更さん。お願いがあるんです」
「なあに？」
貴更は顔を正面に向けたままです。その横顔にほたるちゃんは語りかけます。
「わたし、わたし、今夜貴更さんのお家にお泊まりしたいんです」
貴更は足を止め全身で向き直り、ほたるちゃんを見詰めます。
「泊めてください！ お願いします、わがままだと思います。でも、泊めてください！」
冷えた夜風が立ち止まったまま佇む二人の間を吹き抜けます。
貴更は何度か口を開きかけ、その度に口を閉じます。
ほたるちゃんは大きな瞳で貴更を見詰めたまま佇んでいます。
ふいに笑いの発作が貴更の胸の奥から沸き起こり、のどから溢れます。
ほたるちゃんは静かに笑い続ける貴更を見詰めています。
笑い終った貴更の目尻には涙が滲んでいました。
「分かった、行こ」
もぎ取るように、貴更はほたるちゃんの手からお泊まりバッグを奪い、先に立って歩き始めます。
「はいっ！」
はじかれたように、ほたるちゃんはその後を急ぎます。
ほたるちゃんを連れて自分の部屋に一緒に入ると、ベッドの横から貴更は布団に仰向けに倒れました。
その目は天井を見詰めます。
足元にほたるちゃんが立って自分を見おろしています。
「ごめん、ほたるちゃん。あたし、せっかくの誕生日なのにほたるちゃんに似合うって勝手に思って紅選んだりして。あたし一人で舞い上がってた。ほたるちゃんを着せ替え人形か何かみたいにして。それにあんなことまでしちゃって・・・ごめん！ それなのに、ほたるちゃんにこんなに気を使わせちゃって。あたし」
声が途切れ、貴更は両手で顔を覆います。
ほたるちゃんが動く気配がベッドの反対側に回り込みます。
布団に重みが掛かり、ベッドの反対側から自分の横にその気配が横たわります。
貴更は手を顔から外し、頭を回します。
触れ合う程の近さから、ほたるちゃんがその大きな瞳で見詰めています。
「ごめんなさい、貴更さん。わたし紅を点けてもらってとても嬉しかったんです。でも恥ずかしくてすなおに喜ばなかったんです。それがこんなに貴更さんを傷つけたなんて、ごめんなさい」
貴更は語るほたるちゃんの瞳と唇を黙って見詰めます。
「貴更さんに触れられたことも本当は嬉しかったんです。でも、すなおじゃなかったんです。貴更さんがあんまり真剣で、怖くて・・・ごめんなさい！ わたし、こんなことで」
貴更は左腕を伸ばして、手の平でほたるちゃんの髪を撫でます。さらさらした髪が指の股にからんで通り過ぎます。
「やめよっ、謝りっこは」
「でも」
「うん。あたしもほたるちゃんに謝りたいこと一杯あるの。でも、きりがないよ、あたし達じゃ。それよりせっかくのお泊まりなのよ。お泊まりらしく過ごそうよ」
「はい」
「ねっ、お腹空かない？ 何も食べてなかったよね、あたし達」
「はいっ！ ぺこぺこです」
「じゃね、もうこの時間お店開いてないから、一緒にお台所で何か作ろっ！ 食べながらお話しましょよ。明日は日曜で寝坊できるし、夜はまだ長いのよ」
「はいっ！」
うなずき合うと、逆方向の身体の向きで二人は顔を見合わせたまま笑い始めました。
笑い終えても二人は起き上がりません。貴更の左腕は伸びてほたるちゃんの髪に手先が埋まったままです。
「ねっ、ほたるちゃん。今でもあたしが怖い？」
横になったまま貴更はほたるちゃんの瞳を見詰め、囁きます。
一拍置いて、ほたるちゃんは答えます。
「はい、怖いです」
髪に埋もれた貴更の指がこわばります。
「でもわたし、自分がもっと怖いです」
ほたるちゃんは貴更の視線から目を逸らせずに言葉を続けます。
「怖いのに、もっと一杯触って欲しいって、そう思っている自分が怖いです。どこまで行っちゃうか分からないのに」
ほたるちゃんは目を伏せ言葉を切ります。が、すぐ目を開き再び貴更の瞳を見詰め返します。
「触ってください！ わたしも貴更さんに触りたいです」
貴更が唾液を飲み込む音がほたるちゃんの耳にもはっきりと聞こえました。
笑みが貴更の頬に浮かび、髪に埋まっていた手の平が軽く何度かほたるちゃんの後頭部を叩きました。
「ありがと」
貴更は首を回して仰向けに天井を見上げます。
「それであたし救われた」
ほたるちゃんは貴更の横顔を見詰めます。
「ねっ、歌って凄いね」
天井を見上げたまま貴更が呟きます。
ほたるちゃんは黙っています。
「どうなっちゃうのか、どうしたらいいのか分からなかったのに、心が開いちゃうなんて。あたし、もうこれからどうなっちゃうかって途方に暮れていたのに」
後頭部にあてがわれた貴更の左手に、ほたるちゃんは自分の右手を重ねます。
「歌っていいね」
貴更の声がその口から漏れます。
ほたるちゃんの左手が貴更の左腕の上を滑って手の平の下にもぐり、その手の平を両手で包んで頭から外します。そして頭をめぐらし、両手で包んだ貴更の手の甲に静かに口づけをしました。
「貴更さん」
手に覚えた感触に振り向いた貴更にほたるちゃんは語ります。
「わたし、貴更さんの為なら歌をうたいます。シモーヌさんみたいじゃなくても。だから、貴更さんそんな顔しないでください！」
ほたるちゃんの両手は貴更の左手をしっかり握りしめています。目を丸くして貴更はほたるちゃんを見返します。
見詰めあったままほんの数秒ほどの時が流れ、貴更は俯きます。隠れたその口から含み笑いがこぼれます。
「やっぱり起きよっ」
勢い良く顔を上げると、貴更は身を起こします。
「ほたるちゃんも起きよっ」
「貴更さん」
ほたるちゃんもおずおずとベッドから身を起こし、二人はベッドの左右に分かれて立ちました。
ベッドを回り込んで貴更はほたるちゃんの元に歩み寄ります。
「ありがと、ほたるちゃん。ほたるちゃんの誕生日なのに、あたしの方が一杯もらっちゃった。ねっ、うんとご馳走させて。お台所に行こっ」
「はいっ！」
ほたるちゃんは大きくうなずきます。
「でも、驚いちゃった。ほたるちゃんが歌をうたうなんて」
「あ、わたしうたうのも好きなんですよ」
キッチンへと歩きながら二人は話します。
「じゃあ、今度聴かせてね。今夜はもう遅いから」
「それじゃ、今夜貴更さんに聴かせちゃいます」
「え？ だって」
貴更は思わず立ち止まります。
「今夜の貴更さんの夢に出てコンサートを開いちゃいます」
一瞬目を丸くした貴更はまばたきするや笑いだしました。
「まいったなあ！ さ、行こう」
二人はさんざめきながらキッチンへ入ってゆきました。
檸檬児
'2003-7-28