せみ
有明での初めての真夏のコミケットでサークル「月月火水木金堂」は今回セーラー戦士全員のキャラ本を新刊で打ち出すという荒技で臨み、全巻完売という壮挙に、五人はすっかり舞い上がっていた。
当初予定していた東京駅八重洲口近くの打ち上げ会場が当日は休業だったことが判明し、会場確保担当の美奈子は狼狽していたものの、たまたま同日開催されていたシネマアベニューをはるかと共に見に来ていたみちるとガレリア２階のカレー王国で昼食の時に出会い、マサラ・ランチを共にしながらその話をしたところ、お台場公園にある海王コンツェルンのスポーツセンター７階のレストラン海王のプライベートルームを、みちるのはからいで予約してもらえることになった。
この時、優雅にアポイントをとるみちるの姿を見ながら「やっぱりイベントでは携帯って便利だわ」とレイは思ったものの、それはここでは関係のない話。
黒く広がる東京の街をシルエットに赤い夕日が沈んでゆくのがレストランの優雅な造りのプライベートルームの広いガラス窓から見える。視線を転ずると車の光点を連ね下からライトアップされたベイブリッジが、その灯を黒い水面に反射している。
スポーツセンターでシャワーを借りてさっぱりした肌に用意してきた新しい肌着が快い。
みちるの差し入れのオーストリア・ワインで乾杯をし、五人娘達は上機嫌で打ち上げを楽しんでいた。
強引な核実験の強行を嫌ったみちるが去年から全面的に傘下のレストランからフランス・ワインを締め出したということもあるが、そのワインはボーデン湖のほとりのスイス国境近くのワインセラーで熟成したという逸品でもあった。
「あれが東京タワーだねえ」
窓際の席のうさぎはワインで目のふちを赤らめ、窓枠に腕をもたれてつぶやく。
紫とオレンジ色の縞を見せる西の地平線を背景に、鋼鉄で組まれた黄金樹が浮き上がり、その全身に白い光点をちりばめる。
「そうね、あたしたちあの金色の樹のふもとからやって来たのね」
隣の席のレイがやはり赤らんだ顔で、うさぎの後ろから東京タワーを共に眺めながらささやきかける。
右手がそっとうさぎのおだんごから伸びる髪をくしけずる。くすぐったいうさぎの髪のにおいがふわと漂う。
テーブルの上の料理はあらかた片付き、満たされつくしたおなかにワインはまんべんなくしみとおっている。
みちるはワインは飲み放題にと、フロア長の君津に伝えていた。
それを聞いて追加を遠慮するような幹事の美奈子ではなかった。
「おいしい」
猛暑の東館で渇き切った亜美の喉に冷えた白ワインは水のようにいくらでも飲み込まれていった。
「いい飲みっぷりだねえ、亜美ちゃん。大丈夫？」
ボトルを持ったまま、まことはグラスを空ける亜美の上向きになった喉を見つめる。白い喉がゆるやかに動き、その奥をワインが滑り降りてゆくさまが快くまことの目に映る。
空になったグラスから唇を外し、のけぞったまま亜美は横目をまことへ向ける。
流された視線が喉を見つめていたまことの視線とからみ合う。
ワインで赤くなっていたまことの頬がさらに赤らむ。
「うふふふふ、まこちゃあん。今日ね、亜美・まこのとってもいい本、見つけたんだ」
くすくす笑いをしながら、亜美は狼狽顔のまことをよそに足元の小さなバッグを開く。他の娘達のバッグとは異なり、あれだけの大きな即売会であったにもかかわらず、同人誌は４、５冊程度しか入っていない。
「わあ、だめだよ。こんなところで本出しちゃ」
一応慌てたポーズをとるまことの前のテーブルに亜美は１冊の小版の同人誌を置く。原作とは異なった絵柄で寄り添う亜美とまことの顔が表紙に大きく描かれた本だった。
「ここにはあたし達しかいないわ、気にしなくても大丈夫よ。あのね、大人になったあたし達のお話しなの。まこちゃんは記憶喪失になっちゃって、女医になったあたしがまこちゃんを連れてアメリカに行っちゃて、そこで二人っきりで暮らすの。あたしスペースで読んでて泣いちゃった」
完売の表示の続く自動販売機をめぐって、ようやく冷えたウーロン茶を手に入れスペースに戻った時に店番をしていた亜美が涙ぐんでいたことをまことは思いだした。
タチの悪い客にいやがらせを受けたものといきり立ったまことに、亜美は同人誌を読んで泣いてしまったと弁解していたが、それは本当のことであったらしい。
「ねっ、素敵でしょう？まこちゃんはあたしが守るからね。何があっても守るからね」
まるでインコが見上げるような、亜美のうるんだ目に見つめられ、まことは口ごもる。
「それって、あたしの立場は？」と亜美の話を聞いて覚えたささやかな疑問はとても口に出せない。
まことはチラとテーブルの上のワインの空き瓶を横目で数える。
４本！
それも、黙々と飲んでいただけに、亜美が５人の中で一番グラスを空けていた。
「ああっ、もおっ！」
隣席と向かいの席の妖しげな雰囲気に美奈子がいきり立つ。
「この部屋、カラオケあるじゃないのっ！パーッとみんなで唄いましょうよ」
椅子から立ち上がり部屋の隅の小ステージに近付くと、美奈子は勝手にヤマハのポータブル・ミクサーのスイッチを入れてゆく。ブンとＪＢＬ製のステージモニターから幽かなハム音が漏れ始める。
「あっ、美奈子ちゃん唄うのぉ？一緒に唄おっ」
その様子に気付いたうさぎが、椅子を引いて元気に立ち上がる。レイの手の中からするりとうさぎの髪が逃げる。
にらみつけたレイの視線を美奈子は軽くやり過ごす。
「おしゃああ〜！１番、愛野美奈子。いい子はやめたを唄いま〜す！」
「きゃははは、それじゃぶんぶん、玉乗りしてぇ！」
うさぎが亜美をピタリと指差す。
「え？え？え？」
ふいにうさぎに指名され、亜美はまことから視線を外してうろたえる。
「美奈子ちゃんの次は亜美ちゃんが唄うのよ」
既に始まった美奈子の絶唱をバックにうさぎが負けじと声を張り上げる。
「歌って、あたし歌知らない・・・」
「じゃさ、何か芸でもいいわ。あ、水芸はダメよ」
笑いながらうさぎは言い残すと、ステージに駆け寄り美奈子とデュエットを始める。
亜美はとまどってまわりを見回す。
対面のレイは歌詞集を必死の形相でめくっていた。そして「永遠のメロディー」を見つけるやニィーっと笑みを浮かべてステージの二人をにらむ。
「亜美ちゃん、簡単な一発芸でいいんだよ。そんなに悩まなくっても・・・」
右の人差指をくわえて考え込んだ亜美に、まことは声を掛ける。
「まこちゃん！これにはあたし達の将来がかかっているのよっ。あの娘達に負けるわけにはいかないのよっ」
思いがけない剣幕にあっけに取られたまことをよそに、亜美はさらに考え込む。
「そうだわっ」
突然小さく叫ぶや晴れ晴れとした顔で亜美は立ち上がり、部屋の隅へ行き、ステージそでの厚いカーテンを引いてその蔭に隠れる。
ステージでは双子のようにシンクロした振り付けの美奈子とうさぎのデュエットが終わろうとしていた。
まことはカーテンの蔭のもそもそした動きが気になっていたが、喉の渇きに氷を浮かべたジャーの水をグラスに注いだ。
ようやく美奈子とうさぎの唄が終り、拍手した後でまことは水を飲み始めた。
「それじゃ、次は亜美ちゃんの番ね。亜美ちゃん、はいっ」
ステージのうさぎがステージ横のカーテンの蔭から伸びた白い腕にマイクを渡した。
マイクを受け取った亜美がカーテンの蔭から現われた。
何か妙な感じだった。水を飲みながら目をこらしたまことには、それは亜美がさっきまで着ていたサマージャケットを後ろ前に羽織っているからであることに気がついた。
「２番、水野亜美。セミヌードをします」
ぶーっ！
かろうじてまだ口に残ったわずかな水を喉の奥へと飲み込んだまことは、正面の席のレイを怯えて見つめる。レイは落ち着いてハンカチを取り出すと顔と髪を拭き始める。
「ひゅーひゅー、亜美ちゃん、やるう」
両手を合わせてレイに詫びるまことを尻目に、テーブルに戻ったうさぎが拍手をする。
ステージの亜美はマイクを置くと、すたすたとテーブルの横の窓に近付き両手で左右にガラス窓を開ける。夜風が人工的な冷房の効いた室内にさわやかに吹き込む。
亜美は後ろ前に羽織ったサマージャケットをぐいと前に向けて手首の位置までたくし上げる。ジャケットの下は素肌に肌着のみであった。
一番下のボタンで引っ掛かったジャケットから脱ぎ掛けになった亜美はまるで殻の背中が割れて上半身が飛び出したように見える。
むき出しになった白い上半身にさらに白いブラジャーが眩しい。
頬を紅潮させた亜美の前髪を窓からの夜風がそよがす。
両側が外に向かって開いた窓枠を両手で握ると、亜美はひょいと両足をも窓枠にからめてしがみつく。
「セミヌードッ！」
耳まで赤くなった顔をテーブルの娘達に向けると亜美は元気に叫ぶ。
「み〜んみんみん、み〜んみんみん」
あっけにとられた４人を尻目に、亜美は唄うように鳴き始める。
「お客様、コーヒーを」
その時、ドアが開いてフロア長の君津が顔を覗かせる。
「失礼いたしました」
部屋の中の様子を一目見るや、彼は一瞬顔をこわばらせたものの何もなかったように顔を引っ込めた。
「み〜んみんみん、み〜ん、み・・・みん」
なおもなき続ける亜美に、まことが席を立って近付く。
「いいんだよ、もう。亜美ちゃん、もう鳴かなくたって、なか・・・」
まことを見上げた亜美の顔を見て、まことは言葉を飲み込む。
まことはそっと両腕を伸ばして亜美のむき出しの背中とももの下にまわし、しっかりとその身をかかえる。汗ばんだ肌が血の気が失せたようにひやりと冷たい。
「泣かなくてもいいんだよ。あたしがずっとついててあげるから。ねっ」
震え涙があふれ続ける瞳が下からまことの瞳を覗き込む。
「まこちゃん、あたし」
亜美の両腕が窓枠を離れまことの背中に回される。
そろりと亜美の両足を窓枠から離すと、まことは亜美を抱きかかえて窓際から離れる。
「あたし、酔ってるから言うんじゃないわ。まこちゃん、あたし、あたし・・・うぷっ！」
ふいに亜美の顔色が変わったのを見てとるやいなや、まことは亜美をかかえて電光石火の勢いでプライベートルームづきのトイレへと駆け込み、慌ただしく閉めたドアの向こうに消えた。
「まっ、しょうがないわね」
美奈子が両手を広げて肩をすくめる。
「亜美ちゃん、大丈夫かなあ」
うさぎが眉をひそめてドアを見つめる。
「大丈夫だって、まこちゃんがついているんだもの。気がついてた？まこちゃんがワイン勧めたら亜美ちゃん全部断らずにグラスに受けていたのよ」
レイがいとおしげな微笑みを浮かべて、ドアを見つめる。
「もう、大丈夫かい」
全開にしたトイレの窓からの夜風は嘔吐の際に吹き出した汗でねばつく肌に快い。
脈拍の音がずきずき響く耳にまことの言葉が柔らかく忍び込む。洗面台も洋式便器も金線の入ったアイボリー色で輸入品らしい。その閉じた便座の蓋の上に座り込んだ亜美がふらつく視線を上げると、気づかわしげなまことの顔が覗き込んでいる。
「ごめんなさい。ぶざまなところを見せてしまって。調子に乗ってあんなバカして」
「ううん。でもさ、アミゼミ・・・かわいかったよ」
血の色の失せていた亜美の顔にかすかに朱が浮かぶ。
「恥ずかしいわ。自分でもなんであんなことしたのか分からない」
まことが差し出す水道でひんやり冷やしたタオルで顔をぬぐい、首と身体を拭くとようやく人ごこちがつく。
「もうお酒が飲める歳だけど、やっぱり飲み過ぎちゃったね。勧めたあたしもごめんね」
「お酒が飲める歳・・・１６歳って結婚も出来る歳になったのね、あたし達」
亜美が沈んだ口調で呟く。
その口調にまことは怪訝な表情を浮かべる。
「あたし達が初めて出会ったのは中二だったわね。覚えてる？まこちゃん。あたしが抱いていたルナの喉を、まこちゃんがくすぐったのを」
まことは黙ってうなずく。
「それからいろんなことがあったわね。だけど中二を終わらないうちにクインベリルとの最後の戦いであたし達死んじゃったわね」
汗の引いた身体を窓からの風は冷たくなぶる。
「時々、あたし思うのよ。あたし達は本当は北極で死んでしまって、ここにいるあたし達は死んだその子達が見たかった夢の姿じゃないのかなって」
夜風がごうと二人の回りで渦をまく。
亜美は自らの肩を抱きしめ、うつ向く。
先程脱いだサマージャケットをまことが手渡すと亜美は礼をいいつつ素肌に羽織る。
「夢ならば、ずっと中二のままでいたかったな。歳をとらないで、ずっとみんなやまこちゃんと一緒にいつまでも子供のままでいたかった。お酒を飲んだりすること覚えなくたってよかったのに。蝉の幼虫みたいにずっと子供のままでいたかった。歳をとって、あたしは医者に、まこちゃんは社会人になって大人の世界での生き方がズレてきて、いつか別れなきゃいけなくなったりしたらってことまで考えたら、とても怖い。まこちゃんがいない世界を私が自分で選ばなければならなくなる時が来るかもしれないなんて」
まことはうつ向いた亜美の頭をじっと見下ろす。
「亜美ちゃん。蝉の脱皮の本物って見たことある？」
しばらくの沈黙の後、まことは口ごもるように語り始める。
「いいえ、本で見ただけ」
けげんな顔で見上げ、亜美は答える。
「あたしさ、小さい頃、田舎にいたんだ。夏の朝の４時ごろ家の近くの林でアブラゼミの脱皮を見たことがあるの。殻から出たばかりの蝉って、薄緑がかったまっ白で透き通って触ったら壊れちゃうみたいで、まるで妖精みたいなんだよ」
亜美は熱心に語るまことの顔を見つめる。
「この子は守ってあげなくちゃいけないんだって、子供心にも思って見つめていると、１時間ぐらいでだんだん羽根と身体が茶色になってきて、見るからに丈夫そうになってゆくんだよ」
「大人になって汚れてゆくのよ」
「違うんだよ、亜美ちゃん！蝉はね、これから飛び立つ世界に負けないように、逞しく強く自分の力でなってゆくんだよ。本で読んだり人の言葉だけじゃだめなんだ。本当に自分の目で見てごらん。朝になって蝉がすっかり一人前になって飛び立つのを見て、おめでとう！頑張ったねっ！って、あたし蝉に手を振ちゃったよ」
まことは恥ずかしそうに頭を掻く。
「あのね、あのね・・・さっきの亜美ちゃんゼミってね、羽化したばかりの妖精ゼミにそっくりだったんだ」
頬を赤く染め、まことは最後の言葉を一気に語り終える。
亜美ははにかむまことの顔をじっと見上げる。
静かに静かにその頬に微笑みが浮かびあがってくる。
「そうね、夢であっても何であっても、あたし達は今はこの世界にいるんだものね・・・まこちゃん！」
ふいの呼びかけに、まことは怪訝な顔にそれでも笑みを絶やさずに亜美の次の言葉を待つ。
「あたしも自分を信じてみる。今日みたいなみっともないことあるかもしれないけど、あたし行けるところまで信じて行き続けるわ。まこちゃん、あたしを見ていてね」
「うんっ！」
まことの顔にぱぁっと明るさが広がる。
亜美はゆっくりと立ち上がり、まことへと手を伸ばす。
「さ、行こう。みんなが待っていよ」
伸ばされた亜美の手をとり、まことはドアを指し示す。
亜美は笑顔で応えるとまだふらつく足を踏みしめて、回りから明かりの漏れるドアに向かって、まことと共に歩きだした。
レストラン海王を見上げる波が打ち寄せるコンクリートの岸に黄色いオープンカーが停っていた。
「君津、泣いてたわ」
助手席で携帯電話をしまいながら、みちるが溜息をついた。
「女の子がみんな君みたいな上品な礼儀作法の客ばかりじゃないさ。ニューグランドから引き抜いてきて最初にあてがわれた客があれじゃあねえ」
運転席に背をあづけ、はるかは７階のレストランのプライベートルームの窓を見上げて小声で笑う。
「ずいぶんにぎやかみたいだったわね」
「ああ。美奈子の叫びが外まで聞こえた」
「ボクは間に合わなかった」
みちるが言葉を続け、二人は顔を見合わせて笑う。
「なんだったっけ、この言葉？」
「刻を越えて永遠に若いまま生き続けるヴァンパネラ達の物語のよ」
「そうだったね。思い出した。素敵なファンタジーだった」
「悲しいファンタジーよ」
海風は岸辺の二人の髪をなぶり、ビルの７階プライベートルームの開いた窓から突然沸き起こった拍手の音を、既に星々が煌めく東京の空へと舞い上げた。
了
同人サークル「瀬」
檸檬児
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2000-9-27