想い出の夕焼

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「ケンカばっかりしていたけれど　　たのし　　　かった　　ね」

　呆然と立ち尽くすセーラームーンへとかすかな笑みを見せると、セーラーマーズは静かに目をつむり、氷の床へと身をあづける。
　まだ意識の消えやらぬその耳に、ためらいつつ氷原を立ち去って行くセーラームーンのたよりない足音が聞こえる。
　やがてその音もかなたへと消え、北極の氷原を渡る風の音だけがマーズの耳をなぶる。

　ゆっくりと刻が過ぎてゆく。
　膨大な失血と冷気に身を蝕まれ、もはや指１本動かすこともかなわない。
　冷気は痛みと化し、その痛みすら既に鈍い痺れとなり、身体が蝋細工のように自分のものとは思えない。
　地底に引き込まれるような眠気がマーズをいざなう。

「こうやって死んでいくんだ」
　ぼんやりとした意識の中で、恐怖はなかった。
　死ぬ前に走馬灯のように、これまでの一生を返り見ると言われていたけれど、そんなこともない。
　この眠気に身をまかせれば、そのままでいいんだと、不思議な安心が心を包む。

　その時だった。
　ふっ、ふっ、ふっ、と犬の鼻息をもっと太くしたような音が耳に響く。
　妖魔の生き残り？！
　泥のようなまどろみの中から瞬時にマーズの意識が覚醒する。
　渾身の力をこめて、まぶたを開く。
　灰色の北極の空を背景に灰色の三角錐が目前に聳え立つ。
　三角錐はユラユラと動いていた。
　黄色がかった白い長毛が全身を覆っている。
　三角錐の頭部がグッとマーズの顔に近付く。
　ふっ、ふっ、ふっ、と蒸気機関車のような音はその小さな頭部から轟いていた。
　その熱い蒸気が凍えた頬を、腕をなぶる。
　感情のない洞穴のような黒い目がマーズの身体を舐め回す。

　ホッキョクグマ　！

　マーズの目は裂けんばかりに見開かれる。
　身体はおろか、指１本動かすことも出来ない。
　ホッキョクグマはその黒い鼻でマーズの腹をつつく。
　身体の筋肉を突っ張ることも出来ず、マーズは水の詰まったゴム袋のようにユラリと揺れる。
　何度も何度もホッキョクグマはマーズの腹を胸を脚をその鼻でつつく。
　マーズは眼球のみを動かしてホッキョクグマの動きを追う。
　口の中がカラカラになるのが分かる。が、舌すら動かない。
　荒い呼吸音の間隔が次第に短く激しくなる。
　ホッキョクグマの頭部がマーズの滑らかな腹の上に戻る。

　　　　　　　　　　　がっ！

　その黒い口が信じられないほど大きくひき開けられ、黄色い巨大な牙がむき出しになり、開いたままの口がマーズの腹に叩き込まれる。バットで思いっきり腹を殴られたような衝撃が全身を走り、筋肉が硬化する。
　ホッキョクグマはマーズの腹をくわえ込んだまま頭を激しく振り回す。
　マーズの背は氷の床の上を左右に滑る。
　吹き出す鮮血は飛び散り、氷の上に乱れ、もつれるマーズの髪も濡らす。
　手の平にまで汚れた毛が密生したホッキョクグマの前脚が胸を押さえ付ける。
　１００キロを越える重みがかかり、肋骨がしなう。鎖骨が鈍い音をたてて押し砕かれる。
　半開きになったマーズの口から、潰された肺から搾り出された血が飛び散る。

　　　　　　　　　　ぞぶりっ！

　アンパンのように、ホッキョクグマはマーズの腹を喰いえぐり、頭をそらせる。
　湯気の立つ腸がマーズの腹からホッキョクグマの口へと伸び、ぶるんと震える。
　大きく開いた腹へホッキョクグマはさらに頭を突き入れ、肝臓に喰らいつく。

　補食される動物への神の最期の配慮なのか、瞬間的に膨大に分泌されたアドレナリンによって、もはやマーズは痛みも感じない。
　ただ身体が刳り抜かれてゆく触感があるだけだった。

　アドレナリンで活性化した頭が、ふと昔の記憶を思いだす。
　北極とは対局の夏のアフリカの草原。
　あれは、うさぎと一緒に記録映画のテレビを見ていた時だった。
　ライオンに追い付かれ、組み敷かれ腹を喰い破られたヌウの子供。
　生きながら食われるヌウのガラスのような瞳を望遠レンズが捕え続ける。
「かわいそう。かわいそうだよぉ」
　握り締めた両手を口元に押し当てて、うさぎが涙ぐむ。
「だから甘いっていうのよ、うさぎは。これが大自然よ」
　レイはうさぎを鼻で笑う。
「知ってるぅ？肉食獣って獲物を捕まえたら内臓から食べ始めるのよ。一番栄養があるんだから」
　うさぎの顔を覗きこみながら、更にレイはささやく。
「わあん、やめてよぉ、レイちゃあん！」

　揺れる視界が暗く赤く染まり始める。
　その黄昏のオレンジ色に染まった空に、大きな黒い鳥が２羽舞っているのが見える。

　ふぉぼ〜す、でぃも〜す
　　　　　　　　　　　　　　かえってきたんだ、あのまちへ

　レイは箒を掃く手を休め、夕焼けの十番町の空を自分のもとへと戻ってくる、雛の頃から飼い続けて来た２羽の烏の姿に笑いかける。
　巫女の装束の白い衣から伸びた細い腕を、止り木のように空に向かってかざす。
　この腕に止ろうと、この２羽はいつも競争をする。
　昨日はディモスが勝ったけれど、今日は？
　ふとレイは火川神社へと町から伸びる道に目を転ずる。
　ライトアップされたオレンジの東京タワーのもと、黄金色に染まった夕焼けの十番町。その道を左右のおだんごから長く垂らした髪を振りながら、小柄な少女が駆けて来る。
「レイちゃ〜ん」
　少女のはずんだ呼び声がする。
　レイはその声を聞きながらも、背をまっすぐに伸ばし、黄金色の夕焼けの中に佇んで、少女を待つ。

　ホッキョクグマが飽食して立ち去り、喰い散らかされたマーズの残骸のそばに舞い降りた２羽のトウゾクカモメは、ひょこひょこと散らばった肉片に近付く。
　１羽はさっそく空洞となった腹腔へ頭を突っ込む。
　もう１羽は、血に染まり凍りかけた髪がもつれて絡み着いた頭部に近寄る。
　眼球の裏の脂肪に富んだ肉を狙って、その見開かれたままの目をつつき始めたとき、ほほえみを浮かべたその瞳にはまだ夕焼けの黄金色の灯が燃えていた。

了

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