風の空域
目次
風の空域
第一章 降臨
第二章 レイ
第三章 伸子
第四章 亜美
第五章 彩
第六章 美夕
第七章 まこと
第八章 風の空域
第九章 狂戦士
終 章 うさぎ
後書き
第一章 降臨
風が耳元で吼える。
初夏の半月は中天にぶら下がり、眼下を都市の夜の灯が流れ去って行く。濃紫色の空をバックに、梁の一本一本をオレンジ色に燃え上げた東京タワーが間近にせまる。
その黄金樹の樹冠をかすめる巨大な蝙蝠のような黒衣の下僕にいだかれ、華奢な狩人は穏やかな瞳をはるか下方を流れる街の灯に向けている。
冷えた風は少女の白い和服の衿を抜け、ほっそりとした肢体を洗い、袖を膨らませる。しかし、少女の身体には冷えるべきぬくみはない。
頭の左でお団子にまとめられた栗色の髪、そこから伸びる一本の長いおさげに絡む紅色のリボン、幼さを残した色白の整った顔にそこだけは冷ややかな金色の瞳。
風はおさげの髪をもなぶり、千切れるようにはためかせる。
ふと、少女の瞳がほほえみを含んでまたたく。薄桃色の唇が開き、自らをいだく黒衣の下僕にささやく。
「見付けた。ラヴァ、あの街へ」
樹木に覆われた丘をかかえる闇に沈んだ小さな街へと、少女と下僕は静かに下降して行く。
はぐれ神魔を追う闇の狩人、吸血姫 美夕が十番町へと降臨したのだ。
肌寒い風の吹く夜の竹芝桟橋に先ほどまで停っていた車から、若い女が現われた。他には車の影も人の姿もない。都市の灯を映してうす紫色の燐光を放つ雲からの照り返しでも、女の頬が赤く上気していることがわかる。
女は服の乱れを整えながら、岸壁へと歩んで行く。
「おい、あまり近づくとあぶないぞ」
再び車のドアが開き、若い男が服のボタンを掛けながら、女の後を追って現われる。
「涼んでるのぉ。気持いいわあ」
開けっぱなしの車のドアから、小さくカーステレオの音楽が漏れる。
「ここは手すりなんかないから余り近づくなよ」
男は海を眺める女の後ろから腹を抱きかかえる。
「うふうっ、だめだったらあ」
淀んだ黒い波は岸壁に当り、粘っこい音を足元でたてる。
太平洋上に発生した台風４号の影響か、波が大きい。
「夜の海ってさ」
「あん？」
「じっと見てると、引き込まれそうで怖いね」
どぷん、とひときわ大きく波が岸壁を打つ。
「だけど、だいぶこの海もキレイになったって言うぜ。この前来たときには魚が跳ねてたしな」
「ん〜、この前っていつ？ 誰とお？」
「バカ、先週のそこの産貿会館でやった、うちの会社の展示会の時だよ」
男が顎でしゃくった都立産業貿易会館は紫色の夜空をバックに黒々と聳え立っている。その後ろにオレンジ色に燃え上がる東京タワーの尖塔が覗く。
「ふうん。魚かあ」
女は視線を水面に戻す。
「ん、あれ何かな？」
「あれって？」
「あれよ、ほら。あら、あっちにも、そこにも」
男に後ろから抱かれたまま、女は海面のそこここを指差す。
汚れた泡の塊に見えた。
拳ほどの泡が寄り集まった三十センチから一メートル位の長さの塊が、目の前の海面に漂っている。
「どこかの工場から出た泡だろ」
「きたない…ううん、見て！ 動いている」
「バカ、波があるから当然だろがよ」
男もつられて目を凝らした。
見まちがいではなかった。
それぞれの泡の塊は波の動きとは無関係に蠢いていた。見る見るその面積が拡がり、やがて塊同士が融合してゆく。むしろ、それは海面下に隠れていた巨大な塊が浮上してきたのであることに二人は気づいた。
もっと早く気づくべきだった。
二人の立っていた位置からは死角になっていた垂直の岸壁に沿って這い上がってきた泡の塊が、いきなり目の前に三メートルも盛り上がった。ぶよぶよの全身に真紅の血管状の網が走り、正面に大きく開いたイソギンチャク状の穴の下に臓物のような大小の肉塊がいくつもぶら下がっていた。
「ひっ！」
女が息を飲み一瞬硬直した途端、化け物の正面の穴がわんと拡がり、筒のように伸びて女に襲いかかった。
一瞬早く男は女を突き飛ばして後ろへ飛びすさったが、路面に足を取られてぶざまに転んだ。
化け物は女の全身を穴の中に飲み込み、みしみしとその穴を絞り始める。女の腕だけが化け物の体外に突き出て、激しく振り回される。
「ひ、ひいいいい」
叫ぼうとしても声は出ず、腰が抜け立ち上がることさえ出来ず、男は両手両足をばたつかせて車へと這い戻ろうとあがいた。
十メートル程先の車にまで、ようやく辿り着く。
わななく手で大きくドアを開いた時に男は自分の足首を掴まれ、弾かれたように振り返った。先ほどまで一緒だった女だった。いや、泡で作られた女のグロテスクな模造品だった。
足首を掴んだ女の頭部が崩れ、イソギンチャク状の触手を見る見る生やしながら、悲鳴をあげようと大きく開いた男の口に流れ込んだ。岸壁の泡の塊から長く伸びた肉色の索の先の女の体は泡になって崩れ落ち、男の全身を包んだ。
大きく開いたままの車のドアからは、カーステレオの音楽が流れ続けていた。オートリバースの再生音は、翌朝になって無人の竹芝桟橋に放置された車を怪しんだ港の職員の通報で、警察が来たときにも鳴り続けていた。
晴れた翌日の午後、十番町商店街はずれの公園に四人の少女が人待ち顔で佇んでいた。学校の帰りに集合した彼らは、それぞれ別の制服姿のままだった。
時折、強い風が舞う公園には、それでも元気に遊び回る子供達と、反対側のベンチで本を読む十番中学の制服を着た少女の姿があった。
「で、うさぎは」
手すりにもたれ掛かって、火野レイは尋ねる。
「うさぎちゃん、また残されちゃって」
鉄棒に身をあずけた水野亜美が済まなそうに答える。
「全くあの子ったら」
「まあまあ、いつものことじゃないか」
溜息をついたレイに木野まことがなだめるように声を掛ける。
「まこちゃん、それじゃフォローになってないってば」
亜美が隣のまことに声を掛ける。
テレたようにまことは笑うと、後ろ手で鉄棒をつかみ、ヒョイと身を持ち上げて腰掛ける。
レイの隣で手すりにもたれていた愛野美奈子は思わず感嘆の口笛を吹く。仲間に加わってまだ日が浅く、生身でも強靱なまことの身ごなしを見慣れてはいない。
「だけど、不思議な子なんだよね、うさぎちゃんてさ」
誰に語りかけるでもなく、その姿勢のまま、まことはつぶやく。ただでさえ長身なところに、更に鉄棒に腰掛けたまことの顔を三人はふり仰ぐ。
「まこちゃんって、今も亜美ちゃんあたしのこと呼んだろ。うさぎちゃんが初めてなんだ、そうあたしを呼んだのって」
小犬のような目でキョトンと自分を見上げる亜美に、まことは穏やかに微笑む。
「あ」
思わず亜美はつぶやく。
「木野か、よくって木野さんだったんだ。前のガッコでもさ」
まことは視線を宙に漂わせる。また起こった突風が、まことのポニーテールを前になぶらせ、頬に影をさす。
「あっ、わたしもよ」
まことの表情の変化に、亜美が急いで言葉をつなぐ。
「亜美ちゃんなんて呼んだの、うさぎちゃんが初めてなの。それにうさぎちゃんと友達にならなかったら、まこちゃんや、レイちゃんとも知りあえなかった」
「そりゃ、あたしも亜美ちゃん達と知り合えたのは嬉しいけどさ。だけどそのおまけで何の因果かあんな小学八年生のお守やらさせるハメになるなんて、思ってもいなかったけどね」
頭の後ろで手を組んでレイは手すりにもたれ、後ろにのけ反る。
亜美はクスリと笑いを含み、おとがいを宙に向けたままのレイに語りかける。
「そんな事言って、レイちゃん、うさぎちゃんが本当は大好きなくせに」
ぶっ、と大仰に吹き上げて、レイは慌ただしく顔を戻す。
「だぁ〜っれが、あんな」
どなりかけて、レイは三人が目を細めほほえみながら自分を見つめていることに気づく。
「あ、あたしはただ、あの子が放っとけないだけよ。ま〜ったくプリンセスって自覚も無しにバカばっかりしてて」
言い捨てると、レイは三人から視線をそらす。
「亜美ちゃんもって？」
まことはレイから亜美へと視線を移す。
「うん、小さい時から勉強にしか興味なくて、誰も話し掛けてくれなかったの。うさぎちゃんたら、知り合ったその日にゲーセンに連れてってくれてね。ああいうところに入るのも初めてだった。不良っぽい子が行くとこだと思ってたの」
うなずき、ふと顔を赤らめる。
「だからぁ、あの子の行きたいところに付き合わされているんだけなんだってば」
そんな憎まれ口をたたくレイに、まことは目を向ける。
「レイちゃんはなかった？ そういう事」
レイが答えようとした時に起こった突風が砂場から細かい砂を舞い上げ、四人を襲った。
顔を覆う四人。
「あ、痛っ」
小さく悲鳴を上げ、亜美が目を押さえる。
「だめだよ、亜美ちゃん。こすっちゃ」
長身からは思いもよらない素早さで、腰掛けていた鉄棒からまことは跳ね降り、背を丸めた亜美の両肩を押さえる。
「じっとして、目を開いて。どっち？ 痛いのは」
まことの両掌が亜美の顔を押さえ、上向かせる。
「みぎ」
痛みをこらえ、亜美は両目を開く。かがみこんだまことの真剣な顔が、思いがけないほど間近にせまっている。
まことの両手は、医師のようにてきぱきと動き、亜美の右のまぶたは大きく上下に引き開かれる。
「じっとして」
は、と思う間もなかった。ためらいもせずまことの顔が近づき、亜美の目を唇が覆う。滑らかな舌が、瞼と眼球の間を泳ぎ、あふれる涙が強く吸われる。
ふわとバラのコロンのかおりが鼻をくすぐる。
茫然と身を固くする亜美に、記憶がフラッシュバックする。
クラウンで最初にうさぎからまことを紹介された時、見上げるような長身と荒っぽい言葉使いに、思わず身を引きそうになった。校舎の裏にたまり、煙草をふかす粗雑な連中。汗臭い不良。自分とは関係のない世界の人間。その殺伐とした気配を亜美はまことの物腰に覚えた。
と、いきなりまことが亜美の抱きかかえるルナに目を留め、長身をかがめてあどけなく微笑んだ。
前髪が触れ合うほどの間近で目を細めてルナの喉をなでるまこと。思いがけず、ふわと鼻をくすぐるバラのコロンのかおり。
立ちすくむ自分の頬が赤みを帯びてくるのに亜美はとまどっていた。ルナの喉の鳴るゴロゴロという響きが胸にこだましていた。
「どう、とれた？」
気が付くと、まことが心配そうに自分の顔を覗きこんでいる。
亜美は反射的にまばたきを繰り返す。
「ありがとう、とれたみたい」
消え入るように、亜美はささやく。
す、とまことの両手が頬から離れる。
「よかった。後で、目薬さしといた方がいいよ。砂場の砂って汚いから」
こく、と亜美はうなずく。右目が熱を持っているようだ。熱いのは右目だけではなかった。まことの両手が離れたばかりの頬が燃えるようだ。
「台風が近付いているせいかしら？ 風が強いの」
美奈子がうつ向く亜美の顔をのぞき込む。が、その口元には悪戯っぽい笑みが浮かんでいる。
レイは柵にもたれかかったまま、腕組みをした手の右手の指を顎と唇にかけて、じっとまことと亜美の二人を眺めていた。
ふと、目のはじに動きをとらえる。
「うさぎ、あんた遅い！」
はじかれるようにレイは柵から離れ、全身で向き直って叫ぶ。
「やあ、皆のもの。すまぬ、すまぬう」
左右の長いおさげを振り回しながら、月野うさぎが公園の入り口から走り寄ってくる。
五人の少女が揃って、語り合いながら公園から出ていった後、四人が佇んでいたコーナーと反対側のベンチで読書していた十番中学の制服の少女が本を畳んで立ち上がった。
ほっそりとした小柄な身体で、ボブカットの整った卵型の顔に眼鏡を掛け、生真面目そうな表情を浮かべた少女だった。
少女は五人が消えた公園の出口をしばらく唇を噛んで見つめていたが、やがて反対側の出口から姿を消した。
子供達しか残っていない黄昏の公園に生える杉の樹の、風にざわめく高い枝にもう一人の少女が腰をおろし、全てのありさまを見守っていた。純白の和風の服に、前で結んだ真紅の帯、端正な顔に金色の瞳が輝く。
ベンチの少女の姿が消えた後、少女は悪戯っぽい笑みを浮かべて後ろをふり仰ぐ。
「ふうん、そういうことか。ラヴァ、面白くなりそう」
茂みの暗がりにその黒衣の巨身を潜め、異形の仮面の下僕は身じろぎもしない。
夕刻の冷たさを増した突風がまた枝をざわめかせる。
翌日の午後、十番中学の体育館では二年五組と六組とが半分ずつを使っての授業をおこなっていた。
五組の亜美は跳び箱の順番を待つあいだ、隣の六組の様子を眺めていた。
六組の床運動はちょうど木野まことの順番だった。
まことを眺めているのは亜美だけではない。両方の組の女子のほとんどがまことの演技を見つめている。
進み出て、マットの前で息を整えるまことの長身が、素通しの窓からの陽光の中で一人静止する。
むき出しの足の筋肉が引き絞られ、表情が静かに緊張するのが、我がことのように亜美にも伝わる。
たんっ！と、はだしの足がマットを蹴ると、まことの身体は弾けるように高く宙を舞い、マットの面に飛び込む。
頭から突っ込むかと、はっと見物人達が息を飲んだ瞬間、二本の腕がしなやかにマットを受け、一瞬たわむや力強く伸び、腕の力だけで全身を再び上へと弾き上げる。
ブルマーからすらりと伸びる脚が振り子のように勢いをつけて弧を描き、おとがいを伸ばし、虚空で全身をそらせてた姿はアーチを想わせる。
亜美の目に時間は止まり、窓からの光の中に全身の筋肉を伸ばし切ったまことが浮き上がり、その姿を網膜に焼き付ける。
大きな円周の上を滑る軌道に沿って、両腕を真横に両足をピタリと揃え、十字架が起き上がるように足を下に向け直し、まことはバネを効かせてマットに着地した。
ほぉうという溜息が見物人達から漏れる。
まことはポニーテールを揺らしながらマットから降りると振り向き、大きな目で自分を見つめる亜美にいたずらっぽくウィンクをする。
亜美は戸惑い、思わず頬を赤らめる。
「すごいね。あの人は？」
まことのクラスの少女が、隣で順番待ちしていた同級生に尋ねる。
「あ、木野さんよ。木野まことさん。矢代さんは今日転校してきたばかりだから知らないでしょうけど、スポーツ万能なの」
「ん、美夕って呼んで。苗字で呼ばれるのってあまり好きじゃないんだ」
「いいわよ、美夕。じゃ、私はノブって呼んで。本名、元山伸子。ねっ、木野さんって素敵でしょう。あれでお料理もとっても上手なの。ファンクラブもあってね、下級生にも凄い人気なのよ」
そのノブと言う快活な少女は、嬉しそうにまことについてのお喋りをする。
「ふうん」
美夕は穏やかに微笑みながら話を受け、さりげなく視線を左右に配る。
壁際の見学者の一群の中に一人だけ周囲と違う表情の女生徒がいた。見学席に制服のまま腰を下ろし、亜美を突き刺すような目で見つめている。ボブカットで整った顔だちに眼鏡を掛け、生真面目そうな少女だった。
自分の六組にはいなかった少女だ。亜美と同じ五組の生徒であろう。
しかし、美夕には見覚えがある。昨日の公園でまことや亜美達を本を読むふりをして見張っていた少女だった。
「あんな凄い技、出来ないわね。あそこで見学にすればよかったかしら」
美夕はチラとその少女の方を見やって、ノブに同意を求める。
「ああ、木野さんは特別なのよ。私達はただの倒立前転でいいの。それよりね」
ノブは声の調子を落として顔を近付け、囁く。
「杉浦さんには関わらないほうがいいわよ」
「杉浦？」
「シイッ！」
ノブは口の前で指を立てる。
「あそこで見学している五組の子。杉浦 彩って名前。転校してきたんだけど、前の学校で男の子と事件を起こしたんだって。それでね前の学校って言うのが」
「コラ、元山」
ふいに体育教師の太い声が割り込む。
「次はおまえだろう、いつまでもおしゃべりしてるんじゃない」
「いっけなぁい」
ノブは頭を掻いて、マットへと急ぎ足で走り去って行った。
第二章 レイ
火野レイは、このところ重苦しい気分に捕えられていた。
空気の匂いがおかしい。不快な重苦しさが、起きていても寝ていてもジワジワと自分を押し包む。
生理的なものではない。霊的に不健康な気配が十番町全体を覆っている。しかも、それが日に日に強まっている。ダークキングダムの持つ霊的エナジーとは全く別系列の、粘り着くおぞましい気配だった。
人一倍霊感に優れたレイにとって、この圧迫感は体力そのものの消耗すら起こさせた。
レイからの連絡を受け、火川神社に集合した四人の仲間達は、はた目にも分かるその憔悴ぶりを心配した。
「大丈夫？ レイちゃん」
正座して焔に対峙し一心不乱に念をこらす袴姿のレイの後ろから、うさぎが怯えた声を掛ける。
「だまって！ もうすぐ見える」
振り向きもせず、レイは焔から目を離さない。後ろに正座した四人は、再びおし黙る。
暗い神殿の中、突然焔が大きく揺れ乱れる。
すっとレイは立ち上がる。つられて四人もそれにならう。
「ばけもの」
焔を見据えたまま、震えたつぶやきがその唇から漏れる。
「ダークキングダムの妖魔かい？」
勢い込んでまことがレイの背中に声を掛ける。
「違う」
レイは焔を背に振り向く。長髪が頬に乱れ、目の下が黒ずみ、その目はギラギラと輝く。その表情に思わずうさぎは身をすくめる。
「ダークキングダムじゃない。もっときたならしいやつら」
吐き出すようにレイは語る。
「やつら？」
亜美が不審な表情を浮かべる。
「妖怪よ。今度の相手は、あんた達の手を出せる相手じゃない。私の相手よ」
「バカなこと言うんじゃないよ。戦うときは一緒さ。仲間じゃないか」
突き詰めた表情のレイに、まことが抗議の声を上げる。
「ダメよ。今度の相手は違う！」
ふ、とレイの表情が凍り付き、さらに何か言いかけたまことを手で制し、締め切った木戸の外の気配に目を凝らす。
四人もそちらを向き無言のまま構える。
レイは静かに木戸に歩み寄り両手を掛けるや、勢いよく左右に引き開ける。
五人の間に緊張が走る。
日没直後の赤く燃えた空を背景に、境内の木々が黒々としたシルエットを浮かべ、人影ひとつもない。
「誰っ」
素早く悪霊退散の御札を右手にかまえ、レイは野外に向かって鋭く叫ぶ。
黄昏の境内には何も現われず、静かに時が過ぎゆく。時折吹く強めの風が樹々をざわめかせる。
「レイちゃん、何がい…」
「はっ！」
緊張に耐え切れず、うさぎが声を上げたのと、レイが気合いを込めて御札を打ったのが同時だった。御札は一直線に黒々とした樹の中に吸い込まれるように消えた。
何も起こらない。
ほうっ、とレイは緊張をほどく。
「何かがあの樹の間にいた」
レイの声に気味悪そうに亜美が外の樹々を見回す。
もはや、何の気配も感じられない。夕刻の十番町の雑踏が遠く聞こえている。
「妖怪って、それじゃ最近の失踪事件も、そいつの、そいつらの仕業？」
美奈子が皆の推測を代弁する。
「たぶんね」
レイが油断なく、外に目を配りながら美奈子の問に答える。
「そいつらって、一匹じゃないのかい？ 妖怪は」
怯えるうさぎの肩に手を重ね、まことが尋ねる。
「ええ、恐らく二匹。それも対立し合っている」
答えながら、ちらとレイはうさぎに目を向ける。戦い慣れたダークキングの妖魔とは明らかに違うばけものの存在をほのめかされたことで、うさぎは怯えていた。
レイは、自分の語り方が幽霊や心霊現象に対するのと同じ恐怖心をうさぎの心に呼び起こしたことを悟り、後悔した。
「大丈夫よ、うさぎっ。今度の相手は私の専門分野なんだから、私が守ってあげる」
強いて元気な顔を作り、うさぎに笑いかける。
「でも、相手のことは知っておかなくちゃ。どんな奴なの」
頼もしげなレイの仕草にいくらか明るくなったうさぎの様子を見ながら、亜美は冷静に質問する。
「どうやら妖怪らしいんだけど、下級霊じゃないみたい。もっと古い…もしかしたら神魔」
レイはうさぎの様子を見ながら慎重に言葉を選ぶ。
「神魔？」
四人が同時に聞き直す。
「うん。古代では神と魔物とは表裏一体の存在だったのよ。日本神話でも荒御魂と和御魂は一つの神の二つの顔を表すでしょう。古代人はそんな彼らを封印したけれど、その記憶が神とか妖怪の原形として現代まで伝わっているの」
「その神魔、って言うの？ 封印されているんだろう」
まことがいぶかしむ。
「うん。だけど何かの拍子で封印の門が破れたり、とても強い病んだ心の人間が呼び寄せたりすることがあるって言うわ」
「悪魔や妖怪の原種」
亜美が考え深かげにうなずく。
レイの語りは、古代からの闇に封印され眠り続ける神魔の陰欝でうっそうとしたイメージを四人の少女達の心に染み込ませる。深まる夕暮れの中、神殿の焔の残り火がやつれが見えつつも情念を秘めて語るレイの横顔に揺れ動く影を映す。
少女達が火川神社を辞したのは六時頃にはなっていただろうか。
仙台坂を並んで下りつつ四人の心にレイのやつれた顔が浮かぶ。
一人で戦うとレイは言った。
が、むろん亜美もまことも美奈子もレイ一人を戦わせるつもりはなかった。とは言って、うさぎをこの戦いに加えるつもりもなかった。自分達にとっての本質的な敵であり倒すべくダークキングダムとは明らかに違う相手であった。本来戦士でもない、うさぎの戦力が今回の相手に役立つとも思われなかった。うさぎを自宅に送り届けた後の短い会話で、三人は互いに同じ意思であったことを確認し合った。
レイは相手の見当がついたことと、仲間の少女達との励まし合いで、ひさしぶりに重苦しい空気からも解放され、ベッドについた。
まどろみの中で幼い頃の記憶が夢のかたちで蘇って来る。
探し物、行方不明者の霊視、事故の予知…幼い子供ながらの霊感の発露は喜ばれると思いきや、その恩恵をこうむった当の本人達からも気味悪がられ、それでも人々はレイの元に霊感の報せを聞きに来ることをやめなかった。
レイはそういう人々の視線の中で成長してきた。
小学校でも中学校でも同級生達は、レイを異物として見てきた。触れることも、話し掛けることすらためらわれる不可触人。
それはいじめですらない。
その中でレイはまっすぐに背を伸ばし、硬い表情の少女として日々を過ごしていた。
闇の中、ぼうとした光の中で幼女から少女へと成長する自分の回りを遠巻きにして、黒い群衆のひそひそ声がエコーを伴って聞こえてくる。
反復する記憶。
群衆の中に過去の想い出の大人達、子供達、同級生のひき歪んでカリカチュアされた顔が浮かんでは消え、生気のない多くの指が自分の方に突き出される。
いきなりレイの前に光に包まれ、溢れんばかりの笑顔を浮かべた少女が現われる。
うさぎ。
落ち着きがなく、バカ丸出しの言動ながら、奇妙に心が惹かれる。前世からの因縁のあるセーラー戦士として覚醒し、仲間として新たな目で見ても、どうにもその言動の幼さ情けなさには我慢しがたいものを感じる。それでも、なんらためらうことなく自分をさらけ出すあの顔を見ると、結局は許してしまう。
夢の中で、うさぎのくったくのない顔が大口を開けて笑っている。大きな目を開き、無造作にレイに向かって開いた手を差し出す。レイはためらいがちに、その手を握ろうと自分の手を伸ばす。
ふいに、うさぎの背後の闇が赤黒い色に変化する。
うさぎは全く気付かず、レイにほほえみ続ける。
闇の中に更に開いた紅の闇の裂け目から肉色の泡が溢れ出す。裂け目の向こうに広大な冷たい空間が広がり異形の者たちの姿がほの見える。
レイは必死に口を開き声を上げて、うさぎに異変を伝えようとする。声は出ない。手足も動かない。頭の奥で大きな唸りが鼓動する。
うさぎは無邪気にほほえみ続ける。
その肩の後ろに、ふわと二つの金色の瞳が浮かぶ。白い顔がそれに続いて浮かぶ。冷たい表情の少女の顔。はっきりしない輪郭の中に金色の瞳と薄桃色の唇のみは鮮明に見える。
うさぎの背後で唇が歪んで笑う。かすかに開いた口の中に血まみれの牙が覗く。
レイは身体を縛る見えないいましめを解いて、つかみかかる。
朝の光がカーテン越しに差し込んでいた。
時計を見ると、いつもの起床時間のちょうど一分前だった。
心臓は激しく鼓動し、息はまだ荒い。
レイは大きく深呼吸し、時計へ腕を伸ばし、鳴りだす前にタイマーを解除する。
雀の啼き声、起き始めた街の物音が遠く窓を通して伝わってくる。いつも通りの静かな朝の時間が過ぎて行く。
息も落ち着き、馬鹿げた夢の記憶に思わずレイは小さく吹き出す。
起き上がろうとベッドの上に半身を起こす。
その身が瞬時にして凍り付く。
掛け布団の上の胸の位置に、悪霊退散の御札が乗っている。それは確かに昨夕、妖気に感じて外の樹の繁みに向かって自分が打った御札だった。
放課後の十番町の喫茶店パーラー・クラウンでは、元山伸子は焼き増しした木野まことの写真をファンクラブ仲間に配っていた。同じクラスでもあり、元山伸子はまことの写真を撮る機会に恵まれていた。
ファンクラブとは言っても、別にまことが承認したものではない。勝手にもりあがっているありがちな集団だった。メンバーは皆女生徒ばかりだった。
「ノブ、どうしたの」
一人が困惑した表情を浮かべた伸子に尋ねる。伸子はしきりに写真屋の封筒をひっくり返し、ネガの紙ケースを開いていた。
「写真、一枚足りないの」
「足りないって、どの写真？」
写真は何種類かあった。とはいえ、ファンクラブの皆は全種類の焼き増しを伸子に頼んでいた。
伸子の隣の少女が機転をきかせて自分の分の写真をテーブルの上に扇状にひろげる。
「どれ、足りないの？」
「あ、これ」
「わあ、一番いいやつじゃないですかぁ」
テーブルを囲んだ一人が指摘された写真に声をあげる。
確かにその写真はピントも合い、光線の加減もメリハリが効いており、なにより緑の樹木をバックにこちらを向いてポーズをとったまことのはにかんだ笑顔が印象的な一枚であった。
「きのう写真屋から持って帰って、家で確認した時には全部枚数合ってたんだけどなあ」
「その後、出したりしなかったんですかぁ」
「うん、すぐ鞄に入れて、ずっと学校じゃ出さなかったし。ネガはあるから焼き増しすればいいんだけど…あっ」
ふ、と伸子は思い当たる。
「四時間目の家庭科の園芸の時」
「え？ じゃ誰もいない教室に誰かが？ でも何だって木野さんの写真を。ほかにサイフなんかは？」
テーブルの回りがざわめく。
「あの時、校庭から教室の方を見た時、チラって人影があった。その時には気にしなかったんだけど」
「じゃ、クラスの人」
「ううん、あの時うちのクラスは全員外にいた。あの髪形は…待って、心当りはあるけど、確認するまで言えない」
伸子は慌ただしく立ち上がる。
「ごめん、今日はもう帰る。調べたいことがある」
「その写真泥棒のこと？」
一人が勢い込んで尋ねる。
「うん。今日中にカタがつくと思う」
自分の分のドリンクの代金を伝票の上に置きながら伸子は答える。
「大丈夫、一人で？ 私も一緒についてこうか」
伸子が座っていた隣の席の子が腰を浮かせる。
「ううん、事を荒だてたくないの。それにたいした事ない相手だから」
そう言い残して、伸子は急いでパーラー・クラウンを後にした。
残った少女達はしばらく「犯人」についての憶測で盛り上がっていた。
帰宅した元山伸子は私服に着替えもせず、学校名簿のペーパーを捜し出し、番号を調べて自室の電話を掛けた。
電話口に出た相手に感情を抑さえた硬質な声で、しばし話し続ける。最後にきっぱりとした声で相手に待ち合わせの場所を指定するや、受話器を置き、立ち上がる。
帰宅したと思った途端、制服のまま再び外出しようとする娘をいぶかる母親に、伸子は学校に忘れ物をしたと言い残し、慌ただしく出ていった。
それが娘の姿を見た最後だと分かっていたなら、何としても引き止めたであろうが、母親は夕飯の支度がもうじき出来ることを出て行く伸子の背に呼びかけただけであった。
身震いする悪寒が火川神社境内の火野レイを襲った。
ちょうど学校帰りの途中の木野まこととルナを抱いた水野亜美とが来ていて、二人が共に戦おうと口説くのを聞き流しながら強風に舞うゴミを掃き集めていた、その時だった。
「動いた！」
低くつぶやくやレイは竹箒を地面に放り投げるや、社務所の蔭に走り込み、閃光と共にセーラーマーズに変身して飛び出した。
黒い長髪を振り乱し、声も掛けずに駆け出したマーズの姿に亜美とまことは互いにうなずき合い、素早く物陰に走り込むや変身し、その後を追う。
ルナは小さくなる三人の姿を見送るや、いずこへかと走り去る。
「どこ相手は、マーズ」
追い付いたジュピターが、マーズにどなるように聞く。
近付く台風の気圧の影響か、濃いオレンジ色の黄昏に沈む金色に輝くビルの屋上を跳躍してつき進む三人の少女戦士の姿が夢のように十番町の空に舞う。
「ついてこないで！ あなた達じゃ無理よ」
マーズは叫ぶ。
「そうはいかないわ。仲間を一人で戦わせるわけにはいかない」
やや離れて追うマーキュリーが声を飛ばす。
「じゃ、勝手にして！ だけど、私の邪魔はしないでよ」
目を夕陽にオレンジ色に輝かせ、マーズは一路十番中学へと足を早める。
第三章 伸子
十番中学は既に部活動の生徒達も帰り、校舎は黄昏のオレンジと黒のコントラストの中に沈んでいた。
いつも鍵のかかっていない講堂の中は照明は点いていなかったが、窓からの夕陽でまだ内部はオレンジ色に染め上げられていた。厚い壁とガラス窓に遮られて、外の時折起こる風の音は聞こえてこず、講堂内は静寂に満ちていた。
その窓際の壁に黒くもたれ掛かる人影があった。
元山伸子だった。胸の前で腕を組み先ほどからじっと暗がりに沈んだドアを見つめている。
忍びやかな足音が近付いてきて、ドアの外で停る。しばしのためらいの後、ドアが開く。
「逃げずにちゃんと来たのね」
伸子は、現われた人物に声を掛ける。
ボブカットに眼鏡を掛けた小柄な少女は、その声にピクリと身を縮める。
杉浦 彩は怯えた瞳を伸子に向け、さらに視線を周囲に走らせる。
「私一人よ。まだ誰にもあなたの事は話してない」
伸子は壁から離れて彩に近付く。
「あなたね、うちのクラスが園芸の授業の間に教室に忍び込んで、私の鞄から木野さんの写真を盗ったのは」
「なんで、そんなこと言うんです。証拠があるんですか」
固い口調で反論する彩の言葉には、しかし怯えが見える。
「証拠？ 私は校庭から見たの。誰もいないはずの教室に確かにあなたの髪形に眼鏡の姿を見たの。なんだったら、私の鞄の指紋を調べてもらってもいいのよ。盗難事件として」
語気も鋭く、伸子は畳み掛ける。
「前の学校での事件のことは知ってるわ。気の毒だとは思う。でも、これは話しが別よ」
彩は目を見開く。
「知っているの？ なぜ」
語尾は震え、途中で言葉は飲み込まれる。
「調べたの、あなたの事。五組に転校して来たのに、ずっとうちのクラスの木野さんのことを追っかけていたでしょう。それもいつも陰険に物陰に隠れて。気が付いて変だって思って調べてみたら、あなた木野さんがいた学校から来たって言うじゃない」
腕を組んで畳み掛ける伸子を彩は上目使いに見つめる。
「そりゃ、私達だってかってにファンクラブ作って木野さんの追っかけしてるわよ。だけど水野さん達のグループには入れないことぐらい、私達だって自覚してるわ。それなのになに？ 杉浦さんたら水野さんまでねたんだ目で見ていて。
「はっきり言ってうっとおしいのよ、あなた。あげくの果てが私の鞄から木野さんの写真まで盗んで」
一気にまくしたてる伸子の声に重なって、床下を水が流れるような音がする。音はひそやかに床下から周囲の壁の中へと広がってゆく。
「…それで、私にどうしろと言うの」
乾いた声で彩が尋ねる。
その冷えた口調に伸子は一瞬たじろぐ。
「とにかく、もう木野さんの回りをうろちょろしないでちょうだい。木野さんにも迷惑よ。それなら、盗んだ写真は返さなくていいし、誰にも黙っていてあげるから」
「そう、まだ誰にも言ってないの」
うつ向き、上目使いだった彩は頭を起こし、真正面から伸子を見つめる。唇の端が細かく痙攣している。
伸子にはそれが引きつった笑いに見えた。
気を取り直した耳に床下、壁、天井からの絶え間ないざわめきが流れ込む。外の風の音が激しくなっているのだろうか。リンパ液のような生臭い匂いが薄暗い講堂内に漂い始める。
「ここに来ることは？」
彩はゆっくりと伸子に近付きながら、かすれた声で尋ねる。
「言ったでしょう。もう気味の悪いことしなければ、私だけの胸にしまっておいてあげるって。誰にも話してなんかいないわよ」
立場は自分の方に利があるのに、妙に気圧される感じを払おうと、伸子は甲高い声で言い返す。
「だいたい、同じ学校から来たって言うのに木野さんあなたのことなんか覚えてないじゃない。気にもかけてないのよ、あんたなんか。何考えてるの？ 男に乱暴されたからって、男性不信で木野さんに走るわけ？」
伸子の最後の言葉に、彩は表情を一変させた。
「あんたなんかに、分かるもんか！」
目を剥いて彩は絶叫する。
「クズ共に監禁されて一週間も犯され続けるのがどんな事なのか、あんたなんかに想像できるものか。閉めきった部屋で夜も眠らせてもらえず、食べ物もろくにくれずに、男達だけが次から次にと…」
彩の声はかすれ、顎だけが狂ったようにガクガク上下する。見開かれた白目の中で小さく収縮した瞳が震えながら、伸子の姿をとらえる。
言い過ぎた事に伸子は気づいた。
調べ上げた杉浦 彩に関する情報が頭の中に渦巻く。
裕福な家庭で育ち、生真面目な勉強家で以前いた中学では優秀な学業成績だった。しかしふとした事で絡まれた街のダニ共に車で連れ去られ、彼らの家に監禁されて暴行を受け、解放された後はその街にも居辛くなり、十番町に引っ越して来たと言う。
いくら情報屋の伸子とはいえ、このことを他人に洩らしたことはない。ただ、今回の彩との話し合いでいざとなったら、これをネタに言うことを聞かせようとの腹づもりはあった。
が、明らかにタイミングと相手とを間違えたことを今悟った。
ふと、彩がそれまでの逆上の表情を静めた。唇の端がにやりと剥き上げられる。
「ねえ、教えてあげようか？」
これがあの生真面目な彩の声かと、耳を疑う淫らな口調だった。
「身体をおもちゃにされるのがどういうことかって」
せせら笑いを浮かべつつ、彩は一歩伸子に向かって近付く。
思わず伸子は後退する。
彩の突然の変貌に、その事件についての妙なことがらが警告のように閃く。彩を略奪したダニ共の消息が不明なのだ。彩を監禁していたアパートから突然に失踪したということになっている。
黄昏の光も薄まり、暗さを増した講堂の中、周囲の闇からのざわめきが耳につく。生臭い匂いはさらに濃さを増す。
「おいでなさい、元山さん」
彩は両腕を前に広げさらに伸子へと迫る。
伸子はそれに押されるように後退し、壁に背中をぶつける。
壁ではなかった。
ぬるりとした暖かいものが、後ろから伸子を抱き止める。
濃いオレンジ色の空をバックに講堂は黒々とその姿を見せていた。
「その中よ！」
マーズは全速で講堂に走り寄る。
残り二人もそれに続く。
マーズの手がドアのノブに触れようと伸ばされた時だった。
少女の凄まじい絶叫が、まさにその講堂の中からあがった。
三人はその叫びに一瞬凍り付つく。
が、目を合わせうなずくや、マーズはノブをつかみ思いっきり引き開け、講堂の暗がりへと飛び込んだ。遅れじと飛び込んだ二人も、マーズと共に目の前にひろがる光景に凝固した。
燐のような薄黄色のぼうっとした光が講堂の中に満ちていた。壁、床、天井と言わず、一面に西瓜ほどもある肉色の泡が覆っていた。その間を腕ほどもある太さの真紅の血管がのたくって動いていた。
むっとする生臭さが鼻腔を襲う。
講堂内部を覆った大小の泡の間から、空間の中央に吊るされた塊に向かって、さまざまな太さのよじれた肉色の索が伸びていた。吊るされた塊は人の姿をしていた。
「元山さん！」
ジュピターは変わり果てたクラスメートの姿をそこに見い出し、息を呑んだ。
かって、まことのファンクラブ会長を自称し喜々としてまことの写真を取っていた元山伸子は、周囲から伸びて全身にまとわりついた索に食われていた。索は体表から体内へと潜りこみ、その索の回りの組織が餅を千切り取るように大きく崩れては索づたいに流れ出してゆき、周囲の泡に着くまでには吸収されていた。
伸子は既に半分以上飲み込まれた頭部の目で三人を認めた。崩れた腕を救いを求めるかのように突き出す。その目からは涙が溢れかえっている。助けの言葉を語るべき口はもう本来の場所にはなかった。
マーキュリーは両手で口を押さえた。
マーズは歯軋りするや、すばやく御札を取り出す。
「臨・兵・闘・者・」
突然、床が大きくうねった。
詠誦途中のマーズもろとも、肉色の波は鞭のように三人をドアから講堂の外へとはじき飛ばした。
目の前で大きな音を立ててドアが閉じる。
気を込める詠誦中に精神集中を破られ、マーズは地に手をついて激しく咳き込む。
マーキュリーは、地面に叩きつけられたまま、まだ動けない。
ジュピターは素早く体勢を立直し、ドアに体当たりする。が、ドアは硬質ゴムで内張りされたかのように、渾身の体当たりを弾き返す。
ジュピターはドアに正面から向き合い仁王立ちになるや腕を交差させ、詠誦を開始する。
「わが守護木星よ。嵐を起こせ、雲を呼べ」
空中の電位が歪み、ジュピターへと向かう集中の流れが起こる。周囲の空気がチリチリ音を立て、ジュピターの髪が逆立ち始める。
その時だった。暗い窓の列が、不意に内側から真紅の光に輝いた。それは先ほどの講堂内を照らしていた不潔な色あいの光ではない。ルビーを思わせるすきとおった光だった。しかも、その光源は講堂内の空間を縦横無尽に走り回っているようだった。窓から吹き出す光の向きが上下左右に激しく振らている。
「いかづちを降らせよ！」
講堂内部の変化に心を乱されることなくジュピターは詠誦を続ける。
カッ！と濃紫の空を切り裂き、電光がジュピターのティアラから伸びたアンテナへと突き刺さる。接地したブーツと地面の隙間からアーク光が吹き出す。膨大な電力を飲み込んだ大地は含有水分を加熱され、蒸気は亀裂を求めて地表を膨らませる。
「シュープリーム」
さらにきつく交差させた両腕を絞り上げる。余剰エナジーの稲光がジュピターを中心にはためく。
「サンダー！」
一挙に両腕を左右へと振り広げる。
解放されたエナジーは輝く電撃の軌跡も鮮やかにドアに襲いかかり、木端微塵に粉砕する。
ためらいもせず、ジュピターは講堂内に飛び込む。が、内部の予想もしなかった展開に再び足を止める。
講堂内壁を埋めつくしていた肉色の泡も不潔な燐光も消え、そのかわり床の中央付近に掘り返された巨大な切り株のような物が横たわっていた。切り株は不定形に姿を変え、何本も伸びた鞭状の腕を奮い、自分を中心として激しく旋回する真紅の光の玉を避けようとしていた。その黒ずんだ全身は玉と同じ光を放つ真紅の炎に覆われてのたうっていた。
しかし、ジュピターには全くその熱が伝わってこない。
冷たく燃える異様な炎。その炎の後ろの空中に思いがけない者が支えもなしに浮かんでいた。
奇妙な白い和風の衣装を着て、栗色の髪を頭の左側でお団子に纏め、赤いリボンを垂らした髪に巻き付けた少女が、端正な顔に金色の瞳を炯々と輝かせて眼下の切り株のあがきを見下ろしている。少女の後ろに黒衣で頭から身を包んだ大柄な者の姿がつき従って浮かんでいる。顔は奇妙な白い仮面に覆われている。
「矢代…美夕さん？」
ジュピターは自分のクラスの転校生の思いがけない姿に、攻撃ポーズで身構えたまま戸惑いの声を上げる。
ちらと美夕の金色の瞳が動き、ジュピターの姿をなめる。
「下がっていなさい。あなたには関係のないこと」
す、と手の平をジュピターに向け、硬い声で命じる。
視線は燃える切り株に戻したまま、その手を横に突き出す。新たな炎の玉が、手の平の上に生まれる。
既に切り株の動きは粘り着くように鈍くなっていた。
ふ、と美夕の唇の端が笑みを浮かべる。
その時だった。
吹き飛ばされたドアの穴からマーズが飛び込んで来た。
マーズは一瞬で構内の情景を見て取り、視線を空中に浮かぶ美夕に釘付けにする。美夕の金色の瞳と笑みを浮かべた薄桃色の唇を目に入れるや、マーズの表情は激変する。
「ファイヤー」
両指を合わせ、般若のごとく変じた表情で念を込める。
「待って！ マーズ」気付いたジュピターの制止は遅かった。
「ソウル！」
マーズの灼熱の炎の槍が美夕に向かって一直線に走る。
はっと美夕の瞳が大きく見開かれたのと、後ろに控えた黒衣の下僕が少女を袖で覆うや素早く真横に飛んで炎の直撃を避けたのがほとんど同時だった。
その途端、蠢く切り株を包んでいた冷たい炎が光を失い、弾けるように巨大な切り株は壊れたドアの穴へ向かって跳躍した。
「お待ち！」
美夕は、その後を追って下僕と共に講堂から飛びだす。
「クレッセントォ ビーム！」澄んだ声が響く。
飛び出した美夕に向かって斜め上方から純白のビームが襲いかかる。
美夕はとっさに右手の平でビームを受け、顔への直撃を避ける。ビームを受けた手の平は白い輝きを放つが、美夕はくんっとその手を握りしめ、ビームの飛来した方角に目を向ける。左腕は反撃の動きを見せた背後の下僕をすばやく押しとどめる。
濃紫の夜空をバックに黒い校舎が聳え、その屋上に長い髪をなびかせた少女のシルエットが浮かぶ。
それは一挙に地面へと飛び降り、膝を曲げて着地し、何事もないように美夕へ向かって歩み寄ってくる。
「ヴィーナス！」
既に講堂の外で待機していたマーキュリーが、近付く人影に驚きの声を上げる。
「ルナが報せてくれたのよ。こいつ？ マーズが言っていた神魔って」
セーラーヴィーナスは美夕から目を離さずにマーキュリーに応える。
ジュピターとマーズは既に追い付いていた。
夜間水銀燈に青白く照らしだされたガランとしたグラウンドに、美夕とその下僕を中心にして四人の少女戦士がぐるりと取り囲む。
美夕は両手のこぶしが白くなるほど固く握り締め、口を引き締めて自分を取り囲む戦士達を怒りに燃えた目で見回す。
大きく一つ息を吐くや、先ほどビームを受けた右のこぶしを顔の高さまで持ち上げ、ゆっくりと開く。
と、純白の光の粒子がさらさらとこぼれ落ち、それは地面に着く前に光を失う。
「そんなっ！ クレッセント・ビームが効かないなんてっ！」
ヴィーナスの驚愕の声を軽く聞き流し、美夕はマーズに直面する。
「火野レイ。警告したのに、なぜこの事件に首を突っ込むの？」
冷ややかな視線をマーズは真っ向から受けとめる。
「やっぱり、あんただったの。神魔！ 今度の事件の張本人は」
「ふ〜ん、私が神魔って知ってるんだ。さすがは巫女ね」
美夕の口元に嘲りの笑みが浮かぶ。
「でもバカな娘達。その事件の張本人をたった今、あなた達が逃がしてしまったところよ。第一、あなた達は何？ マーズとかヴィーナスとか。その格好は」
苛立ちもあらわに美夕は自分を囲んだ少女戦士達を嗤う。
「私達は」
言いかけたマーキュリーを美夕が先んずる。
「あなたはこの中学の二年五組の水野亜美さん。六組の木野まことさんに」
「あんたはうちのクラスの矢代美夕だね。転校生の」
ジュピターの落ち着いた声が美夕の語りを中断させる。美夕は目を丸く見開き、ジュピターの姿を改めて見つめ直す。
「そう。だけど矢代はただの仮名。私の名は美夕。はぐれ神魔を狩る民の末裔」
「はぐれ神魔ですって？」
マーズが苛立たしげに叫ぶ。
「みんな気をつけて、こいつは勝手に私の夢に入りこんで、心を覗いたのよ！ もっともらしい事いって、こいつこそが今度の事件の張本人の神魔かも知れない」
緊張が四人の戦士の間に走る。
美夕は溜息をつく。
「バカな娘達。多少の力は持っているらしいけど。もう一回警告しておく。これ以上首を突っ込まない方がいいよ」
「そうはいかないわ！」
マーキュリーが一歩前に出る。
「元山さんが殺されたのよ！ わたし達の目の前で。あなたが犯人じゃないのなら、あなたの知っていることを話して下さい！」
「ふうん」
美夕はマーキュリーの小柄な身体を見つめる。ふいにその頬に冷ややかな笑みが浮かぶ。
「あの子は死んじゃいないわ。だけど死ぬよりもっと酷いことになっている。それより、あなた達の事に興味が湧いたな。何でそんな力があるのか。あなたが一番よく答えてくれそう。水野さん」
最後の言葉と共に、美夕はためらいもせずマーキュリーに向かって一歩足を進める。
たっ、とジュピターが美夕の肩を掴む姿勢で飛び掛かり、同時にマーキュリーはジュピターの陰へと飛ぶ。さらにマーキュリーの前と後ろにマーズとヴィーナスがつく。
「シャボーン！」
「ファイヤー！」
「クレッセント！」
ジュピターの目前で美夕の姿がかき消えたのと、マーキュリー、マーズ、ヴィーナスが詠誦を始めたのは同時だった。
「スプレー！」
霧が湧き起こり、水銀燈に照らされたグラウンドは白い闇に閉ざされる。夜風にも乱れぬ、自己拡散する濃い白闇だった。
マーズ、ヴィーナスは念を貯めた姿勢のまま、マーキュリーの前後をガードして待機する。マーキュリーは二人の間で素早くポケコンを作動させる。
姿を消した美夕の位置は？
点灯したディスプレイ上に異生物を示す光点が、自分の真後ろに輝く。
はっと振り返った目の前で美夕の金色の瞳が笑う。
美夕の足元にヴィーナスが仰向けに倒れ伏している。
「ヴィーナス？…マーズッ！」
再び振り戻した目の前に黒衣の壁が立ち塞がる。黒衣から伸びた純白の片手が、やはりうつ向けに倒れたマーズの腕を掴んで、半身を起こさせている。色白の盆の窪を見せ、その両脇で分れたマーズの黒髪が、地面の上に拡がっている。
上へと降り仰いだマーキュリーの目に、自分を見下ろす黒衣に覆われた白い仮面が飛び込む。
後ろから屍体の冷たさの柔らかい手がマーキュリーの手首を信じられない力で掴んで逆向きに捩じ上げる。
「さあ、水野さん。話してもらうわね、あなた達のこと」
容赦なく美夕はマーキュリーを自分の方へと向け直し、しなやかな腕で抱きかかえる。細身の少女の姿からは想像も出来ない強靱な力だった。
「ジュピター！ 助けて！ マーズ、ヴィーナス！ 起きてっ！」
腕の中で逃れようともがき叫ぶマーキュリーに、美夕は顔を寄せささやく。
「大丈夫、二人とも気絶しているだけ。でも、あなたには夢を見てもらう」
美夕の語りの最中に、既に術を破られ風に薄れ始めた霧を裂いて、ジュピターの長身が二人の前に飛び出す。
「マーキュリーを放せ！ マーズとヴィーナスをどうした」
人質をとられた形で攻撃できず、構えたままじりじりと迫るジュピターに、美夕は涼しい顔を向ける。
「素敵よ、木野さん。水野さんをちょっと借りるね。心を見せてもらうだけ。でも、その代わりに水野さんには望む通りの夢を見せてあげる」
美夕はマーキュリーを抱えた右腕を滑らせ、あらがうおとがいに指を這わせて押し上げ、白いのどをさらし、視線で舐める。
「あなたが望むならね」
のけ反りながら、マーキュリーはそう語った美夕の瞳の中に、冷たいほほえみを見る。突然の恐怖が襲い、反射的にマーキュリーは顔をねじ曲げて絶叫する。
「いやぁっ！ 助けて、まこちゃん！」
「ラヴァッ！」
マーキュリーの叫びに、ジュピターは弾かれたように飛び掛かる。
が、同時に発せられた美夕の短い叫びに下僕は黒衣の袖を大きく広げ、マーキュリーごと美夕の身体をふわりと包む。
ジュピターはその黒い身体に体当たりする。しかし、何の抵抗もなく黒衣がはためき、ジュピターはその向こうに突き抜ける。
勢い余って突っ伏しかけたのを全力で踏み留まり、素早く振り返ったジュピターの目には、既に黒衣の下僕も美夕もマーキュリーの姿も消えていた。
「亜美ちゃ〜ん！」
叫んだジュピターの呼びかけに戻ってくる声はもはやなかった。
第四章 亜美
ジュピターに活を入れられてヴィーナスもマーズも失神から醒め、全員で火川神社に急ぎ戻り、変身を解く。
今はレイの霊感に頼るしかない。
神殿の炎の前で一心不乱に祈っていたレイは、意外な面持ちで振り返る。
「分かったかい？ 亜美ちゃんの居場所」
身を乗り出してまことは尋ねる。
「それが…亜美ちゃん、自分の家にいる姿が見える」
「自分の家？ レイちゃん、電話貸して」
美奈子がレイの部屋に走る。まことが続く。
手早く巫女の装束から私服に着替えたレイが自室に戻った時、美奈子とまことはコールに出ない電話にかじりついていた。
「直接、亜美ちゃんちに行きましょ。私が霊視した亜美ちゃんはベッドで寝ている姿だった」
「分かった」
虚しくコールを続ける電話を戻し、二人は素早く立ち上がる。
三人は夜の街を亜美のマンションへ向かって走る。
陽が落ちた夜空を雲が流れる。流れる雲の底面は都市の灯に鉛色に照らされる。既に中型台風４号は九州地方に上陸し、強風と豪雨をもたらしていた。明日には関東を襲うと予測された。
頭上を流れる雲足はレイにのしかかるような不安をいだかせる。
「この風が何かをここにつれてくる」
レイの脳裏にこの言葉が警鐘のように鳴り続ける。あの神魔とも更に違う別の狂気じみたものの予感がする。ダークキングとも違う、底知れぬ脅威を覚えさせる何かが。
「亜美ちゃんの部屋、電気消えている」
まことの声がレイを現実に引き戻す。指差された亜美の家の窓は、団欒のこの時間帯に他のマンションの明るい窓の連なりの中で、ポツンと灯かりが消えていた。
マンションの亜美の家のドアは通路の控えめな灯かりに暗く沈んでいた。まっさきに到着したまことがチャイムを押す。息を切らせて待つが応ずる物音はない。
「亜美ちゃん、亜美ちゃん！」
押し続けても戻ってこない応えに、まことはドアを平手で叩き、ノブを虚しく回し、亜美の名を叫ぶ。
「待って。まこちゃん」
追い付いた美奈子が、今しもドアに体当たりせんばかりだったまことを止める。
「レイちゃん、確かに亜美ちゃんはいるのね？」
やはり追い付いたレイに美奈子は確認を取る。
「確かよ。あたしの霊視を信じて」
息を切らしながらレイが応える。
「まかせて」
美奈子はうなずき、ドアの前に片膝をつく。髪からヘアピンを抜き出し、シリンダー錠の穴へと差し入れる。微妙に捩じるとチャッと金属音がし、ノブは難なく回る。
「美奈子ちゃん、そんなワザどこで？」
驚くまことに、美奈子はウィンクして立ち上がる。
「忘れたの？ あなた達に会う前、私はセーラーＶしていたのよ。さっ、入るわよ」
ドアを開け、キッと中の暗がりに目を向け、たじろぎもせず美奈子は亜美の家に滑り込む。素早く室内に入った三人は警戒の姿勢を取り、周囲に視線を飛ばす。窓からの都市の光に、しんとして整頓された室内の輪郭が浮かぶ。
美奈子はゆっくりと指を伸ばして部屋のスイッチを入れる。明るくなった室内に何の異変も感じられない。
張り詰めた緊張が弛む。
レイが亜美の部屋のドアへと無言で顎をしゃくる。足音を忍ばせ近づく三人に新たな緊張が高まる。
ドアを勢いよく開けるや、飛び込んだ三人は散開して身構える。
部屋のスイッチの近くのレイが素早く灯かりをともす。
明るくなった部屋の中で、窓が開き、レースのカーテンが風に煽られていた。
ベッドには布団を掛けて亜美が眠っていた。他の者がこの部屋にいる気配はない。
緊張をほどき、レイとまことは亜美の枕元に駆け寄る。美奈子は窓を締める。
亜美は火川神社でマーキュリーに変身する前の十番中学の制服のまま横たわっていた。しかし、それは穏やかな寝顔ではなかった。悪夢にさいなまれているかのような苦悶の表情を浮かべ、低いあえぎを洩らしていた。
「亜美ちゃん、亜美ちゃん」
低いが力のこもった声でまことは寝顔に呼びかける。
ベッドの反対側にいたレイが小さく息を飲む。
「見て、これ」
その言葉にまことと美奈子はレイの指差す亜美のうなじをのぞき込む。白いうなじには小さな赤い穴が二つあいていた。傷の周囲にうっすらと乾いた血がこびり付いている。
「まさか、あいつ」
打って変わった勢いで、まことは眠る亜美の両肩を掴んで激しくゆする。
「起きて！ 亜美ちゃん。お願い、起きて！」
亜美の小さな頭が枕の上で大きく揺れる。その勢いに亜美の口が歪んで開き、あえぎ声が切れ切れになる。
「まこちゃん！」
美奈子がそんなまことを止めようとした時だった。
亜美のつむられた目がうっすらと開いた。
はっと、まことは手を放す。
焦点の合わない瞳で亜美は上に屈み込むまことの顔を眺める。口が空気を求めて開閉する。その瞳に光が宿る。
「まこ…ちゃん？」
かすれた声が洩れる。
「そうだよ、亜美ちゃん」
まことは大きくうなずいて笑いかける。目尻に涙がにじむ。
「本当のまこちゃんね」
そう言うが早いか、亜美は掛け布団を撥ねのけて、まことにしがみつく。まこともそれに応えて華奢な亜美の身体を抱き留める。抱きしめた亜美の制服はじっとりと汗がにじんでいた。細い身体が小鳥のように震える。
「レイちゃんも美奈子ちゃんも、本物のレイちゃんと美奈子ちゃんね」
まことに抱かれながら、亜美は二人を確かめるように尋ねる。
「ごめん、ごめんね。亜美ちゃん。怖かったろう？」
まことが亜美を抱きながら涙ぐむ。
「亜美ちゃん、あいつまさか亜美ちゃんの血を」
レイが固い声で尋ねる。まことの腕の中で亜美はびくんと身を縮める。同じく身体を硬化させたまことの顔を、亜美はゆっくりと見上げる。半開きになった唇が小刻みに震えている。
「まこちゃん…わたし、あの神魔に…ち、血を」
大きな目に涙がみるみる溢れ、あとは言葉にならず激しく嗚咽しながらまことにしがみつく。まことは小さなその背中をさすり続ける。
美奈子はレイを肘でつつき、亜美の部屋の外へとうながす。
「危険よ」
美奈子は今閉めたばかりのドアへと視線を走らせ、小声でささやく。
「吸血鬼に血を吸われた者は、その下僕になるってこと？」
「そう、どんなタイプなのか分からないけれど、手にかけられた以上、可能性はある。亜美ちゃんを疑いたくはないんだけど」
「分かったわ、そっと霊視してみる。でももしそうだった時は」
「亜美ちゃんを助けなくちゃ。たとえ、動けないように監禁してもね」
うなづき合った二人は、再び亜美の部屋に戻る。
亜美はまことの腕の中で既に静かにしゃくり上げていた。その背を穏やかにまことの手の平が撫で続けている。
部屋に戻った美奈子とレイのこわばった顔に、亜美は気付く。
「分かってる。わたし、吸血鬼に血を吸われたんだもの。さっレイちゃん、わたしを調べて」
息が乱れながらも落ち着いた亜美のその語調に、後ろを振り返ったまことは初めて二人の様子の変化に気付く。
言葉の意味を悟り、まことは驚愕の顔で亜美を見つめる。意思の強い、落ち着いた顔がそこにあった。
「そんな、亜美ちゃん。何でもないよ、こんなこと」
「ううん、まこちゃん。これは皆の為だし、わたし自身の為でもあるの」
二人のやり取りを固い表情で見つめていたレイは、短くうなづく。
「分かった、亜美ちゃん。それじゃしっかり視せてもらうから」
レイの指示で、掛け布団が外されたベッドの上でレイと亜美は正座して向き合う。軽く目を閉じた亜美に向かってレイは指を組み念をこらし、祈祷する。
短い時間であったかもしれないが、立ち合うまことと美奈子には涯しないほどの間に思えた。
やがて、大きくレイは息を吐いて肩を落とす。思わずまことは息を飲む。
「よかった、亜美ちゃん」
頬にかかる乱れた長髪を掻き上げながら、レイは亜美に疲れた笑みを浮かべる。
「大丈夫だったのかい！ 本当に？」
勢い込んでまことが尋ねる。レイはゆっくりと大きくうなずく。
「大丈夫よ、亜美ちゃんは意思の力で夢を拒絶したのね」
「夢？ なんのことだい」
さらに問おうとしたまことは、亜美の様子に気付く。先ほどまでの背を伸ばし毅然とレイに向かって正座した亜美の姿はそこにはなかった。張り詰めていた糸が切れたように亜美はベッドに崩れ落ちるところだった。
「亜美ちゃんっ！」
ベッドに突っ伏した亜美を横からまことが抱き留める。
「怖い、怖かったの」
先程よりさらに激しく亜美は震えていた。
「わたしもバケモノになっちゃうんじゃないかって」
しぼり出された亜美の、「バケモノ」の言葉にまことはふと講堂での元山伸子の変わり果てた姿を思いだす。
「安心して、亜美ちゃん」
ベッドの上で正座を崩し、レイが正面から亜美の頭に両手を添える。
「あの神魔の与える夢は、自分から望んだ者にしか受け入れられないみたい。亜美ちゃんは望まなかったんでしょ？」
こく、と亜美の頭がうなづく。
レイは今度はまことへと穏やかな目を向ける。
「亜美ちゃん緊張が切れただけ。まこちゃん、もう心配しなくていいわ」
その言葉でようやく、まことの表情から不安が去る。抱きかかえている亜美に目を落とす。
「よかったね、亜美ちゃん。じゃ、立てる？ 身体、汗でべとべとだよ。シャワーで流しておいでよ。さっぱりすると気持も落ち着くよ」
亜美が、パジャマをかかえてバスルームに消えた後、まことはレイに小声で問う。
「本当に大丈夫なのかい、亜美ちゃん」
「たぶんね。亜美ちゃん意思が強いから、あの神魔の見せる夢を拒絶出来たみたい」
「夢か…本当のまこちゃんやレイちゃんって言ってたわね。どんな夢なのかしら」
美奈子が考え深げにつぶやく。
「美夕って言ったわね、あの神魔。まこちゃんのクラスにいたの？」
レイが問う。
「ああ、転校生でね。身体が弱そうでおとなしい感じの子だったんだけど、とんでもない猫かぶっていやがった。見たろう、さっきの身ごなし」
二人はうなずく。
「相当ケンカ慣れしてるよ、あいつ。それに血と一緒に亜美ちゃんから私達の事すっかり聞き出しちゃったみたいだし。だから亜美ちゃんを帰したんだと思う」
「強敵ね。だけど、もし本当に美夕が言ってた通りに追っていた奴の方が真犯人だったとしたら、むしろ手を貸してやった方がいいのかしら」
「何言ってるのよ！ 美奈子ちゃん。あいつが私達に何をしたか忘れたの。それにあいつはもう、うさぎの秘密まで知っているのよ。もし、あいつが…」
「待ちなよ、レイちゃん。さっきだって美夕はもっと反撃出来たのにしなかった。迷惑って感じであしらってた。本来の相手とはみなしてなかった」
まことの声に悔しそうな響きが混ざる。生身で既にファイターであるまことの、猛々しい闘志をほのめかすその言葉に、美奈子とレイは一瞬たじろぐ。
「これから、どうする？」
美奈子が窓の外の闇に目を向けつつ問いかける。
「とにかく、亜美ちゃんはすぐ休ませよう。あたしが一晩つきそう。亜美ちゃんのママは今日も帰ってこないみたいだし」
まことの声にレイが続ける。
「じゃ、安心ね。その方が皆でいるより、亜美ちゃん落ち着いて眠れるだろうし。じゃ、あたしはすぐ神社に戻ってまこちゃんと亜美ちゃんのカバン持ってきてあげる」
「だめよ、レイちゃんも今日はすぐ休まないと。何回も霊視してるし、戦ってパワーも使ってるじゃない。ただでさえこの頃疲れてるんでしょ、神魔が現われたせいで。一緒に帰ろう。カバンはあたしが届けてあげる」
美奈子がレイに微笑みかける。何か言い返しそうな表情を浮かべたレイは、美奈子のその微笑みに、こくとうなずく。
第五章 彩
亜美がパジャマに着替えてバスルームから戻ったのを機会に、レイと美奈子はいとまを告げる。まこと一人が付き添う事を聞いて、亜美ははにかみながらも安堵の表情を浮かべる。
まことは二人の少女が帰って行った後、客室に二人分の布団を敷く。手伝おうとする亜美をキッチンの椅子に座らせたまま、まことはてきぱきと支度をする。それが終わると、まことはありあわせの材料から夕食を作り始める。
キッチンでコトコト包丁で音を立てるまことの後ろ姿を、亜美はパジャマ姿でテーブルに両手で頬杖をついて飽かずに眺める。
電気釜が湯気を吹き、鍋からクリームスープのかおりが漂い始める。蓋をしたフライパンの中ではハンバーグがジリジリと音を立てる。
まことが動くたびに、その背にポニーテールがふわふわと揺れる。
そんなまことの後ろ姿を亜美の目は追い続ける。
「まこちゃんねえ」
テーブルに皿を並べ始めたまことに、亜美が語りかける。
「美夕がわたしに見せようとした夢なんだけど」
ぴくと、まことの手が止る。静かに亜美の顔を見つめる。
「まこちゃんがいて、うさぎちゃんやレイちゃんや美奈子ちゃんがいて、みんなで楽しく暮らしている夢だったの」
眉を寄せて自分を見つめるまことへ亜美は、くすりと笑う。
「馬鹿みたいでしょう。今がそうなのに」
「そうだね」
まことは亜美の背後に回り、両肩に手を置く。
「美夕は知らなかったんだよ。亜美ちゃんも、私達も今、現実に幸せだってこと」
「ううん、あの子は知ってる。わたしのこと全部、血を吸いながら直接心から読んだの」
亜美が唾を飲み込む音が大きく肩を通してまことの手に伝わる。
「美夕は言ったわ。淋しい女の子達って」
机の上に置かれた亜美の両手が固く握られる。
「わたしの心、全部見られてしまった。自分でも見たくなかったところまで美夕は全部開いて見て、それでそう言ったの。とても優しそうな声で。…そして、とても暖かくて気持のいい夢に誘いかけたの。みんな優しくて、楽しくて」
肩が、全身が小刻みに震えていた。
「もし、うさぎちゃんがわたし達の前に現われなかったら、わたし達どうなっていたろうって、そうも、いった…」
言葉は震える吐息の中で消えた。
まことは腰をかがめ、後ろから大きく腕を回して震える亜美の肩をきつく抱きしめる。
「亜美ちゃん、誰だって心にとても脆いところってあるんだよ。でも、そこにつかまってしまったら終わりじゃないか。亜美ちゃんは自分のそんなところを美夕に見せられながら、夢を拒絶したんだろう？」
亜美の耳元にまことは静かにささやく。
「亜美ちゃん強いよ。それに、もし、じゃなくて現実にあたし達はうさぎちゃんに出会って、自分達で今の姿になったんじゃないか」
こくんと、亜美はうなずき、首を曲げてまことの顔を見上げる。小犬のような亜美の大きな瞳には涙がにじんでいた。亜美の髪のかおりが、ふわとまことの鼻腔をかすめる。
「ほら、涙をふいて、ごはん食べよっ。腕によりをかけて作ったんだよ」
まことは腕をほどき、スカートのポケットからハンカチを渡す。
「うん」
渡されたハンカチを目に当てながら、亜美は努めて明るくうなずく。
出来上がった料理を皿によそっている時に、玄関のチャイムが鳴る。皿への盛り付けを亜美にまかせてまことが出ると、美奈子が二人のカバンと、まことから頼まれた下着とパジャマを入れた紙袋を持って来たところだった。
「まこちゃんのお部屋って、凄く片付いているのね。びっくりしちゃった」
まことの部屋の鍵を戻しながら、美奈子は明るく語る。
「わざわざありがとう、使いだてさせちゃって。すぐ分かった？」
下着類を受取ながら、まことは礼を言う。
「うん、それとハイ、傘。さっきニュースで明日台風が関東に上陸確実だって言ってたから」
「わあ、サンキュ。どう、いま夕食が出来たばかりなんだけど、食べてかないか？」
まことの誘いに美奈子はちらと危なげな手付きでスープをよそっている亜美の姿に目を走らせる。
「ううん、今日は遠慮しとく。で、亜美ちゃんの具合は？」
「なんとか、落ち着いた。それよりレイちゃんどうだった？」
「それよ、神社に戻った途端、ぐったりなの」
「レイちゃん、今度のことでは何かムキになってたもんな」
「そ。うさぎちゃんだけは巻き込むまいって、見え見えなんだもん」
ふっと美奈子は笑みを浮かべ、慌てて口に手を当てる。
「そうだね、みんなそうなんだ」
まことの返事に、美奈子はまともにまことの目を見つめる。二人は無言でうなづき合う。
「だけど、美夕は許さない」
ちらと背後の亜美に目を走らせると、まことは低いが決然と語る。握り締めた手に力がこもる。
「分かってる。気を付けて」
美奈子は風がざわめく夜道を髪をなびかせて帰って行った。彼女の背景に灰色に流れる雲と、その雲に挑むかのようなオレンジ色の東京タワーの輝きが聳える。
美奈子を見送った後、まことと亜美はテーブルに向かい合って席に付く。まことの手料理を、亜美は普段の自分の食生活と対比して称賛する。だけど、その表情はあくまでぎこちない。自然に言葉は途切れがちになる。
夕食後、まことは亜美を体力と血の回復こそ大切と先に寝かせ付け、手早く後片付けを済ませる。
シャワーを浴びパジャマに着替えて客間に入ると、亜美は並んだ布団の一つの下で壁を向いて横たわり、自分の身体を守るように身体を丸めていた。その目は開いたままだった。
まことは隣の布団にもぐり込むが、亜美は身体を動かそうとはしない。まことはしばらく、布団からのぞく亜美のパジャマの小さな背中を見つめる。
「気にしてるのかい？ 心を読まれたこと」
まことのためらいがちなささやきに亜美の肩がぴくりと動く。
「亜美ちゃん、そっち行っていい？」
返事も待たず、つと、まことが亜美の布団に滑り込む。
亜美はゆっくりと振り向く。
まことの真摯な目が、思いがけないほど間近に迫っている。普段立っている時には見上げる位置だけれど、今、布団の中では正面からまことの顔と面していた。
「亜美ちゃんって強いよ。だけど、一人で強くいようっていつも張り詰めていたら、こわれちゃうよ。いいんだよ、時には泣いたって叫んだって」
亜美は暗い瞳でまことの視線を受ける。
思わず、まことは言葉に詰まる。
「心を読まれて隠していたことまで知られちゃうって、どんなつらいか…悔しいか…やられた本人じゃないから分かったような事言えないけど…仲間を押し売りするのもやだけど…あたし、今みたいな亜美ちゃん見てるのがつらいんだ。一人だけで耐えなくたって…」
言葉を探そうと困惑するまことを亜美は黙って見つめる。
ふと、亜美の鼻先をバラのコロンのかおりがくすぐる。
「うん」
なおも、ぎこちなく言葉をつなごうとするまことに、亜美は静かにうなずきかける。腕をまことの背中に回し、そっと顔をまことの胸元に埋める。
「ごめんね、すなおじゃなくって。一人じゃなかったんだ、わたし」
まことは既に亜美に語るべき言葉を失っていた。そのかわりに亜美の小柄な身体を大きく腕で抱きかかえた。
まことの胸元に顔を埋めたままの亜美の吐息が次第に大きくなる。まるで走り終えたランナーが酸素を求めるような、大きな息継ぎになる。やがて、その喉からすすり泣きの音が漏れ始める。それは待つまでもなく、子供のようなむせび泣きの声となる。
まことはただパジャマの自分の胸にしみこむ亜美の熱い涙を感じつつ、抱きかかえるばかりだった。
翌日の朝、タイマーで二人が目覚めた時には既に雨と風が窓ガラスに幾筋もの流れを付けていた。台風４号は既に関東を襲い始めていたのだ。
まことの腕の中で、亜美は昨日のダメージによる体力の消耗と泣き疲れで熟睡していたが、目覚めるや布団に一緒にいたまことの顔を一瞬いぶかしげに見つめ、次いではにかみの微笑みを浮かべた。
それでも、照れながら身体の心配をするまことに亜美は今日も登校するときっぱりと語った。その表情には、既に落ち着いたたたずまいが戻っている。
朝食のホットミルクとベーコンエッグ付きのトーストとグリーンサラダに、亜美は普段のコーヒーとトーストだけの自分の習慣を語り、食べきれそうもないと感嘆する。そうは言いながらも、亜美は二人向かい合ったテーブルで嬉しげに全部食べ尽くしてしまった。
自分が作った食事を見る見る平らげる亜美をまことはほほえんで見つめていた。
ただ、起きた時から窓の外、壁の中から監視されているような奇妙な圧迫感をまことは感じていたが、それを口にすることはなかった。このかすかな気配はこの部屋を後にする時もなお去ることがなかった。
余裕をもって二人はマンションを出て、傘を並べて十番中学に向かった。
風をついて降る雨は、アスファルトの上をおおって流れる被膜をなしていた。それは道路脇の排水孔へと泡立ちながら吸い込まれている。
あと数時間で台風の目は関東地方に到達するとの予報だった。
途中まことのマンションに立ち寄り、教科書とノートを詰め替えに、まことだけ部屋へとのぼっていった。
二人は気が付かなかった。
亜美のマンションから二人が並んで出て来て、まことのマンションに付くまで、物陰から隠れながら後を追い、見つめていた人影があったことを。ほっそりとした小柄な身体で、ボブカットの整った卵型の顔に眼鏡を掛けた少女が唇を引き締め燃えるような目で二人の姿を追っていた。
少女は杉浦 彩だった。
マンションの玄関から息を切らしてまことが現われた。
「やあ、亜美ちゃんお待た…」
ふいに言葉を切って自分の後ろに視線を飛ばしたまことに、亜美も素早く振り返った。雨に煙る一丁目分向こうの通りの角へとスカートの先が消えたところだった。
「どうしたの？ まこちゃん」
「うん、うちの生徒かな、あの制服。誰かが今の角から亜美ちゃんを覗いていた」
「まさか美夕？」
「いや、髪形が違った。知らない子だった。それに、あんな事があったんだ。もう美夕は学校にはこないと思う」
「そうね。気になるけど、急ぎましょ」
十番中学では案の定、まことの六組から美夕の姿が消えていた。同時に元山伸子の席も空いたままだった。
ただ、まことが驚愕したことには、それとなく話題にしても誰も自分達のクラスに矢代美夕という女生徒がいた事を覚えている者がいなかった。まさかと思ったもののＨＲの時間に担任が読み上げた出席簿からも、美夕の名前が消えていた。
一時間目が終わった休み時間、まことはこの事を告げに亜美の五組へ行くべくドアから出た。
「あっ、まこちゃ〜ん」
「うさぎちゃん？」
廊下に一組のうさぎが立っていた。そのうさぎに亜美がつかまり困惑の表情を浮かべていた。
「きのうの晩、まこちゃんのとこに電話したのに、いなかったの。お裁縫のこと教えてもらおうと思ってたのにぃ」
「あ、悪い。きのうは亜美ちゃんとこにいたんだ。ごめんよ」
「あ〜、いいんだ。宿題教えてもらってたんでしょ」
ちらと、まことは亜美の方に目を走らせる。うさぎからは見えない方の片目を亜美は堅くつぶって合図する。
「あ、そう、そうなんだよ。ちょっと分かんないトコあってさあ」
ぎこちなく答えるまことに、うさぎはいぶかしげな表情を浮かべる。
「ふ〜ん、なんかおかしいなあ。この頃、あたしに隠している事があるんじゃないの？レイちゃんなんかも様子が変だし」
子供のようにうさぎは背中で手を組んでまことの顔を覗き上げる。
「本当よ、うさぎちゃん。昨晩は一緒にお勉強していたの。これまであたし達がうさぎちゃんに黙って何かしたことがあって？」
亜美の穏やかな声に、うさぎは少し考え、こくんとうなずく。次いで、後ろに数歩離れて待っていた女生徒に声を掛ける。
「なるちゃん、わるい。先に図書館行って席を取っといて」
うさぎと同級の大阪なるは、まことと亜美に軽く挨拶すると、廊下の向こうに去って行った。
「もしかしてさあ、レイちゃんが言っていた神魔って奴の事で何かあるんじゃないかなぁって思ったんだけど、そうじゃないの？」
「違うわよ。本当にお勉強していただけ。あ、じゃあうさぎちゃんも今夜一緒にお勉強する？」
「ええ？ やだあ、お勉強なんて。あれ？ どうしたの亜美ちゃん、その首」
うさぎは目ざとく亜美の喉に貼られたバンドエイドに気付き、指差す。
「あ、ああそれかい。おっきな蚊がいてさ。腫れちゃったから手当てしといたんだよ」
思わずたじろぐ亜美に替わって、まことが慌ただしく答える。
「やだあ、もう蚊が出るのぉ？ 亜美ちゃんの血を吸うなんて、おしおきよっ、なんて。亜美ちゃん、かゆくてひどく掻いちゃったんでしょう」
自分で言った軽口に笑いながら、うさぎは亜美にふざけ掛かる。それゆえ「血を吸う」の言葉が出た一瞬の亜美の表情の変化をうさぎは見逃した。
「うさぎちゃん！ それより、次の授業って図書館じゃないのかい。急がなくていいの？」
「あ、そおなんだあ。グループ授業であたし達の班は太陽系のレポートなんだよ。じゃあ、お昼は一緒に食べようね」
慌ただしく言い残して、うさぎは左右のおさげを振りながら廊下を走り去って行った。
その後ろ姿に、まことは溜息をつき、隣の亜美の肩に手を乗せる。
「亜美ちゃん、今の…その」
くすり、と固い表情を崩し亜美は不安げに自分をうかがうまことを振り仰ぎ、笑いかける。
「うさぎちゃんって、鈍いんだか鋭いんだか分かんない子ねえ、ほんとに。わたしは大丈夫よ、まこちゃん。気にしないでっ」
その亜美の笑顔に、まことは安堵の笑みを浮かべる。
二人のその姿を五組の教室の中からガラス窓ごしに、彩が燃えるような目で見つめていたのには、二人共気が付くことはなかった。
白く煙る屋外の風雨は分厚いガラス窓を激しく洗っていたが、室内にはかすかな低音の波打つ轟きを伝えるのみだった。
図書館はうさぎにとって、そう楽しいところではない。
だけど、今回のグループ授業の為に百科事典を読んでノートに要点を書き移すことは、今回のテーマに限りまんざら退屈とは言えなかった。
太陽系の惑星の並ぶ順番ぐらいはさすがに知っていたものの、自分達自身の守護星に関するより詳しい知識を読むことは楽しい体験だった。細かい数字類に関してはともかく、豊富な写真類も掲載されており、読みやすいテーマの項目でもあった。
今、うさぎは大赤斑の写真も鮮やかな「木星」の項を読んでいた。
太陽系第五惑星。太陽からの平均距離七億七八００万km、公転周期十一．八六年、自転周期は緯度によって異なり赤道付近で九時間五十分、赤道直径は十四万二八００km。太陽系最大の惑星である。
水素とヘリウムを主体とする木星大気は、大気下部の熱い気体と上層の冷たい気体、および非常に早い自転運動による強風との相互作用で、多数の縞模様と大赤斑に代表される幾多の雲の渦が見られる。
吹き荒れる大気同士の摩擦によるエナジーは膨大な電気を生み、止むことのない雷が風の中、雲の中を荒れ狂う。写真では、ボイジャー一号によって撮影された木星の夜側の暗い球面上で発生している稲妻を白い光点の群れとして現していた。その夜の面の黒い輪郭を、吹き上がる電磁波により発生したオーロラが桃色に彩っていた。酸素の惑星である地球では緑のオーロラも、木星ではこの色彩を放つことを知り、うさぎはセーラージュピターのひらめくスカートとリボンの色の組み合わせに想いが至る。
事典は木星にかかわる神話にも触れていた。
ローマ神話ではジュピターことギリシャ神話のゼウス。神々を統べる調和の神でありながら、同時に、雷をその武器とする荒ぶる神。
いつか、うさぎは頬杖を付き、ぼんやりと空中を見上げる。ノートもとらずにぼおっとし、さらにはとろんとした笑みを浮かべたうさぎに気付いた隣の席のなるは、そっと肘でつつく。
「うさぎちゃん、ノートは」
「あ、ごめん。思い出したことがあってさ」
さすがに自分でも気付き、うさぎは小さく舌を出す。
「ふうん、木星。じゃセーラージュピターのこと考えてたんじゃない？」
なるは、うさぎの前に広げられた事典のページを覗き込む。
「きゃぁ、何で分かんの？ なるちゃん」
「月野さん、大阪さん」
２つ離れた机の向こうからクラス担任の桜田春奈が静かにたしなめる。
なるは困ったようにうさぎに笑いかける。うさぎも慌ててノートをとり始める。
セーラー戦士達はこの街の人気者で、おもちゃ屋でも彼女らのカードを売っているほどだった。十番中学にも、各戦士のファンクラブが存在しているらしい。ちなみにセーラージュピターは意外に男子間での人気が高い。
むろん、一般住民の誰も彼女らの正体を知る者はいない。でも、うさぎはなるが自分の正体を知っているのではないかとふと思うことがある。
「でさ、でさ」
しばらくして、うさぎはヒソヒソ声でなるに語りかける。
「なるちゃんはセーラー戦士の中で誰が一番好き？」
「う〜んと、やっぱりムーンちゃんかな。かわいいし、一生懸命だし。うさぎちゃんは？」
「にゃははは」
やはりヒソヒソ声で答えたなるの答えに、うさぎは我を忘れて相好を崩す。
「月野さん！」
すかさず、春奈のいささか強い声が飛ぶ。
窓を叩き付ける風雨は激しさを増し続けていた。
だが亜美の気が晴れないのはそれだけが理由ではない。
昨夜のこともあり高ぶった神経に、異様な圧迫感がこの教室の中から自分に向かっていることを感じる。授業中なので回りを確認する訳にはいかない。教室の中のどこからか、又は誰かからかのものであるようだ。
まさか、美夕？ その思いは身震いするものだった。
このクラスの中には親しく口をきく相手など誰もいなかったことに、思い当たる。さらにこの学校の中でも知っているのは、うさぎ、まこと、強いて言えばなる。それだけであることに思いが至る。
黙々と授業を受ける教室内の、これだけの人数の中で亜美はただ一人であった。隣のまことのクラスとを隔てている壁がこの時ほど恨めしく感じられた事はなかった。
それでも、この授業が終わればお昼休みだった。腕時計の針の動きがもどかしかったが、まだ授業終了まではだいぶ時間がある。
廊下を教室から教室へと急ぎ足で回って来る足音が近付いて来た。ノックされたドアが返事も待たずに開き、廊下から顔を覗かせたのは学年担任の吉田だった。授業中の英語教師の岡村を慌ただしく呼び寄せ、小声で何事かを伝えている。
中断された授業の気の抜けたスキに亜美は、そっと回りを見回す。ほとんどの生徒が吉田と岡村の方を見ていた。ただ一人、亜美の視線が向かう前に慌てて自分から視線を反らせたように見えた者がいた。亜美の右後ろの方に席があるボブカットの顔に眼鏡を掛けた女生徒だった。これまでクラスメートの名前など特に意識したこともなかったが、この女生徒はクラスでも成績上位の者として記憶に引っ掛かっていた。
杉浦 彩。
彼女について亜美が知っているのは、その名前だけだった。しかし、彩はもう他の生徒と同じく吉田と岡村のやり取りの方に心を奪われているようだった。
やり取りが済み、吉田がドアの向こうに消えると、岡村は振り返って改まった声で臨時休校を伝える。予想より遥かに強力な台風４号の雨の影響でバス、電車、地下鉄に大きな支障が現われるとの緊急警報が先ほど気象庁から発表され、生徒達を早めに帰宅させる決定がなされたとの事であった。
クラスは一斉に沸く。
寄り道などせず、真っ直ぐに帰宅するように、との型通りの注意が岡村からなされるなか、生徒達は教材をしまい始める。にわかに教室が騒がしくなる。
亜美はいち早く隣の教室のまことに相談しようと立ち上がる。
「水野さん」
ためらいがちな声が後ろから亜美を呼び止める。
杉浦 彩だった。
彼女もこのクラスでは女子のグループに加わってはしゃぐことのないおとなしい少女だった。声を掛けられるなどといったことは、これまでなかった。
「前の休み時間の終わりに六組の木野さんに伝言を頼まれたんですけど」
「まこちゃんに？」
思わず顔が綻ぶのを反射的に押さえる。
「ええ、昼休みになったらすぐ音楽室に来て欲しいってことでした」
亜美は首をかしげた。前の休み時間は結局うさぎに乱入され、余りまこととは話が出来なかった。もしかしたら、亜美が教室に戻った後で、まことが同じクラスの彩をつかまえたのかもしれない。
「ありがとう、わざわざ教えてくださって」
こくんと亜美は頭を下げる。
「でも、大丈夫なんですか？ 昼休みそのものも中止になっちゃってて」
彩はふと心配げな表情を浮かべる。
「ううん、ちょっとした打ち合わせだけですから」
それだけ聞くと彩は軽く会釈して自分の席に戻り、帰宅の準備を始める。取っ付きにくい感じだけど、けっこう思いやりのある人かもしれないと亜美は思い、さっきの視線の意味はそれだったのかと了解する。
鞄をもって教室から出ても、まだ六組の教室に動きはなかった。あるいはこの時限の終わりまで六組は授業を続ける気なのかも知れない。亜美は先に校舎のはずれにある音楽室でまことを待つことにした。
廊下を一人遠ざかって行く亜美の姿を、逆方向に流れる五組の生徒の中から彩はじっと見送っていた。
「え〜ぇ？ じゃあ、まこちゃんのおいしいお弁当はぁ？」
春奈から、臨時休校が伝えられたとき、うさぎの第一声がこれだった。
隣の席のなるは思わず頭を机の上に突っ伏す。
春奈は聞こえなかったふりをして、注意事項を生徒達に伝える。図書館は俄かに騒がしくなる。
「いいもん、まこちゃんを家に呼んで一緒にお昼食べるから」
図書館を一組の生徒の群れと一緒に出て行きながら、うさぎはなるに語りかける。
「うさぎちゃん、それじゃ木野さんに迷惑じゃないかしら」
困ったような顔でなるは答える。
「だって、いつもまこちゃんにはお弁当もらっているんだもん。お礼に食後にフォションのケーキもあるんだよ。夕方まで一緒に勉強しながら、雨宿りしてけばいいんだしぃ」
「勉強って」
さすがに言いかけて、なるは口をつぐむ。やり場に迷ったその視線がふと止る。
「あら、変ね」
「ひどおい」
と言いかけたうさぎも、なるのその言葉に視線を追う。
上のフロアへの階段をボブカットの顔に眼鏡を掛けた女生徒が鞄を持って、一人登って行くところだった。離れのこの建物の上のフロアは音楽室と視聴覚教室があるだけだった。
「なるちゃん、どうかしたの？」
「だって、もう休校でしょう。上のフロアに行っても何もないのに」
「ん〜ん、きっと忘れ物かなんかだよ。それより早く行こう」
「そうね、きっと」
それきり二人は振り返りもせず一組へ向かって足を早めた。
第六章 美夕
しんとした音楽室で亜美は窓際の椅子に腰掛け本を読んでいる。
まだ、昼休みの時間まで間がある。
六組の授業は誰なのだろう。融通の効かない教師だと、亜美はいらだつ。とはいえ、こうやって厚いガラス窓を隔てての風雨の低い音しか聞こえない一人だけの音楽室でまことを待つことは、不思議なほどに胸がときめく。
昨夜のまことに抱かれて眠った記憶が蘇る。パジャマの上から伝わってきた、まことの暖かい体温と、あの強靱な体力としなやかな身ごなしからは予想もつかない身の柔らかさとが思いだされる。
かすかなバラのコロンのかおりが鼻腔をくすぐる。
亜美は泣き疲れ、まことの腕と胸に身を委ねきって眠ってしまった。
思いだすと頬が赤らみ、口元にほほえみが浮かぶ。うっとりとした顔で亜美は真横の窓ガラスへと顔を向ける。
雨の叩き付ける窓ガラスの外にびしょ濡れの人間の顔が貼り付いて亜美を見ている。
顔は元山伸子だった。
窓は三階だった。
亜美は椅子から飛び離れる。読みかけの本が床に放りだされる。亜美の握り締めた両手は口を覆う。声は出ない。
伸子の両手の平が窓のガラスを外から撫で回す。
その時、後ろのドアが開く音がする。
「まこちゃん！」
振り返った亜美は入ってきた人影に駆け寄る。
音楽室に入ってきたのはまことではなかった。
杉浦 彩は亜美へと向けた冷たい微笑を外すことなく、後ろ手にドアを閉める。
「杉浦…さん？」
困惑するも、それでも亜美は目撃したものを伝えようと振り返り、窓を指差す。
窓の外には何もいなかった。
「どうしたの？ 水野さん」
彩は後ろから亜美の両肩に両手を乗せ、静かに語りかける。
「今、窓の外に…」
亜美はかすれ、わななく声でようやくこれだけの言葉を絞りだす。
「そう、お知り合いの人でもいたの？ すぐ、同じところに連れていってあげる」
彩の言葉の意味に気付き、はっと振り返ろうとした瞬間、肩に乗っていた手が渾身の力で亜美を突き飛ばす。何脚かの椅子を跳ねとばし、亜美は音楽室の床に叩きつけられる。激しく打ち付けた肩を押さえながら、亜美は倒れたまま彩を見上げる。
「何をするんです！ 杉浦さん。まこちゃんは？」
「木野さん？ あれは嘘よ。木野さんは来ないわ」
「なぜこんなことを」
身を起こそうと床についた亜美の手の平がぬるりとした被膜の上で滑る。
思わず向けた目に、床表面の異様な変質した姿が飛び込む。内臓を裏返して貼り付けたとでも言うべき肉色の被膜が床と言わず、壁と言わず、天井までをも薄く覆っていた。それは真紅の血管が一面に這い回り、呼吸するように脈動していた。部屋中からざわめく粘液質の音が急に沸き上がる。
慌てて亜美は立ち上がる。
「なぜ？ なぜと聞くの、水野さん」
彩はこの異変を気にするでもなく、変質した床の上を亜美に歩み寄る。
「あなたが…」
彩の形相が一変し、目が張り裂けそうに見開かれる。
「木野さんを奪い取ったからよ！ セーラーマーキュリー！」
大きく振りかぶられた彩の手が突き出される。その手の平の指、一本一本が槍のように伸び、亜美の顔面を襲う。
五本の槍が顔面に突き破ろうとした瞬間、見開かれた亜美の目の前で真紅の光が炸裂する。
思わず目を押さえた亜美の身体を誰かが後ろから抱き寄せ、自分の身体ごとジャンプする。その瞬間に発せられた力の篭った短い吐息は、明らかに少女のものだった。
「闇へお戻り、神魔！ もうおまえの動きはお見通しよ」
凛とした声が、自分を抱き上げている少女から発せられる。
赤い光に眩んだ視界に、彩とおぼしき、しかし何か形が奇妙に崩れた人影が後退りし、急に反転するやドアから逃げ出す姿が朦朧と映る。
それを見届け、亜美は首を回して自分を救った少女を見る。金色の瞳、頭の左でお団子にまとめた髪、白い和服。その瞳が穏やかに自分を見つめていた。
「美夕っ！」
亜美は突き飛ばすように美夕の腕を振りほどき、跳びすさる。両腕で自分の肩を抱き、亜美は息遣いも激しく美夕の姿を見つめる。
「間に合って、よかったね」
美夕は、そんな亜美を迂回するようにグランドピアノのそばまで歩き、ひょいと腰掛ける。
ようやく回復した目で見回すと、部屋中を覆っていた肉色の被膜は影も形もなく、部屋はしんとした静けさを取り戻している。どこにも濡れた跡すらない。
「どういう」
ごくりと亜美は唾を飲み込む。
「どういうことなの！」
昨夜セーラーマーキュリーの姿のまま自分の部屋のベッドに連れてこられ、美夕に組み敷かれ、情容赦なく首から血を吸われ、心までも読み取られた記憶と、たった今起こった変事とが交差する。
その当の美夕はピアノに腰掛けたまま、静かに亜美を見つめる。
「水野さん、あなたって強いんだ。夢、見なかったんだね」
身を堅くして自分を睨み付ける亜美に、美夕は目を細め穏やかに語る。
「だから、どうだって言うの！ まだわたしから何か欲しいの？ 血？ 情報？ もうわたしには何にもないわよ！」
蒼ざめた顔で亜美は美夕ににじり寄る。ためらわず、美夕の目を真正面から見つめる。
美夕はついと目をそらす。
「安心して。もうあなたを襲う気はないから。それより、今は杉浦 彩の事が知りたいんじゃなくって？」
亜美は美夕の横顔を睨んだまま沈黙する。やがて、大きく一つ息を吐き出す。
「美夕、さっきは助けてくれた事については、礼を言います。話して、知っていることを」
美夕は振り返り、亜美の堅い表情を見おろす。その口元にあどけない微笑が浮かぶ。
「私が憎い？ 水野さん」
「…あなたがわたしの血を吸って、わたしの心を覗いたこと、決して許さない。でも、今は杉浦さんの事、教えて。さっきのは何だったの」
するりと美夕はピアノから滑り降りる。亜美は思わず後づさる。かまわず美夕は窓際にゆき、亜美に背を見せて窓枠に両手を載せ、外の雨を見つめる。
「私は、はぐれ神魔を追っているの」
無防備な背中を亜美に見せたまま、美夕は語り始める。
「そいつが杉浦 彩に取り付いたから、奴を闇に戻すのが私の使命。だけど、彩に取り付いた神魔はあなた達セーラー戦士の力に興味があるみたい」
「なぜ、杉浦さんに神魔が？」
美夕は振り返り、亜美をいたましそうに見つめる。
「あなたの隣のクラスにいた私でさえ噂話で知ったのよ、彩のこと。同じクラスにいて水野さんは耳にしなかった？」
「やめて！ わたしのことはみんなお見通しなんでしょ！ クラスの人達とどういう付き合いをしていたのか」
亜美は唇を噛む。
「…彩はね、とてもつらい目に遭ったの。その時に彩の憎しみと苦痛に神魔が感応して、彩は奴を受け入れたの」
「それで、杉浦さんは？ あなたが神魔を闇に帰せば、杉浦さんは元に戻るのね」
「ううん。神魔を一旦受け入れてしまったら、命自体を汚されて二度と人間には戻れない」
美夕は亜美から目をそらし、再び窓を向く。
「二度とね」
亜美がそこにいないかのように美夕は窓に吹き付ける雨を眺める。
肩を落とした華奢なその後姿に、ふと思い付いた疑問を亜美は口にする。
「美夕、あなたもしかして、もとは人間だったの？」
後ろ向きの美夕の背が一瞬硬化する。
「もとから神魔だったわけじゃ、ないんじゃないの？」
ゆっくりと美夕は振り返る。鋭い視線が亜美に突き刺さる。
「水野さん、あなた…」
口ごもった口元がほころびる。小粒の歯がちらりと覗く。
「やっぱり、素敵よ、水野さん。月野さんと出会えてよかったね」
「え？」と言う呟きは亜美の口にのぼる前に消えた。
しばしの沈黙が流れる。
「そう、私はあなた達と同じ中二の時に吸血姫としての血に目覚めたの。そこにいるラヴァ…」
語り始めた美夕は静かに手を亜美の後ろに向かって伸ばす。
はっと振り返った亜美の目に、いつのまにそこにいたのか黒い下僕の姿が飛び込む。
緊張の走る亜美を仮面の下僕は静かに見おろす。
「ラヴァの手で眠っていた吸血姫の血が目覚めたの。そしてラヴァは私の血を受けて下僕となった」
窓際から離れ、美夕は軽い足取りでラヴァに近付き、その身を預ける。
ラヴァは壊れ物のように美夕の身体を抱き上げる。
「それまでは、あなた達と同じ普通の人間として育った…」
「それじゃ」
問い掛けた亜美に美夕は静かな視線を向ける。
「血に目覚めて、最初に吸った人の血はクラスメートの女の子だったわ、前の日まで一緒に勉強したり、ふざけ合ったりしていた。その日から私はバケモノになったの」
語る美夕の頬にやるせない微笑みが浮かぶ。
「気味悪がっていた血もおいしい味になって、私のせいで闇から逃れた神魔を追うために成長することも止められて、この姿のまま何十年も生き続けてきた。夢を求める弱くて美しい人達を餌食にして、血の代償にガラクタみたいな永遠の夢を与えながらね」
「あなたのせいで…闇から逃れた神魔」
「そう、だから今度の杉浦 彩の事件は私の仕事なの」
「なぜ、わたしにそんな話まで？」
「そう、なぜかしらね。あなたの血を吸って心を覗くべきじゃなかったかも知れない」
美夕に見つめられ、亜美は気付き、本来の事柄に話題を戻す。
「…杉浦さんは、どうしてあんな事を」
「杉浦 彩は木野さんと同じ中学から転校して来たの。前の学校にいた時から、木野さんに憧れ続けていた。だけど木野さんは彼女に気付きもしなかった。飛行機事故で両親を亡くした木野さんがここに転校した後で、彼女とても辛い目にあったの」
美夕はその「事件」の詳細については言葉を濁す。
「その時に神魔に身体を乗っ取られてバケモノになって、たった一人心に残っていた木野さんを追って、この学校に転校して来たの。彼女ね、まじめで勉強しか興味がない子だったんだけど、他人に憧れた最初の人が木野さんだったのよ」
ラヴァに抱き上げられた美夕の目が、高い位置から亜美を見おろしていた。
一瞬凍り付いた亜美の顔に、美夕はくすりと笑うや、窓の外へと視線を走らせる。
「ラヴァ、窓を開けて」
凛とした声で命じると、黒衣の下僕は腕を窓に向ける。
触れてもいないのに掛け金が外れ、窓が一気に開けられる。雨と風とが音楽室の床に吹き付ける。
素早く変身ペンを取り出し退路を押さえようと窓際へと身体を移した亜美に、美夕は高い声で笑う。
「素敵よ！ 戦士、マーキュリー。窓を開けたのはあなたのお仲間を迎えるため。お待ちなさい」
と、外の風雨の奥から赤とオレンジの二つの塊が開け放たれた窓から、音楽室に飛び込んでくる。着地した赤い塊は素早く身を起こし、濡れた漆黒の長髪を蛇のように大きく振って水を迸らせる。
「大丈夫？ 亜美ちゃん」
「マーズ！」
顔に貼り付いた髪を払い、セーラーマーズは亜美と美夕の間に立ちふさがる。
息を合わせてヴィーナスがマーズの横に並び亜美を援護する体勢を取る。
「美夕！ また亜美ちゃんを襲う気？ 今度は前のようにはいかないわよ」
ヴィーナスが全身から水滴をしたたらせながら、美夕に指を突き出す。
マーズの顔は昨日よりさらに憔悴が目立つ。クマの浮いた目をギラギラ光らせ美夕を睨み付けるさまは鬼気迫るものすら感じさせる。
美夕は嬉しそうに笑う。
「素敵ね、水野さん。この二人に守ってもらえれば、神魔からは安全ね。それじゃ、私は行くから」
開いた手を軽く振って三人に笑いかけると、美夕はラヴァと共にその身体が薄れ消え去った。
時間は少したち戻る。
六組で授業していた数学教師・橘は休校の連絡を受けながらも律儀にも時限の最後まで授業を続けた。それがようやく終わり、木野まことが亜美と打ち合わせをしようと教室のドアを開けたところ、月野うさぎが待ち構えていた。
「ま〜こちゃん、一緒に帰ろ」
「え、うさぎちゃん？」
ちらと隣の五組へと目を走らせる。
誰もいないしんとした教室内がガラス越しに見える。
「あの、亜美ちゃん見なかった？」
「知らないよお。あたしが来た時には、五組ガラガラだったもん。一緒にお昼食べようと思ったのに。先に帰っちゃったのかなあ」
まこともけげんな顔をして、誰もいない五組の教室を見やる。昨日の今日のこともあり、亜美に対しては腫れ物に触れるような気持もある。
「まこちゃん、今日はあたしんちで一緒にお昼のお弁当食べない？ 夕方までに台風は通り過ぎるんだって。あたしんちで雨宿りしよ」
うさぎはまことの腕を引っ張って誘う。
亜美のことも気がかりであったが、自分の考えで一人で帰宅したなら、そっとしておいた方がいいかもしれない。それに、うさぎの誘いにも心が惹かれる。
うさぎの家では母の育子、やはり小学校が途中休校になった弟の進悟もおり、食卓は賑やかさに包まれた。
うさぎと進悟の騒がしい言い合いや、育子に甘えるうさぎをまことは目を細めて見つめていた。
まことの弁当の盛り付けを育子は誉めそやし、返す刀でうさぎの家事能力を指摘し、それにうさぎが頬を膨らます。そのさまを、まことは眩しそうに眺める。
暖めるべき料理は電子レンジで加熱してもらい、まこととうさぎは弁当の中身をやり取りしつつ、賑やかに食事は進んだ。
「それでね、進悟ったらね…」
食後、うさぎの部屋で二人きりになった時も、まことはなかば上の空でうさぎの話しを聞いていた。
気が付きと、あれほど激しかった風雨が静まり、カーッペットに座ったまことの位置から窓越しに灰色の空が見える。時間的に台風が去ったはずがない。
「目」が十番町上空に差しかかったのだろう。
見上げた灰色の空は、あの日見上げた空を思い出させる。
飛行機事故で父母は地上七千メートルの空に散った。
あの日の空も曇ってどこまでも静かに広がっていた。
まことが当時いた中学は、いわゆる荒れた学校だった。
以前からまことのどこにも属さぬ孤高の姿勢に反発をいだいていた学内の半端者のグループが、父母を失って落ち込んでいるまことを、この時とばかりに集団で襲った。
だが、その際まことの父母を侮蔑した言動を吐いたのが誤算だった。
その瞬間、頭の中が白くなったまことが我に返った時、周囲には骨折、裂傷、内臓破裂の男達が血まみれで呻きながら転がっていた。
大勢の目撃者の証言からも、まことの情状は酌量されたが、半端者の生徒の父母達が騒ぎだし、結局その中学を離れざるを得なくなった。
その中学を離れるとき、そんなまことを慕って花束を呉れた女生徒が一人だけいた。
名前も顔も覚えてはいない。
もともとまことはその体格と気質のせいもあり、学内での他人との付き合いも薄かった。ただ、女子の間では人気があり、何度か女生徒達からの手紙を受け取った事もあったが、みな読まずに捨てていた。
花束を呉れた少女の、その学校には似合わないひ弱そうなイメージだけが想いだされるばかりだった。
「悪いことしちゃったかな…」
ふと、まことは呟く。
「え？ なに、まこちゃん」
うさぎは、おしゃべりを中断してまことの顔を覗き込む。
「あ、ごめん。なんでもないよ」
まことはバツが悪そうに笑い、元気に立ち上がる。
「ほら、うさぎちゃん。雨が止んだよ。今ちょうど台風の目に入ったんだ。今のうちに急いで帰るよ」
「え〜、帰っちゃうの」
まことは不満そうなうさぎを説き伏せ、帰宅の準備を急ぐ。弁当箱は育子が洗ってくれていて、ハンカチに包まれたそれを受け取る時に触れた育子の手の暖かさに、まことは頬を赤らめる。
手を振って玄関から雨の中断した十番町の道路を急ぐまことが振り返ると、玄関の前でうさぎ、進悟、育子がまだ並んで見送っていて、振り向いたまことに再び手を振った。
月野家が見えなくなる角を曲がったところで、まことは通信機を取り出し、亜美に連絡を入れようとした。しかし、電源を入れた途端、激しいノイズが鳴り響く。
故障？ 台風のせいだろうか。自宅に戻ってから電話を試したほうがよさそうだと、まことは家への道を急いだ。
「だめだわ、あたしのも」
十番中学の音楽室で、マーズ、ヴィーナス、変身したマーキュリーがそれぞれの通信機でまことに連絡をとろうとしていた。が、いずれの通信機も激しいノイズが鳴るばかりだった。
「待って、ここにいるわたし達同士ではどうかしら」
マーキュリーの提案に、一瞬けげんな顔をしたヴィーナスが試す。
何の支障もなかった。肉声と同じクリアーな音声と画像とがこの場の三人の間で交信できた。
「通信機の故障なんかじゃない。まこちゃんへの連絡が妨害されているのよ」
マーキュリーがこわばった顔を上げ、震える声で推測を述べる。
「それじゃ…」
「まこちゃんがあぶない！」
三人は窓の外を振り返る。先ほどまでの風雨は静まり、窓越しに静かな灰色の空が見える。
「急ぎましょう」
マーキュリーは真っ先に窓から飛び出す。
「ヴィーナス、あなたはうさぎのところに行って！ 護衛、お願い！」
マーズが後に続いて飛び出しながら叫ぶ。
「神魔がもし来たら、すぐ呼んで」
「オッケー！ まかせて」
後に続いたヴィーナスは、振り向いたマーズにウィンクする。
風が止み、とろりと静まった空気の中、濡れたビル群の上を三人の少女達が疾走する。
第七章 まこと
マンションに帰りついたまことは、鍵を出そうとポケットを探る。
ふと、廊下の角から現われた人影に動きを止める。思わず全身で振りかえる。
その少女はまことと同じ制服を着ていた。
生真面目そうな顔だちのボブカットの下の眼鏡の奥から、静かな視線がまっすぐに自分を見つめていた。
だが、まことのファイターとしての神経が、この少女から放たれる異様な気配に警鐘を打ち鳴らしていた。
何か、違う！ 空気のゆらめきが。
「木野…まことさん」
少女が口を開く。熱に浮かされたような震える声だった。
「そうだけど、あんたは？」
まことは無意識に防御の構えを取る。
「杉浦 彩です。十番中学二年五組の」
「ああ、亜美ちゃんのクラスの。あたしに何か用？」
彩の答えにまことはわずかに構えをゆるめる。
「やっぱり、覚えていないんですね、私のこと。この制服を着ていても」
まことのそっけない応対に、彩は右手を廊下の壁に付け、うつむく。
「あたしの前にいた中学の？ あんたも転校して来たのかい」
彩の沈んだ様子に、まことは口調をやわらげる。
「ええ、木野さんに会いたくて、ここに来たんです。でも、元山さんが言ってたとおり。木野さんは私を覚えてもいてくれなかった」
ゆっくりと彩は顔を起こす。
「元山、元山伸子か！ あんた何か知っているのか！」
講堂での惨劇の伸子の最期の姿がフラッシュバックする。まことは彩に掴みかからんばかりに近付く。
はっと、その目が廊下の壁に貼り付いた彩の右手に気付く。
制服の袖から覗く肌は人間の肌ではなかった。黒く筋張り肉色の小さな泡が一面を覆っている。
「あんたは…」
思わずまことは後ずさる。
彩は気付き、素早く胸に抱き寄せた右手を左手で覆い隠す。
「逃げるんですか、木野さん。木野さんなら助けて呉れると思って、ここまで来たのに」
「助ける？ あたしがあんたを。どういうこと」
「私と…一緒に来てください。私のそばにいて欲しいんです」
彩は右手をゆっくりと前に差し伸べる。
先ほど見た変容は目の迷いだったのだろうか。色白なほっそりとした少女の腕だった。
その手を見つめてまことは立ちすくむ。
ゆっくりと視線を手から彩の目へと移す。
「話して、杉浦さん。あんた、今度の事件にどんな関係があるの」
彩はまことの静かに見おろす視線をまともに受ける。やるせない微笑みを浮かべ、虚しく差し出されたままだった腕をおろす。
「こんなふうに木野さんと二人きりで話せるなんて、思っていなかった。こんな姿になってやっと対等に口がきけるなんて」
彩は先ほどまでの気弱な口調が別人のように落ち着いた語り口になっている。
つと、目をそらすと、廊下のテラス側の欄干に凭れかかる。
台風の目直下の沈んだ灰色の空の下、向かいのビルの屋上からセーラーマーキュリーとセーラーマーズの二人の少女戦士が、彩とまことの姿を見おろしている。
「お仲間が来ましたね、セーラージュピター。ずっとあこがれていたんです。木野さんがただの木野まことさんだった頃から、ずっと」
彩の視線を追って二人の仲間の姿に気付いたまことは、この彩の言葉に振り向く。
欄干を両手で握り締めた彩の身体が細かく震えている。
「私も、強くなりたかった…分かり合える仲間が、欲しかった」
「杉浦…さん」
まことは震えるその背に手をさし伸ばしかけた。
「逃げて！ まこちゃん」
マキュリーの叫びが二人の間に突き刺さる。
彩はマキュリーを真っ直ぐに見上げる。
「シャボーン スプレー！」
詠誦と共に濃い霧がマーキュリーの前面に湧き出し、見る見るこちらのマンションへと迫る。一瞬後、廊下は白い闇に包まれる。
次の瞬間、まことは横から肩を掴まれる。
「まこちゃん、こっちよ。早く逃げて」
霧に隠れて向かいのビルからマンションの廊下へと飛び移ったマーズが顔を寄せ誘導する。
後ろを振り返ったまことの目に、おぼろな彩のシルエットが霧をものともせず近付いてくるのが映る。
マーズとまことは階段を飛ぶように地上へと駆け降りる。
駐車場に使われている敷地で、二人を待ち受けていたマーキュリーはまことに駆け寄る。
「まこちゃん。杉浦さんが神魔だったの！ 今度の事件は…」
「そう、私よ」
振り向いた三人の五メートルも離れていないところに、まことと同じ制服を着た彩が立っていた。息一つきらしてはいない。
「杉浦さん、あなた神魔に取り付かれているんだって？ あたし達でなんとかしてあげるよ。そうだ、セーラームーンのムーン・ヒーリング・エスカレーションで。だから…」
まことが思わず言った思い付きにマキュリーは驚愕の目を向ける。
彩が怪訝な表情を浮かべる。
「だめなの、まこちゃん。神魔を一旦受け入れてしまったら、命自体を汚されて二度と人間には戻れない…美夕がそう言っていた」
まことの腕にすがり、マキュリーは堅い表情で苦しげにささやく。
「美夕が？」
思いがけない名前に、まことはマキュリーを見おろす。
その二人を見つめる彩の表情がこわばる。
その口元がなにごとかを呟き始める。
「遅いの、遅いのよ…もう遅いの！」
彩の呟きは突然絶叫に変わり、空を振り仰ぐ。
蠢く灰色の雲が頭上を覆い、ポツリ、ポツリと雨が降り始めている。「目」の領域を外れだしたのだ。風も吹き始める。
「あなた達は、ただ月野さんに呼ばれたってだけで、仲間同士になれて。誰も他の人は入れないじゃない。いくら、いくら想い続けていたからって！ 何が前世からの宿命よ！ 何が転生よ！」
マーキュリーの顔を睨み付け、彩は叫ぶ。
言葉を発しようとしたマーキュリーの顔が凍り付く。
自分を指差す彩のその指は、既に人間のものではなかった。黒く尖り、木の枝のように伸び続けている。スカートから伸びる脚も黒変し、枝分かれしてアスファルトを突き破り大地に潜りこむ。身体を覆う衣類が内側から膨れあがる。
「あなただけが、なぜえゑゑぇぇー」
変質した声は既に人間のものではなく、それすら途中で立ち消え、大きく開いた口が絶叫の形のまま内側がまくれ上がってくる。
マーキュリー、マーズ、まことは急激な彩の変貌ぶりに後ずさる。
衣類は裂け、その内側から大きな肉色の泡がトウモロコシのように溢れ出す。元は脚であった蠢く樹根がめり込んだ地点から、アスファルトに亀裂が走る。
駐車場、いやマンションを含むこの全域に細かい揺れが始まる。
歯を食いしばってマーズが一歩踏み出す。
「悪霊退散！」
全身の力を振り絞り、既に泡立つ肉色の塊と化した彩へと護符を飛ばす。護符は矢のように飛び、崩れ果て五十センチ程に肥大した彩の顔の中央に貼り付く。変形しながらも、涙の流れる目で三人を見つめていた彩の顔に苦悶の表情が浮かぶ。
「ファイヤー！」
マーズは指を合わせ、念を込め始める。
「待って！ あの人は杉浦さんよっ！ 人間よ！」
はっと、マーキュリーがマーズを止めかける。
マーズはぎらつく目でちらとマーキュリーに一瞥をくれる。
「ソウル！」
かまわず叫んだマーズの指先から紅蓮の焔が膨れあがる怪物に向けて襲いかかる。雨と風の中、焔は怪物の全身を包み、怪物はその身体から伸び始めた大小の触手をはためかせてもがく。
「あいつは、もう杉浦さんとかじゃない。人間なんかじゃない。こいつは私の相手よ！」
マーズは呆然としたマーキュリーに言い放つ。
「あいつは…」
その時、吸い込まれたように怪物の全身を包んだ焔が消えた。
身構えた三人の前で怪物はゆっくりと蠢く。
体表の焦げた部分が内側へと吸い込まれ、みるみると元通りの肉色の泡の塊に戻って行く。
「こいつは…」
まことが呻く。三人は身構えたままじりじりと後退する。
大地の鳴動は、次第に激しさを増す。
ばんっ！と音を立て、突然三人の後ろのマンホールが弾け飛ぶ。反射的に後ろを振り向いた瞬間、マーズの真下のアスファルトを突き破って黒い触手が飛び出すや、胴を鷲掴みにし、一気にマンション屋上の高さまで振り上げる。
一瞬静止し、グンと向きを変えるや、マーズを掴んだまま、触手はまるで腕を降りおろすように途中から折れ曲がり、大地に向かって叩きおろされる。
マーズの目が恐怖に見開き、マーキュリーが両手で顔を覆った瞬間。
黒い影が宙を走り、触手と交差し、赤い閃光が三日月状に空を断つのが同時だった。
大地に叩きつけられた触手には、その先端部もマーズもついていなかった。
凍り付いたマーキュリーとまことの前に黒い影がふわりと舞い降りる。
二メートルを越える巨体の黒い衣を頭から被った美夕の下僕・ラヴァ。その顔は白い仮面に覆われ、表情は知りようもない。が、その衣に覆われた両腕にはマーズの身体がしっかりと抱きとめられていた。
「マーズ！」
かって戦った相手であることもかまわず駆け寄るマーキュリーとまこと。
「大丈夫、気絶しているだけ」
突然、二人の真横から穏やかな声が掛かる。
声の方向を振り向く二人の目に、佇む美夕の姿が飛び込む。
「あんた、美夕？」
まことは思いもかけない展開に目を見張る。
マーズを抱いたラヴァへと近付きながら、美夕はまことにほほえみかけ、うなずく。
美夕は意識のないマーズに目を戻し、腕を伸ばし、額にかかった乱れ髪を直してやる。
「よく闘ったわね。立派よ、マーズ。ラヴァ、マーズをそこに」
美夕は黒衣の巨漢に、雨を避けるべくひさしの下を指差す。ラヴァと呼ばれた巨漢はマーズを優しげに乾いた床に横たえる。
マーキュリーとまことは横たわったマーズのもとに駆け寄る。
「心配ないわ、ショックを受けているだけ。身体もこれまでの闘いで衰弱しきっていたのに」
二人に声を掛けるや、美夕は怪物へと身を向ける。
「後は私がやります。あれは私の相手」
「美夕、あんたは？」
まことは美夕の後ろ姿に声を浴びせる。
「私は闇から逃れたはぐれ神魔を狩る者。水野さんのことでは、ごめんね…神魔・嚢樹！」
言葉の最後は、怪物に向けたものだった。
杉浦 彩だった泡の塊は、マンホールから現われた泡の塊との間の大地を引き裂き、そこから新たに溢れ出てきた泡を通じてどうやら地底で繋がっているようだった。
さらに、どんどん巨大化する融合した肉色の泡の塊を中心に周囲のアスファルトからマンションや周囲のビルの壁面へと亀裂は樹の根が広がるように拡散を続けていた。
「とうとう正体を現したわね。大勢の人間を取り込んで、この町の地下に潜んでいたけれど、杉浦さんに本体を植えつけたのが失敗よ。おとなしく、闇にお帰り！」
風雨と大地の鳴動する轟音の中、美夕の声は鈴の響きのように耳に沁み通る。
美夕の右手が横に突き出され、後ろに立つ黒衣の巨漢ラヴァの同じく突き出された掌との間に球状の空間が形作られる。ぽうとその空間に焔が浮かぶ。
その焔の発生を感知したように、嚢樹と呼ばれた怪物の身体からいきなり数十本の肉の索が飛び出し、先端部のイソギンチャク状の触手の密生した口を全開にして、美夕に襲いかかる。
が、のたうつ索が次々に叩き付けられた場所に既に美夕の姿はなかった。
「遅い！ ここよ」
上空から声が放たれるや、マンション屋上に身を移した美夕の真っ直ぐに突き出された手から、焔の奔流が螺旋を描いて嚢樹の周囲を走る。
焔の螺旋の中央で嚢樹の動きが鈍り、真紅の焔の照り返しの中、テラテラとぬめる全身を覆った肉色の泡が裂け始める。
樹状の触手は、焔の螺旋の中から出ることも出来ず、いたずらにはためく。
まこととマーキュリー二人の目には、見上げるはるか上方の美夕の顔が満足げにほほえんだように見えた。
その時だった。
呆然と見上げる二人の足元のアスファルトが裂け、真黒な触手が飛び出し、マーキュリーを弾き飛ばし、その身をアスファルトの上に水しぶきをあげて転がす。
身構えたまことを、その触手は無造作にからみ取り、宙に持ち上げるや、大地を引き裂き、焔の螺旋を突っ切り、中央の本体へと凄まじい勢いで戻る。
全身を締めつけられたまま嚢樹の本体に叩き付けられたまことは、受け身すら取れずに失神する。
その身体を大小の黒い触手が伸びて、押さえ付ける。
美夕は舌打ちする。
「まこちゃん！」
顔を起こしたマーキュリーは、素早く立ち上がり、嚢樹の幹にからめ取られたまことに向かって駆け出す。
既に嚢樹の全身は、実を食べられた葡萄の房の残骸のようにほとんどの泡が破れ、黒く絡み合った熱帯樹のごとき姿に変じていた。直径は二十メートルは軽くあるだろうか。
す、と美夕はいまいましげに、嚢樹に向けて突き出していた手を外す。
焔の螺旋は美夕のその動きに応じ、消滅する。
「嚢樹！ いいえ、杉浦さん。木野さんを離しなさい。もうどうにもならないことぐらい分かっているはずよ」
凛と美夕の言葉がマーキュリーの耳にも響く。
「嚢樹に身を捧げた時に、あなたの命は汚れてしまった。だけど想い出までを汚したくなければ、木野さんを離して私の焔を受け入れなさい」
強まり始めた雨足の中、静かに嚢樹は蠢き続け、その幹全体が上方の美夕へ意識を集中している。
「あなたなんかに！」
ふいに嚢樹が叫んだ。
驚愕に見上げたマーキュリーの目に、嚢樹の樹冠付近の黒い幹が裂け、彩の裸の上半身がそこから白く突き出しているのが見えた。
「あなたなんかに、分かるものか！」
上方の美夕に叫んでいるのは、その彩だった。
バイザーで明瞭に彩の姿を見直したマーキュリーは息を飲んだ。上半身は確かに華奢な彩の裸身だった。が、黒い幹から突き出している辺りは異様な管や根のようなものが這い回る肉塊へと続いていた。
ふいに、嚢樹の全身が真上へと突き上げられた。クレーンで持ち上げられたように、巨大な嚢樹の身体が浮かび上がってゆく。
まだ地中に潜んでいた嚢樹の下部組織が雑草の根が引き抜かれるように、面積を拡げながら現われてくる。
道路のみか、周辺のビルの壁内に張り巡らされた根が引き抜かれるにつれ、壁材やガラスが剥がれ落ち、道路へと雪崩となって降り注ぐ。
叩きつける雨は吹き出すほこりの雲と嚢樹の根を洗い、そこから降り注ぐ泥水は大地を流れ、嚢樹はその面積を拡げながらビルの群れの間を上昇し続ける。
白く光る雨の中、十番町の上空に円形に広がった嚢樹の影が黒いクラゲのようにグロテスクな姿を見せる。
マーキュリーは何の打つべき手を持たず、小さくなって行く嚢樹の姿を追うことしか出来なかった。
「ここで待っていなさい、マーキュリー。木野さんは取り返して来てあげる」
ふいに、自分のすぐ隣で声がする。
「まこちゃんを？あなた…」
いつからそこに来ていたのか空を見上げる美夕は、チラとマーキュリーに目を移す。
思いつめたマーキュリーのその顔に、美夕は微笑みを浮かべる。
「そんな顔しないの。戦士でしょ、あなたも。 ラヴァ！」
厳しい語調に変じた最後の言葉は、後ろに付き従う下僕に向けてのものだった。
ラヴァは、黒衣の腕を回して美夕を抱き上げた。
二人の回りに、ぼうと赤い光が放たれる。
マーキュリーが声を掛ける間もなかった。
赤い光の球に包まれた二人は、風船が放たれたような勢いで雨空に向かって上昇していった。既に小さな黒い円になった嚢樹のあとを、見る見る小さくなってゆく赤い球が追って行く。
ふいに頭上の雨雲の中に光りが走り、雷の低い音が響く。
台風の中で雷？
「雷神…」
マーキュリーは空を見上げて呟く。
後ろで呻き声が漏れる。
「マーズ！」
振り返ったマーキュリーの目に、青ざめた頬に乱れた髪をなぶらせたマーズが、苦しげな息継ぎをしながらも、気丈に立ちあがろうとする姿が写る。
「まこちゃんは？ 神魔は！」
「行ってしまった。空へ」
「空…」
マーキュリーに並んでマーズは呆然と雨空を見上げる。
第八章 風の空域
雷鳴の中でまことは目覚めた。
嚢樹の幹に身体を押さえ付けられ、もたげた視界に、蠢きながら下へ向かって下降し続ける綿菓子で作られた灰色の壁が見える。
あれほど降っていた雨が全く止んでいる。
まことを目覚めさせた雷鳴の後も、絶え間なく轟く低いうなりが大気を満たしている。
見回すと周りの灰色の壁はとてつもなく巨大な円周を持つ筒の内壁を形成していることが分かった。
いや、周りが下降しているのではない。自分と自分を捕えたこの怪物とがこの筒の中を上昇していたのだ。
壁は蠢く雲の塊だった。この筒の中のそこここに周囲の壁からちぎれた雲のかけらが綿菓子のように漂っている。
信じがたい思いで下に目を向けると、嚢樹の根の絡まりと千切れた雲の隙間から、めくるめく高みから見おろした暗く霞んだ都市の姿が覗く。
反射的にまことは手近な嚢樹の枝を握り締める。硬質な皮に似た手触りだった。堅いのに奇妙な弾力を感じる。足はわずかに太めの枝の一本に乗っているに過ぎない。気を失いそうな虚空の恐怖がまことを捕える。びしょ濡れに貼り付いた衣服から、寒さが染みとおってくる。
まことは理解した。自分は今、台風４号の目の中を真上に向かって連れ去られてゆくところであることを。おそらく嚢樹は強い風雨を避け、目の中を逃げようとしているのであろう。
漂う雲のかけらに突っ込むたびに霧のように視界が閉ざされる。
下が見えない方がむしろましだったが、嚢樹はあたかも空へ向かって落ちて行くがごときスピードで上昇を続け、次々と雲のかけらを突き破って行く。
再び、間断なく蠢き続ける周囲の積乱雲の壁の中に光が走る。轟き続ける低いうなりを裂き、雷鳴は耳をつんざくように鳴り響く。
上空に見えていた青空の丸天井が次第に迫ってくる。周りの積乱雲の壁に隙間が目立ち始める。その間にも、稲妻と雷鳴は威嚇するように何度も雲の壁の中を走る。
まこと達は穴の上面を越えた。
渦巻く雲が丸く目を囲んで取り巻き、その周囲を長く尾を引きながら分厚い円盤の形に広がっている。
見上げた上空には雲がなく、ほとんど紺色に近い初夏の空から真昼の太陽が、台風の上面を純白に輝かす。晴天の日の雪野原にも似た純白の渦が地平の果てまで広がっている。だがその上には何もない。
その何もない空へ向かって嚢樹は上昇し続ける。
すでに高度は七千メートルに至る。
気圧は薄く、既に気温も氷点を遥かに下まわり、ただ風だけが吹きすさぶ。
この風の空域に生身で挑んだ人間はいない。
あるいは戦闘機から緊急脱出したパイロット、あるいは飛行機事故で突然放り出された人間だけが、この空域をむき出しの身体で体験したに過ぎない。
この空域で父母は死んだ。
薄い気圧の影響で割れるような頭痛と身を切る寒気と恐怖とに、まことの顔は引きつり歯を食いしばる。父母の顔が脳裏に浮かぶ。
その時、ひときわ大きな雷鳴が追撃するように下から轟く。
思わず、まことは下を見おろす。視界いっぱいに広がった雲の渦が見られる。はためく雷が渦中央の壁面から対面の雲の壁へと再び龍のようにうねる。
混濁した思考の中、覚えのない記憶がデジャブーのように広がる。濁った大気は吹き荒れ、雲は巨大な渦を巻き赤く色付く。風の摩擦によるエナジーは膨大な電気を生み、止むことのない雷が風の中、雲の中を荒れ狂う。その風の中を雷電の翼をはためかせ舞い踊る一群の猛々しい者達の姿がほの見える。まことはその者達と共に舞っていた。
今にも意識不明になりそうな思考に何の脈絡もなく浮かんだ心象にまことが呆然となった時だった。
「木野さん、寒いでしょう？ 私と一緒になりましょう」
まことをいましめている嚢樹の幹の隣の樹皮が縦に裂け、彩が白い裸身を乗り出し、語りかけてきた。
「ね、一緒になれば楽になれるし、何も怖いものがなくなるの」
「どういう事だ？ 一緒になるって。元山伸子みたいになるのか」
彩の顔を見た途端、それまでの恐怖の表情は抑えられる。彩はそんなまことの顔を余裕に満ちて見つめる。
「木野さん、本当は怖いんでしょ。こんな高いところに来ちゃって。だけど、怖がった顔なんてしないのね。いつもりりしくて…でもね、怖いことなんか何もないの。元山さんだって元気よ。ほら」
彩はまことの反対側の幹を指差す。彩と同じく嚢樹の幹に裂け目が出来、元山伸子の裸の上半身がそこから突き出していた。
伸子はドロリと淀んだ目でまことを見上げる。
「木野さん、あんたのせいで私はこんな目に」
伸子は横からまことに掴みかかる。
「こんな生き地獄に引き込まれて、あなたも同じ目に遭えばいいんだ！」
まことに顔を寄せ、伸子は目を血走らせ、噛みつくように絶叫する。
「お下がり！ 木野さんに何をするの。木野さんはあなたみたいなザコとは違うの。特別の場所を用意してあるの。あなた、おしおきが必要ね」
彩は狂乱した伸子を別人の口調で一喝する。
「いや！ あそこはもういやぁ！ 許して」
その一喝に伸子は恐怖に目をみ開いて彩を仰ぎ見る。
「ねえ、木野さん。私ねえ、昔とても酷い目に遭ったの。クズみたいな街のダニ共に捕まって、監禁されて弄ばれたの。その時に嚢樹が私を助けてくれたのよ。でもねえ、そのダニ達はそれ以来行方不明なのよ。どうなったと思う？」
彩は引きつった笑いを浮かべてまことの顔を覗き込む。
まことには、彩を呆然と見返すことしか出来ない。
「ね、素敵なものを見せてあげる。ほらっ！」
合図と共に、まことを縛っている触手が腕のように伸びて高く持ち上がり、身体を幹へと向ける。まことは、自分が捕えられた場所が今や車輪状に拡がった嚢樹の中心部分であったことを知った。
絡み合った黒く細い枝々は、全体でまるでキリストが被った荊の冠のような外観になっていた。その絡み合いの中心に芯のようなほぼ球形の塊がある。まことは今までその横腹に縛り付けられていたのだ。
その中心の塊の、それまでまことが押しつけられていた位置の上部に、三メートルほどの裂け目が生ずる。今、裂け目を内側から押し開くように、濃褐色の巨大な泡が一つ押し出されてくる。泡は褐色の液体に満ち、半球状のドームが幹にめりこんだ形になるまで膨れ上がる。かじかんだまことの鼻をぷんと甘酸っぱい腐臭が刺す。
「どう、木野さん。私をおもちゃにしたクズ達がどういう目に遭っているか御覧なさい」
ドームの横に彩は足首を幹に埋めて垂直に立ち、ドームを指差してせせら嗤う。
息をつめて見つめるドームの中に人間の残骸とでもいうべきおぞましいものが何体か漂いながら蠢いていた。彼らは不潔な褐色の液体の中で生きていた。生きながら、周囲の壁から伸びる数知れぬ細い索に身体を抉られ、明らかにドームの外のまことの姿を認めてそちらに向かって手を伸ばす。ドームの内壁を彼らの手の平がはい回る。崩れた顔を膜面に押しつけ、叫びの形に口を開ける。
「彼らは決して死ぬことはない。生きながら爛れ、腐って、身体を抉られ続けるの。この泡の中で肉酒に変わっていきながらね。永遠に止まない生地獄よ」
彩は目を輝かせ、足元の亀裂から半身を覗かせた伸子を指差す。
「元山さん、まだ分かってないようね。よく教えてあげる。私の力をね」
「いや、いやああぁぁっ！」
恐怖に目をみ開いた伸子の身体は、しかしズブズブと幹の奥へと飲み込まれて行く。亀裂の縁を最後まで掴んでいた手も、閉じる亀裂の奥へと消えた。
けたたましい声で彩は哄笑する。そして、ぶざまに全身でポーズを取ってドームを指差す。
「神魔にかわってぇ、おしおきよっ！ あーははははははは」
ドームの内壁に伸子の白い裸身が浮かびあがる。両手のひらをドームの透き通った膜に押し当てて必死の形相で、逃れようとするかのようにもがく。
みるみるうちに、後ろから先程の崩れた男達が伸子の顔、胸、腹、脚に腕をまわし、あるいは抱き付く。絶叫の表情のまま、伸子は淀んだ腐汁の深みへと沈んで行った。膜面に見えるのは腐汁が激しく掻き回された渦の残りだけとなった。伸子の姿が消えるや褐色のドームも幹の奥へと沈んで行き、周りの堅い皮が瞼のように閉じる。
まことと彩だけが取り残された。
突刺す寒気によるものだけでない震えに、まことは歯を食いしばる。
「これが、あんたが得た力か。杉浦さん。すぐ止めさせろ！」
まことは顔を歪めて絶叫する。容赦のない寒気が声をわななかせる。
「ごめんなさい。木野さんはまだ、生身だったわね」
まことの叫びが聞こえなかったかのように、彩はまことに語りかける。
持ち上げられたまことに対面した黒い幹の表面がよじれ、開く。ピンク色の内壁がさらされ、そこへとまことは静かに下ろされ、寝かされる。凍えた身体をピンクの肉がナメクジのように這い上がり、濡れて半分凍った衣服の下にも這い入り肌を覆う。 寒気で触感まで失せていた肌が、溶けるように感覚が回復してくる。嚢樹の肉に直接触れている手足や腹部が、なま暖かく、蠢く肉に包まれている感触に、むしろ快さを覚えていることに、まことはゾッとするおぞましさをいだく。
「どう？ 気持ちいいでしょう。木野さん」
彩がピンクの内壁から身体を生やし、まことの上にかがみこむ。
「怖いことは、何もないの。寒くも暑くもない身体よ。一緒になりましょう」
「そして、元山伸子みたいに逆らったら、あそこに入れるのか」
全身を嚢樹の肉に覆われ頭部のみ露出させたまま、まことは顔を寄せる彩に鋭い視線を浴びせ、問い詰める。
「ううん、木野さんは特別。何でも言っていいのよ。私を怒ってもどうしてもいいの。ただ、いつもそばにいてくれれば、それでいいの。あの元山さんも木野さんが私と一緒になってくれたらすぐ、あそこから出してあげる」
彩は手のひらでいとおしそうにまことの頬を撫でる。
「そんなことで、人の気持ちを左右しようとする気か？ 最低だよ、あんた」
まことの叫びにも、彩の潤んだ目つきは変わらなかった。
「まことさん…って、呼びたいな。もう、ここから逃げられないんだから。ねっ、まことさん」
なま暖かい肉に覆われながら、まことはその全身に鳥肌が立った。
彩はそのまことの反応にクスリと笑う。
「まことさんに私の事、よく知ってもらいたいの。ちょっと痛いかも知れないけど我慢して」
彩はまことの身体の上にのしかかり、その両手の指先をまことの頭の両側にあてがう。
「なにを？」
言い掛けた瞬間、頭の両側の彩の指が触れているポイントから痛みが走る。ふいに、まことの思考に彩の記憶が奔流のように流れ込んでくる。まるで手品師の手からトランプのカードが弾けるように、夥しい記憶の断片のシーンが舞う。
人間の心と夢とを玩ぶ神魔。まことは美夕に血を吸われながら記憶を読まれてしまった亜美の苦悶の顔が心に浮かぶ。
が、その顔も彩の記憶の奔流に押し流される。
なまじ多少賢かったために、それを誉める両親の期待に沿おうと、勉強ばかりしていた子供の頃。その為、他の子供からは疎まれていたのに、こちらから近づこうとはなんらしなかった。フルーツパーラーに寄ったり、ゲームセンターで遊んだりすることもなく、憧れながらも、それらは無関係な世界だと思っていた。
中学で初めて出会った、木野まこと。怖そうな印象だったけど、彼女は自分にないものを総て持っていた。
まことに知られないように、優等生の顔を崩さないように、気を使いながら彩はまことの後をつけまわした。まことに手紙を出す女生徒達をバカにしながらも、彼らを嫉妬していた。
まことが引き起こした暴行事件。両親を亡くし気落ちしていたまことの後をつけていた彩はその事件の全貌を総て見ていた。ただ一人であれだけの男達を叩き臥せたまこと。彩は体育館の陰から震えなが見つめていた。恐怖もあった。それ以上に興奮の震えであった。
まことが学校を去って行くとき、あんなにまことを追い回していた女生徒達が、誰も見送らなかった中で、彩一人が最後の花束を手渡した。その時のまことのとまどったようなはにかみの笑顔。
まことが去った後の、それまで以上に灰色の中学生活。
ただテストで高い成績を上げる事の挑戦心を満たすだけだった勉強も、もはや味気ないものと化していた。
ふと、まことがよく行っていたというゲームセンターに足を踏み入れてみた。校則ではゲームセンターへの立ち入りは禁止されていた。
そこでからまれた、男達。学校に知らせるとの脅しに、車に乗せられ、彼らのアパートに連れ込まれる。
寄ってたかって処女を散らされた後の地獄の日々。どこからともなく次々と現われる仲間の男達。
ドアを蹴破り光の中から木野まことが現われ、男達を叩き臥せて自分を救い出してくれる事を何度も夢想する。しかし、まことは現われない。ドアからやって来るのは目をぎらつかせ、薄笑いを浮かべた男ばかりだった。異臭漂う敷きっぱなしの布団の部屋で、まともな食事すら与えられず跡切れる事なく犯され続ける。
彩のその痛み、屈辱、虚脱感が脳から直接にまことを襲う。悲鳴をあげるまことの顔へと、彩は頬ずりをする。恍惚とした微笑みが彩の顔に浮かぶ。
ウィスキーの原液がせせら嗤う男達の手で彩と化したまことの腕へと静脈注射される。混濁した意識の中、汗臭いの男達の腕が身体を這い回る。
すすり泣くまことの顔を彩はうっとりと眺める。
「これで一緒よ、まことさん。心も身体も一つになりましょう」
ゆっくりと唇をまことの唇へと近付ける。その唇からイソギンチャクのような夥い肉の索がはみ出し、蠢いている。
「そこまでよ！ 杉浦さん」
凛とした声が、響く。
彩はまことの頭から手を離し、すばやく振り返る。すぐそばの空中に赤い光に球状に包まれて黒衣の下僕にいだかれた美夕が浮かんでいた。
「もう、およしなさい。そんな事をしてあなたは満足なの？」
美夕は痛ましげな視線を彩に送る。
「よくここまで追って来たわね。吸血姫 美夕！ あたしから木野さんを取りに来たの？ 木野さんはもう私のものよ！」
彩は美夕に全身で向き直った。巨大な嚢樹の全身がざわめく。
まことの耳にも美夕の声が遠い鈴のように聞こえていた。しかし、彩から送り込まれた記憶の展開は今、最終段階に達していた。
饐えた匂いの漂うアパートの部屋。
床中に敷きっぱなしの布団の上に男達が雑魚寝している。汚れた窓ガラスから昼の光が差している。
もうろうとした耳にささやきが聞こえる。
強い力、このクズどもを軽々とあしらう、誰にも負けない力への誘い。声は、キッチンの汚れた食器が積み重なったシンクから聞こえている。のろのろと近付くと、シンクの底の排水孔の小さな暗がりからその声がしていた。
身体を与えれば、替わりにその力を与えるという誘いが直接頭の中に語りかける。ぼんやりと夢の中での出来事であるかのように、その誘いに頷く。
排水孔から現われる肉色の泡の塊。膨れ上がるそれに手を浸したとき、自分の中でどろりとした哄笑が響き渡る。欝蒼とした鉛色の風が全身を吹き荒れる。
物音に気付いた男の一人が起き上がり、自分を見て悲鳴を上げる。その後のことは激情の爆発に飲まれ、ディテールは定かではない。
飛び散る血飛沫。部屋の内壁に広がる泡立つ肉の膜。くぐもった悲鳴。身体の内部から沸き起こる凶暴な衝動。ありあまる力の実感。あふれる解放感。
物音で通報を受けた警察がアパートに乗り込んできた時には、破壊し尽くされた部屋の中に彩がただ一人意識を失って倒れていた。世帯主も、一緒にいたと思われる仲間も姿を消していた。
まことはうっすらと目を開いた。なま暖かい嚢樹の肉に包まれ、横たわっていた。
まっ青な空をバックに美夕が嚢樹と戦っていた。真紅の火球が嚢樹の周囲を疾走する。しかし、全身をさらけ出した嚢樹の巨体からは凄まじいスピードで針のように枝が突き出され、空中の美夕とラヴァとを追う。その早さは地上でのそれの比ではない。
美夕の白い衣のあちこちに血のにじみが見える。空中戦は苦手らしい。
まことは自分の手足を押さえている触手にふと注意が向く。台風の目の中で最初に気付いた時に握った枝の堅いくせに弾力のある奇妙な感触。
予感じみたものはあった。
それは植物の枝などではなかった。自分を押さえている「触手」は変形しきった人間の手だった。蜘蛛の足のように細く、堅い表面となってはいたがそれは人間の手の徴を残していた。
おびえた目で回りの幹を見回す。
幹は数知れぬ、引き伸ばされ変形した人間の身体の成れの果てを貼り付けたものだった。皺の陰から目が見えていた。その下のとんでもなく離れたところに歯の生えた変形した口が開いていた。それら変形し黒変した人体がよじれ合って幹が、枝が、根が造られていた。細い枝には先端から一方の側に一メートルほどの糸のように細い爪が貼り付いていた。
「そう。嚢樹の身体は、これまで餌食にした人間の身体で出来ている」
鈴のような美夕の声が、距離は離れているのに直接伝わって来る。
「永遠に死ぬことも出来ず、その時々の意志を司る本体の宿主の意のままに蠢き回る。そして、感覚だけはもとのまま、身体が引き伸ばされ、崩れてゆく人間達の味わう苦痛と憎しみとが嚢樹本体の糧となる」
「そんな！」
凄まじい嫌悪感が爆発し、まことは全身の力を込めて瞬時に身を起こす。美夕との戦いの方に意識を集中しいたのか、湿った音を立てて嚢樹の肉から軽々とまことの身体が剥がれる。真下に渦巻く雲が広がる。が、ためらいはなかった。
「木野さんを捕まえなさい！」
彩が気付きあわてて叫ぶ。
まだ触手に足を捕まれていたまことは、渾身の力で堅い幹を蹴ってジャンプする。細い触手はその衝撃に耐え切れず手を離し、むき出しの空中にまことの身体は放り出される。幹から何本もの傘の骨のような手が飛び出す。
まことは頭から下界の雲の渦巻きへと風を切り裂いて落ちていった。
「変身しなさい！ セーラージュピター！」
美夕の声が響くのと、まことが変身ペンを真下の雲に向かってかかげるのは同時であった。
第九章 狂戦士
「ジュピターパワー！」
変身ペンに向かってまことが叫んだ途端、下の雲の渦から雷鳴が沸き起こる。凄まじい勢いで真上に吹き上げる風の中で、いつもの変身の時とは違う衝撃がまことをとらえる。空中に充ち、まことへ向かって集中する電気の濃度が明らかに違う。
落ちてゆくまことを空中で受け取ろうと飛来する美夕とラヴァの姿と、その後ろから追う嚢樹の触手の群れが視界の隅に入る。
自分の身に起ころうとしている異様な予感に一瞬たじろぐも、かまわずまことは詠誦の後半を唱える。
「メイク アップ！」
雲が咆哮した。
太陽系最大の惑星・木星。その大気の組成はむしろ恒星になりそこねた惑星というべきかも知れない。荒れ狂うエナジーを秘めたその惑星の名を自らの神話の主神に配した古代人はその事を知っていたのであろうか。
地球にとらえられた荒ぶる神。
セーラージュピターの変身と攻撃は、これまで地上で接地して行われてきた。それゆえ、その大気中から吸収し発生するエナジーはそのほとんどが大いなるアースである大地へと飲み込まれその一パーセントも顕現していなかった。去勢されたと言ってもよい程だ。だが、この足を支えるものとてない自由空間で、今こそセーラージュピターは無制限のエナジーを召喚し始めた。
さらにその大地を隔てる足元には渦巻く雲と吼える風を従えた中型台風４号が侍っていたのだ。台風４号が腹に抱えたエナジーの量は風だけでも十の25乗エルグ、人工的な水素爆弾が発生する熱と風の総エナジー量など比較にすらならない。
そのエナジーが膨大な電力へと変換され、虚空を落下してゆくまことへ向かって帯となってうねり昇り、まがまがしい光を放って舞い踊り、からみつく。
まばゆい光と爆鳴の中、セーラージュピターはその変身を完了した。
ジュピターは下界の雲の純白のマットへ向かって両手を開く。膨大な電力が手の平から放出され、プラズマ・ジェットが開いた傘状に噴出する。帯電した大気はオゾンの匂いに充ち、ジュピターの周囲に余剰エナジーが球電となって散る。
凄まじい落下の加速を二本の腕がしなやかにたわむや力強く伸びて殺し、腕の力だけで全身を再び上へと弾き上げる。
遮るもののない真昼の陽光の下、短い緑のスカートからすらりと伸びる脚が振り子のように勢いをつけて弧を描き、おとがいを伸ばし、虚空で全身をそらせてた姿が輝くアーチを描く。
大きな円周上を滑る軌道に沿って、両腕を真横に両足をピタリと揃え、十字架が起き上がるように足を下に向け直す。そのブーツの底から、今度は手の平からのものの数倍の規模のプラズマ・ジェットが噴出する。
自らを生体イオノクラフトと化し、態勢を立て直したジュピターは上空の嚢樹へ向かって矢のように舞い上がる。その姿は四枚の雷電の翼を持つ鳥に似る。
落下するまことを目で追い、下界の雲の全面を輝かせた予想もしていなかった程のジュピターの変身の光に目がくらんだ美夕に、嚢樹の触手が弾丸のように突っ込んだ。
はっ、と気が付き後ろを振り返った時には手遅れだった。触手は美夕の腹部をえぐり抜き、背中を破って突き出した。
絶叫してのけぞる美夕。
「美夕！ おまえさえ現われなければ、木野さんは私のものになるところだったのに。死ねえっ！」
彩の顔が般若の如く歪む。
美夕を突き刺した触手の幹に近い部分から、見る見る長大な刺が生え始め、先端部に向かって刺の成長が矢のように進行する。歯を食いしばって刺の接近を見据える美夕の目が恐怖に見開かれる。そのまま進行を許せば、内臓はズタズタに引き裂かれる。
が、ラヴァの爪が一閃し、触手は美夕の手前で切断される。すばやく美夕をかかえて飛び退くや、まだ腹に刺さったままの触手をつかんで引き抜く。
美夕の悲鳴が虚空に散る。
ラヴァの両手は素早く美夕の背と腹に開いた孔を押さえ、はみ出した臓腑を押し戻し、回りの皮膚ごと鷲掴みにする。ラヴァの両手は完全に塞がれる。
その美夕とラヴァの主従に向かって、嚢樹の触手は追い討ちを掛ける。
次々と飛来する触手に、ラヴァは美夕を抱え込み、その背に触手の攻撃を受ける。黒衣を突き破り体内に侵入した触手の群れに内側から身をえぐられながらも、ラヴァは身を震わせ、美夕の傷口を押さえた手を放しはしない。
「ふん、しぶとい。美夕をお離し！」
彩が憎々しげに叫ぶ。
「ラヴァ…」
美夕がかすんだ目でつぶやき、ラヴァにすがりつく。美夕の腹から溢れた血は衣の裾、両ももを赤黒く濡らし、風にしぶきを散らす。
「仲のいいこと。それじゃとどめに二人一緒に貫いてあげるわ。特別太い奴でね」
血走った目で彩は言い放つと、捩れ合い根本が一メートルはある角を擡げさせる。既にされるがままの状態の美夕は、虚ろな瞳で自分達へと向かって構えられた角を見つめる。
「やめろぉ！」
セーラージュピターは真下から彩と美夕との間に飛び出す。
「木野さん。邪魔をしないで。美夕を倒さないと、私が消されるんですもの。それとも木野さんは私の方を消すつもり？」
「あんたは、もう彩じゃない。人間の命を弄び、苦痛を糧とする神魔の操り人形になっているのが分からないのか！ あんたは神魔に操られているんだ」
「それじゃ、木野さん達はどうなの。嚢樹が全部、教えてくれた。あの月野さんが前世で月のお姫様だったから、それを守る為に覚醒したですって？ あの月野さんを？」
「それじゃ、生まれてから十四年生きてきた今のあなた達は何なの？ ただの宿命の入れ物じゃない。そんな月の一族の宿命の言いなりになるわけ？ 私が好きになった木野さんは、そんな操り人形じゃない。ただの人間だった木野まことさんよ！」
ジュピターはその言葉を真っ向から受ける。
「違う！ 宿命だから、守るんじゃない。うさぎちゃんが…うさぎちゃんだから守るんだ。それより！ 自分を見てみろぉ。大勢の人間をこんな目に遭わせていることが間違っているのが分からないのか。そんなことで力を得たつもりなのか！」
彩を指差し、ジュピターは絶叫する。
彩の顔に躊躇が浮かぶ。
その時だった。彩の立っている周辺の嚢樹の表面が次々と槍のように尖って立ち上がる。それらは表面に貼り付いた人間の身体を硬化し引き伸ばしたものだった。
「何？ なんなの。およし、おまえ達！ そんな事を命じてはいない」
彩が狼狽して周囲を見回す。
「嚢樹が本性を現わした。来るわ」
背中の側から苦しげに美夕がささやく声が頭の中に響く。
最初の槍が嚢樹の身体から飛び出す。スローモーションのように迫るその先端部に刻み込まれた紋章のごとき苦悶の人間の表情が目に飛び込む。ジュピターは間一髪でかわす。
「およし！ 木野さんは違うの。嚢樹！ 約束が違う！」
嚢樹の体表で彩が両手を握り締めて叫ぶ。不意に彩の足元がパックリと割れ、真黒な孔が開く。その内壁にはささくれだった繊維のように、黒化した人間の姿がびっしりと貼り込まれ、わらわらと手を伸ばして彩の身体を掴む。悲鳴を上げながら彩の姿は、真黒な孔の奥へと引きずり込まれてゆく。
ジュピターは美夕のそばまで舞ってゆき、その場に浮かぶ。手足から噴出するプラズマ・ジェットは衰えることを知らず、美夕は霞む目で全身から微光を放つジュピターを頼もしげに見つめる。
「雷神…セーラージュピター。あなたなら、やれるかもしれない」
「どうなる、これから？」
「嚢樹は最後の反撃に来る。もう後がない。ジュピター、あなたは嚢樹の回りの殻を焼き払って。本体が現われたら、私が奴を闇に帰す」
振り返ると嚢樹はその円盤状に広がった全身を美夕達に向けて剣山のように逆立て始めている。
「殻って…人間じゃないか、あれは」
「そう、あの槍の一本一本はこれまで嚢樹の餌食となった人間達。彼らは今でも意識を持ち、痛みも感情もある。生きながら身体を捩じ曲げられて武器として使われるの」
「そんな…」
「だけど、ここで私達が破れれば、嚢樹はまた地上に戻る。新しい餌食として狙うのはたぶん力を持ったセーラー戦士達。来るっ！」
大きなカーブを描いて三本の肉槍が飛来した。
ジュピターは気を込めて腕を突き出す。膨大な電磁力で手の平から数万度Ｋ（ケルビン）に及ぶ球電が発生し、襲いかかる肉槍の先端部へと唸りを上げてホーミング弾のように吸い込まれる。激突の瞬間、光の中で三本の肉槍は嚢樹の身体から分離し、一瞬人間の身体に戻り、液化して四散した。
「あれは！」
「あなたのエナジーで嚢樹から分離し、人間の身体に戻ったとき、それまで身体に受けた変形を瞬時に逆体験する。でも、もう人間の身体ではそれに耐えられない…」
自分の攻撃の引き起こしたあまりに陰惨な結果にジュピターは自分の両手を見つめる。
「何をしているの！ ジュピター！」
美夕の喉を振り絞った絶叫にジュピターは我に帰る。
嚢樹は炸裂するような勢いで全身を拡大させ、ジュピターと美夕とを大きく囲む直径百メートルはあろうかと思える目の荒い球を形作る。彼らは合わせた篭の中に閉じ込められた形となる。
逃げ場はなかった。次の瞬間に、上下左右三百六十度から一斉に襲いかかるつもりであろう。一瞬の静寂が訪れる。
人間で編まれた網の間を氷点下の風が吹きすさび、幾百の笛が鳴る。
回りを囲む黒い網を見回し、ジュピターは闇の奥へと連れ去られた杉浦 彩のことをふと思い出す。自分が前の学校を去るときに、花束を渡してくれたと彩は言った。
記憶にある花束を呉れた少女のはにかんだ顔のイメージに彩の顔を重ねようとした。しかし、今のまことの脳裏に浮かぶ少女の顔は、明るい色の二本の髪を左右に振り、あどけない笑顔を惜しげもなく振りまく月野うさぎであった。
美夕は遠のく意識をふるい起こしてラヴァにしがみつき、ジュピターの静かな背中を見つめている。その美夕の手に黒衣を伝うラヴァの血がにじむ。
すっと、ジュピターが腕を交差させる。そのジュピターの後ろ姿から静かな詠誦の声が流れ始める。
「わが守護木星よ。嵐を起こせ、雲を呼べ」
真下の台風４号の渦巻く雲の中を光の竜が走る。臓腑をえぐる雷鳴が轟く。
嚢樹の篭全体がピクリと震える。次の瞬間、全ての穂先を内側に向けて人間の槍が一斉に打ち出される。遥か下方の雲の上面から幾千もの木の枝のような雷が、上に向かって走る。
ジュピターの髪が緑の微光に包まれザワザワと逆立つ。
「いかづちを降らせよ！」
今やジュピターの詠誦は朗朗と流れ出す。
槍はまっしぐらにジュピター、美夕、ラヴァに向かって疾走する。
遥かな雲からのはためく雷の掛け橋は途中の肉槍をはじき飛ばし、今や途切れることもなく膨大なエナジーをジュピターへと送り込む。
槍はもはや互いが触れ合う程に距離を縮める。
「シュープリームッ」
さらにきつく交差させた両腕を絞り上げる。余剰エナジーが小球電となりジュピターを中心に舞う。
「サンダー！」
一挙に両腕を左右へと振り広げる。
全てが純白に輝いた。
ジュピターの全身から有り余るエナジーが波打つカーテンの姿でほとばしって行く。腕を向ければその方角へと荷電粒子ビームの輝く炎が襲いかかる。純粋の破壊の衝動がジュピターを咆哮させた。本能が感知した嚢樹の中心部へとプラズマ・ジェットの長い尾を引いて突進する。
真白くなった頭の中に、ただ光景だけが記憶されてゆく。
肉槍は全てが嚢樹から分離し、萎縮するや人間の姿に戻り、次の瞬間液化し、かたっぱしから吹きすさぶ風の中に赤い霧と化して四散していった。ぼろぼろと崩れゆく中心部へと突進するや、周囲からわらわらと人間の腕が頭が身体が葦のように生えてくる。あたかも古代邪教の生贄を求める荒らぶる神のもとへ我と我が身を捧げに殺到する狂信者の群れを思わせる。手の平を向けるだけで、忠犬のような光のドラゴンが彼らの間を舞い、瞬時に液化した彼ら人間の成れの果ては凪ぎ払われ飛び散って行く。光のドラゴンは先端がさらに細い糸と化して、捩れ合った人間達の呪われた接合部に入り込み、まんべんなく解きほぐす。
ジュピターの進むところ、偽りの生命で活かされた存在は残らない。
絡み合った索がほどけ、空に溶け込んでゆく崩壊の中心に占めた繭状の座の中に、ゆらめく人影が見える。崩れかけた索が次々に入れ替わり未練がましくもつれ合い、その座を修復し続けていた。
蠢く座の上に一人の裸身の少女が腹這いになってもがいている。少女の背中から真紅の身体に黒の斑紋を帯びた泡とも粘液ともつかない巨大な芋虫状のものが這い出しては身をくねらせ、まるで豆腐で出来ているものであるかのように再び身体の中へともぐり、少女の背中は赤く蠢くスパゲティーを盛りあげた皿のような外観を呈していた。
接近するジュピターの間断ない電撃は容赦なく座を縮めてゆく。
少女は獣のように身をのけ反らし、ジュピターをふり仰ぐ。乱れたボブカットの髪の間から、彩の苦悶に歪んだ顔のぞく。その目が大きく見開かれ、突き破った殻の裂け目から輝かしい白光と共に飛び込んできたジュピターの姿をとらえる。彩は半身をもたげ片腕をジュピターに向かって伸ばし指を開く。震える口が何かを語ろうとするかのように大きく開かれる。
その途端、彩の色白の腹の皮膚を透かせて赤と黒の色が激しく動いたと見るや背中からうねりながら長大な芋虫が身を現す。どこにそれほどの容積があったのかと思える体躯であった。全身を現わし左右に伸びた鎌状の触手を広げたその姿は強いて言えば芋虫というよりカマキリに近い。
その顔のない頭頂部がいくつにも裂け直径三ｍ程のイソギンチャクのように開口する。
ジュピターは凶暴に顔を歪めるや両手の平を突きだし、青みすら帯びた輝くビーム流をその本体へ向かって浴びせ掛ける。
轟音と共に襲いかかるビームの奔流を、嚢樹は巨大な口を向け大鎌を広げ、身体の周辺のわずか手前で受け止める。
開いた口の内部に密生した肉色の触手の一本一本が弓状にしなうや硬化し、牙に変ずる。
牙の群れの奥の暗い喉から超低音の吠え声をまともにジュピターに浴びせ、尾部の先端を鞭のように振るう。その尾部に絡みついていた彩の身体がジュピターへと一直線に振り投げられた。
ジュピターは放電を止め、彩を受け止めようと両手を広げる。
その瞬間、嚢樹の巨大なイソギンチャク状の口が本体から索を引いて伸び、ジュピターに襲い掛かった。
叩きつける豪雨の中、マンション駐車場でマーキュリーはポケコンを操作していた。
脇にはマーズが並びマーキュリーの手元をのぞき込む。
直交する白いグリッドが表示された黒い画面には緑と赤と黄色の点がゆっくり動いていた。３点は軌跡を描き、その動きに追随して点の脇の数字が変化してゆく。
やがてマーキュリーはポケコンを仕舞うや空の一点を見上げる。
見上げたまま、す、とその両腕が真横に伸びる。
一陣の風が巻き起こりマーキュリーを中心として円を描く。
アスファルト表面を被膜となって流れる雨水がその風に沿って波立ち、直径十ｍ程の円を描いて走り始める。
見る見る水の筒が周囲の膨大な量の水を呼んで立ち上がってゆく。
さらに降雨を巻き込み水の筒は育ち続け、マーキュリーの頭上で三ｍ程に内径が窄まり、漏斗を逆さにした形で筒先は空の一点を指したまま伸び続ける。
遠くから見れば水で作られた高射砲と見えたであろう。
風が円を描く渦の中心にマーズはマーキュリーの前に背を向けて立ち、回転する水の筒の底から遥か上の先端を見上げる。風は漏斗に沿って周りながら水の筒の中へと唸りをあげて飲み込まれ続ける。
濡れそぼった黒髪が風にあおられ、束になり空へ向かって逆立ち、渦を描いて哮り狂う。
唇を引き締めるやマーズは右手で胸元からお札を取り出し指の間にはさみ、水の砲身の先端に向けて腕を突きだす。
「悪霊退散！」
指にはさんだお札のかなた、水の砲身の照準に向けて凛とした声が響く。
左手が上がりしなやかに両手の先が合わされ念が込められる。
「ファイヤー」
マーズの両眼の縁がきつく吊り上がる。
「ソール！」
叫びと共に合わされた指先から吹き出した業火は、空を睨んだ水の砲身の中を一直線に撃ち出された。砲身の中を高速で吹き上げる風に乗り火球はミサイルのように突っ走る。
「あたしを忘れないでよね！」
突然の高い叫び声と共に、風の渦巻く漏斗の底にオレンジの塊が飛び込んでくる。
「ヴィーナス！」
驚くマーズに唇の端で笑みを返し、渦の中心で態勢を取り直したセーラーヴィーナスは高々と詠唱を唱える。
「ヴィーナス ラブミーチェーン！」
現れた金色のチェーンを腕を振り一気呵成に真上の水の筒の中心へと放つ。
高速回転するチェーンは金色の円盤となり、高い音のこだまを残して風に乗り水の砲身の中をマーズの火球を追ってゆく。
「シャボンスプレ〜」
二人の後で両手を横にあげ水流を制御していたマーキュリーが、す、とその両腕を水の砲身の照準に向け直す。
「フリージング！」
高らかな叫びと共に、ごお、と四周の風が一気に押し寄せる。
水の漏斗はその中心に向かって急速に渦を巻いて内側へ飲み込まれ、砲身はその下から自身を飲み込みながら空の一角に向けて奔流を撃ち出した。
大地から撃ちだされた柱状のジェット気流はその形を崩さず台風を貫き雲を引きちぎる。その風洞を赤とオレンジと青の三つの弾丸が一直線に驀進する。
嚢樹の牙がジュピターの頬をかすめる。
背に負った彩は両足でジュピターの腰を締め、両腕をジュピターの首に回して何とかしがみついてはいたが、激しい動きをとれば振り落とされることは明白だった。
鞭のようにのたうつ牙が隙を窺い間断なくジュピターに襲い掛かる。その牙をビームで払いのける。
手の平からのビームは嚢樹の直前で散らされ、隙を突いた直撃を受けた部位は一旦は消し飛びながらもやがて復活しては蠢き出す。決定打を撃とうにも態勢を整える隙が全くなかった。
台風からのエナジーの補充も既に当初の勢いが激減し切れ切れと化していた。
既に嚢樹は全身ごとジュピターの真上に位置を占めていた。
先の見えない消耗戦の中でジュピターの頬に冷たいものが走る。
頭上に広がる口から牙が上から横からとジュピターに襲い掛かる。
その度に気配を察したのか背中の彩の腕が強くしがみつく。
ざわめく牙の奥に嚢樹の暗い口が勝ち誇ったように巨大に広がってゆく。ぶよぶよした口の内壁に真紅の血管状の網が走り、そのおもてに臓物のような大小の肉塊がいくつもぶら下がっているのが見える。
その口が一瞬すぼまったと見るや、次の瞬間最大に開き喉の奥から腹を震わせる吠え声が轟く。
彩の全身がすくみ、ジュピターの身体を思いがけず締めつける。
はっ！ と動きを抑えられた瞬間、横薙ぎに鎌状の牙がジュピターの顔を襲う。
反射的に顔を伏せた頭に硬質の音が響く。
次の瞬間、ジュピターの髪が頭の周りに広がる。
ポニーテールを留めた髪留めが牙で砕かれたのだ。
広がった髪が風に巻かれて目に入り視界を奪う。
わんと開いた嚢樹の口がふりあおいだ頭上に一気に広がる。
彩が悲鳴をあげる。
飲み込まれる瞬間、二人の横を真下から赤い砲弾が突き抜ける。
砲弾は口の内壁に激突し白いものを貼り付ける。
悪霊退散！
貼り付いた純白のお札の中央に黒い文字が踊る。次の瞬間お札は紅蓮の炎を吹きだす。
口内の爆炎と同時の起こった嚢樹の咆哮に二人は空中に吹き出される。
炎の中で触手に戻った牙の群れがのたうつ。
態勢を立て直し、足下を見おろしたジュピターは慌てて足のジェットで後方へ身を飛ばす。
その身体の真正面を轟音をあげて金色の円盤が通過する。
円盤は頭上に広がる嚢樹に命中した瞬間、金色の鎖と化して蛇のようにその全身に巻き付く。
口から炎を吹きながら嚢樹は内側から身をよじり鎖を引きちぎり始める。
そのあがきは中断された。
膨大な青い水が柱となって真下から鎖にからまれた嚢樹を襲ったのだ。
身体に触れた瞬間、過冷却の水は氷と化し、嚢樹を氷の塊へと変えてゆく。
その時、ジュピターの背後で健気にもここまで付いてきた美夕が、ラヴァに身を預け、血の気の失せた顔を嚢樹に向け震える腕を真上に向かって差し伸べる。
頭上の空の青がそのまま青味を濃くしてゆき、一辺五メートル程の六角形の黒い門が姿を現す。裂け目の向こうに広大な冷たい空間が広がり異形の者たちの姿がほの見える。
「神魔・嚢樹。おまえがやってきた闇にお戻り！」
凛とした美夕の声が鈴のように響く。
だが、嚢樹を包んだ氷の塊に亀裂が走る。走る亀裂のそこここから肉色の泡と触手が溢れ出す。
美夕の開いた異界の門はその周辺が弱々しく霞んではぼやける。美夕の気力を反映してか、嚢樹を吸い込む力はない。門の形を維持するだけで精一杯なことが見て取れる。
美夕の唇はさらに色を失い、歯を覗かせて小刻みに震える。
ジュピターは、すと嚢樹の真下に移動する。
頭上を見上げ、口を結び、両腕を大きく交差させる。
遥か下の台風四号から雷鳴が轟き雲の中を稲妻の網が目まぐるしく行き交う。吹き上げるエナジーの奔流の中、ジュピターの全身がまばゆい緑の光に包まれる。
ほどけた栗色の髪がざわめき、燐光を散らす。
背中の彩は息を飲み、頭上を見上げる
嚢樹の全身から大小の氷のかけらが崩れ落ちてくる。
「シュープリーム」
降り注ぐ氷のかけらを避けようともせず、アルトの声が高く響く。
「サンダーッ！」
轟音と共に一挙に放たれた蒼白の雷撃が空に向かって逆流する雪崩のように全身を縛められた嚢樹に激突する。
爆音と共にその身体は真上へと弾け飛び、口を開けた六角の門の奥へと吸い込まれてゆく。
嚢樹の身体が消えたあと、六角の門は回転しながら姿が薄れ消えていった。
先ほどまでの戦闘が嘘のような風の吹きすさぶ空域に、エナジーを出し尽くしたジュピターと彩、美夕とラヴァとが残された。
マンションの駐車場でマーキュリー、マーズ、ヴィーナスは、雷鳴が響き、稲妻が踊る上空の雲を見上げ待ち続けていた。
嚢樹が上昇した際に破壊されたここ一帯は、掘り返された新鮮な土の匂いが充ちていた。台風４号による広範な被害のせいか、まだここには当局は来ていない。
突然、雲をも突き抜ける光のシャワーが降り始まり、かなりの時間注ぎ続けた。
彼らは知らなかったが、このとき東京を中心とした関東地方全域に強烈な電磁波が降り注ぎ、コンピュータを始めとする多くの電子機器に障害が発生した。
その為、後日この地区の復旧工事はさらに遅れることとなった。
しかし、この時の彼らにはみるみるうちに風の勢いが衰えて行くことが奇怪に思えていただけだった。まるで、台風そのものがその力を出し尽くしてゆくようだった。
突然、彼ら三人の前に直径三メートルほどの球形の赤い光が現われた。
弾かれたように身構える三戦士。
光が消えた時、彼らの前に黒衣の下僕・ラヴァに抱きかかえられた美夕、そしてセーラージュピターが立っていた。
「ジュピター！」
真っ先にマーキュリーが飛び出す。
ポニーテールがほどけた髪を肩まで垂らし、ジュピターは一人の裸身の少女を抱きかかえていた。
少女は弱々しく目を開き、ジュピターを見上げる。
「ごめんなさい 木野さん」
「まことで、いいよ」
ジュピターはやるせない目で腕の中の彩を見つめる。
マーズは呆然と美夕を見つめる。
白かった衣は裂け、腹から下の半身が赤黒く血に染まり、蒼白な顔でジュピターを眺めている。その腹と背中とをラヴァの手がしっかりと押さえている。ぞっとするような傷がラヴァの指の間から覗く。
「あなたがジュピターを連れ戻してくれたの？ 美夕」
ヴィーナスがためらいがちに尋ねる。
美夕は目だけ動かして答える。
「美夕、あなた」
マーズが口ごもる。
美夕がそっと手を上げ、視線でマーズ達の注意をジュピターに向けさせる。
「まこと…さん。一度でいいんです、抱きしめてください」
彩の言葉にマーキュリーの顔が引き締まる。
ジュピターは皆に背を向け、膝をついてしゃがみ、腕の中の彩の顔を見つめ、ゆっくりと抱きしめる。
「まことさん。わたし」
突然、彩の顔、腕が盛り上がり始める。みるみるそれは小さな肉の泡となって沸き立つ。
「ジュピター！」
マーキュリーが堅く握った両手を口に当てて絶叫する。
ジュピターはかまわずそのままはじける彩の身体を抱き続ける。
「神魔を一旦受け入れてしまったら…命自体を汚されて二度と人間には戻れない」
美夕が痛ましげに、呆然と見守るマーズ、ヴィーナスにささやく。
肉の泡は液化し破裂して飛び散り、抱きかかえるジュピターの腕の中から流れ落ちる。
膝をついたジュピターのももの上に溶けかけた何かの臓器が溢れ、滑り落ちる。
ただ、彩の両腕は最後に白骨と化すまでジュピターの背中に回されていた。
降り続ける雨は、アスファルトの上に散った彩の残骸を流し始めていた。
ジュピターは彩だった白骨をアスファルトの上に横たえると、皆に背を向けたまま立ち上がる。そして空を仰ぎ、もはや台風の勢いの失せた雨を顔に全身にあび続ける。
肩が大きく上下し、切れ切れのあえぎ声が聞こえる。
マーキュリーは何度も声を掛けようと口を開くが、声が出ない。
ジュピターはゆっくりと皆を振り返る。
全身に付着した肉汁の残滓、それ以上につやを失った瞳に、三人の少女戦士は息を飲む。
ジュピターは目を落とし、自分の両手を見つめ、ついでその手を堅く握り締める。
そして、そのまま口をきくこともなく、力ない足取りで自分の部屋へと戻って行った。
気が付くと美夕とその下僕の姿も消えていた。
残された三人は、雨の中まことのマンションを見上げていたが、やがて取るべき行動を取り始めた。
彩の亡き骸の通報は、レイと美奈子とが担当した。
そして、亜美は自分から言い出し、一人、まことの部屋へと向かった。
終 章 うさぎ
まことの部屋のドアは閉まり切ってはいなかった。
ろくに確認せず閉めたままであったのだろうか。
マンションの廊下に立ったまま、亜美は一応ベルを鳴らしてみるが、応答はない。
鍵の掛かっていないドアを開け、足を踏み入れる。
入ってすぐの床に鞄が投げ出してある。
彩が出現し、マーズと共に逃げ出すとき置きざりにしたものを取り込んだものなのであろう。
観葉植物に埋もれた部屋はしんとして、まことの姿はない。
ただ、浴室の方からシャワーの音が聞こえてくる。
亜美は、キッチンの椅子に座ってまことを待つ。
きちんと整頓された部屋、そこここに配されたグリーンの鉢。
ほのかに漂うバラの香料のかおり。
いつもはそれらは亜美の心をなごませるものだった。
同じ風景が、部屋のあるじの先ほどの抜け殻のような表情を見た後では、不安の種となる。
シャワーの音が止み、しばらくして浴室のドアが開く音がする。
パジャマを着たまことが、おろした髪をのろのろとふきながら現われる。
「まこちゃん。ドア、閉まってなかったの」
亜美は椅子から立ち上がり、静かに語りかける。
まことは、亜美の姿に一瞬とまどう。が、そのまま窓際のベッドへと歩いて行き、腰をおろす。
「ごめんなさい、勝手に入っちゃって。でも…」
まことは亜美がそこにいないかのように、腰をおろしたままぼんやりと自分の足元に目をやる。亜美の言葉は途切れる。
沈黙が流れる。
亜美は意を決し、まことの横のベッドに並んで腰をおろす。
そして、まことの手に力なく握られたタオルを外す。
「髪の水気がまだ取れてないわ。このままじゃ、風邪を引いちゃう」
いいかげんに拭かれ、残った水気がパジャマの肩に染みを付ける髪にタオルを差し入れ、念入りに拭き上げる。
まことは表情を変えず、されるがままにまかせている。
「まこちゃん。雲の上で何があったかは聞かない。話したくないなら、何も話さなくてもいい…でも、今日は一緒にいさせて。いるだけでいいの。お願い」
髪を拭き上げると、亜美はまことの前の床に膝立ちし、まことの目を真っ直ぐに見上げて語る。
髪をおろしたまことは別人のようだった。その光のない瞳は亜美の視線を洞穴のように吸い込む。
が、その顎がかすかにうなずく。
そのわずかな意志の表明に、亜美もうなずき返し、掛け布団をまくりあげ、まことに横になることをいざなう。
まことは布団の中で丸くなる。
亜美はキッチンの椅子を持ってきて、枕元に腰をおろす。
まことが眠ってなどいないことは、分かる。
それでも亜美は、ただ座り続ける。
マンションの外が騒がしくなるのがドア越しに聞こえる。
周辺の道路と建物のダメージ、及び彩の白骨死体の発見で集まった当局の現場検証らしい音が、どこか別の世界のことのように聞こえてくる。
時間だけはゆっくりと過ぎて行く。
夕方七時、亜美は夕食をとるかどうか、小声で尋ねる。
答えはない。亜美も何も口にせず、まことのベッドサイドに座り続ける。
夕方十一時、通信機の鳴る音に亜美は部屋の隅に移り小声で応答をする。
連絡がすぐ終わると、亜美は部屋の明かりを全て消して回ってから、ベッドの隣の椅子に戻り、ベッドサイドのミニランプを点灯し、まことを見守り続ける。
まことは無気力に横たわりながら、目だけはさえていた。亜美がベッドサイドに座って自分を見守っていることも分かっていた。
だからどうする、という考えは特になかった。見られ続けている圧迫感などもなかった。
まるで、観葉植物の鉢がそこにあるように、亜美はそこに座っていた。
それでも夜半を越えると、さえていたまことの目も朦朧となって来る。自分が起きているのか眠っているのかが、はっきりしない。
座り続けていた亜美の耳に軽く規則的な寝息が聞こえ始めていた。
ようやく亜美の頬がほころびた。
亜美は静かに立ち上がり、キッチンに行くと、濃いインスタントコーヒーをマグカップ一杯に入れ始める。
これまで戦ったダークキングダムの妖魔の群れが悲しげな顔で立っていた。
まことはジュピターの姿で彼らが歩み去ってゆくのを見送っていた。
歩くごとに彼らの身体は崩れ、やがて水たまりと化した。
水たまりは真青な空に浮かんでいた。
その水たまりの群れの向こうに父母の姿が立っていた。
近付こうとしても足が動かない。
父母は背中を見せて空の奥へと去って行った。
動かない足元を見ると、夥しい人間の手が足を掴んでいる。
はっと気が付き回りを見回すと、自分をびっしりと群衆がとり囲んでいることに気付く。
彼らも皆、悲しげな顔をしていた。
彼らは両手を前に突き出し、ジュピターに迫ってくる。
近付くにつれ、彼らの顔が身体が泡立ち、液化して行く。
それでも彼らの数が減ることはない。後から後から迫り、崩れた身体で出来た水たまりはどんどん大きく広がり、ジュピターの身体はズブズブと沈んで行く。
顎まで沈んだその目の前に、水面から突き出した何百という手が目の前にゆらゆらと近付いて来る。
まことは口を大きく開いて声を振り絞ろうとする。が、声は出ない。
金縛りに遭ったように先ほどから全身の自由が奪われている。
必死になって叫ぼうと全身に力を込める。その絞り潰された喉の奥からようやく細く叫びが漏れ始める。
身体もじわじわと自由を取り戻し始める。
彩の顔が目の前に浮かび、微笑みながら両手をまことの顔に向かって伸ばし、頬に触れる。
まことは取り戻した声で絶叫する。
「まこちゃん。まこちゃん！」
彩がまことの頬を押さえたまま、呼びかける。
気が付くとまことはベッドの中で叫びながらもがいていた。
そのまことの肩を両手で押さえて、亜美が必死で呼びかけていた。
「まこちゃん！ しっかりして。まこちゃん！」
亜美の必死の形相が間近に迫っている。
まことはピタリと動きを止める。
「亜美ちゃん…」
「まこちゃん、よかった。気が付いたのね」
「ごめん」
目は完全に開き、枕元の時計を見ると四時半をわずかに過ぎたところであった。
まことは半身を起こし、亜美の姿を見る。
十番中学の制服姿がミニランプの中に浮かび上がる。
ベッドの隣に寝具などなく、先ほどの椅子に座ったまま一睡もせずに付き添っていた事が分かる。
「悪い夢を見たのね。安心して、わたしがそばにいるから。さ、朝までまだ時間があるから、眠ってね」
亜美は片手をまことの肩にあてがい、片手で掛け布団を引き上げる。
その腕をまことは握る。
亜美の動きが止る。
「亜美ちゃん…聞いて」
思いつめた響きだった。
亜美はベッドサイドの椅子に座る。
半身を起こしたままうつむくまことの横顔を、亜美は静かに見つめる。まことの表情はおろした髪に隠れて見えない。
「あたし…あたしは雲の上で人を、殺したんだ！」
亜美の全身が硬化する。
「嚢樹に捕えられて、あいつの身体にされていた人達を何百人も。電撃で一人残らず殺してしまったんだ。まるで妖魔をやっつけるみたいに」
「でも、あの時そうしなければ嚢樹はまた地上に戻ってきる。だから、それしかなかったんだ。それに…」
まことは両手を握り締め、歯を食いしばる。
「あたし、自分が怖い。台風のエナジーを吸ったあたしは…その物凄い力を振り回すことを、自分でも無我夢中でやっていた。相手を倒すことしか考えていなかった。これじゃ、嚢樹の力を受けた彩がやってたことと同じじゃないか！ 亜美ちゃん」
まことは思いつめた瞳で亜美を振り返り、椅子に座る亜美の腹に抱きつく。
呆然とし、ほとんどベッドに引き寄せられながら、抱きついたまことの背中を亜美は見つめる。
「怖い、怖いよ」
柔らかい亜美の腹に顔を埋め、まことは堰を切ったようにむせび泣く。
ゴクリと音を立てて亜美は唾を飲み込む。
行き場をなくして宙に浮いたままだった両手がそっとまことの背中に舞い降り、後ろからまことの頭をかかえ、胸へと抱き上げる。
そのまま力を込め自分の腰を椅子からベッドの枕元へと移し、背中をボードに預ける。
まことは小さな子供のようにその動きに従い、亜美の胸に上半身をもたれる。
その背中を亜美は静かに撫でる。
むせび泣きがすすり泣きになり、やがて切れ切れになる。
亜美は胸にかかえたまことの泣き顔をずっと見おろしていた。
静まるすすり泣きに、ポケットからハンカチを出し、そっと目の回りを拭いてやる。
「亜美ちゃん、あたし」
泣き止んだ後も抱き合ったまま、どれほど時が経ったであろうか。まことは思いつめた目で亜美を見上げ、ささやく。
「許される？」
亜美もまことの瞳をまともに覗き込む。
互いに息が掛かりそうな距離だった。
「まこちゃん。きのうの夜、わたしの家で食事の時、まこちゃんが言ったわ」
亜美は目を見開き、一言一言をゆっくりとささやく。
「わたし達は自分達で今の姿になったんだって。自分でこの道を選んだんだって」
「わたしが最初にジェダイトの妖魔を倒した時、たとえバケモノでもそれまで生きていた人間みたいな相手を殺してしまうなんて、その夜わたしは一人で震えて泣いたわ。あいつはバケモノだったんだって何度も思い込もうとした」
「だけど、ネフライトとなるちゃんの事があって、わたしはっきりと分かったの。妖魔も人間みたいな心を持つ存在だったんだって。それをわたしは、わたし達は殺し続けて来たのよ」
「でも、わたし達は戦士なの。目覚めたのはうさぎちゃんの力だけど、それから自分で戦士であることを選んだんですもの。もう、２度と引き返せない道を」
「まこちゃん」
凝然と身を堅くして見上げるまことに、亜美はささやく。
「わたし達は戦士なの。本当は分かっているんでしょう。前世からの宿命だからじゃない。うさぎちゃんが、うさぎちゃんだから守るんだって」
まことの目が一瞬大きく見開かれる。それにはかまわず、亜美は力を込めてささやく。
「わたし、うさぎちゃんを襲おうと言う奴は誰だって」
亜美は言葉を切り、ゴクリと唾を飲み込む。
「コ・ロ・スの」
ベッドの背もたれに両手を付き、まことは亜美の身体から身を離す。
「だって、わたしは…」
じっと見つめる亜美の唇が痙攣し始める。
「わたしは戦士。うさぎちゃんを、信じられる仲間を…まこちゃんを守るの。だから襲って来る奴らを殺すの。奴らはみんなバケモノ、奴らは死ぬのよ、死ぬの。わたし殺すの。殺したの！」
目を引き攣らせ、自分の言葉に興奮し叫び始めた亜美の口を、まことは身を寄せ、手の平で押さえつける。
手の下で唇が動く。
「もういいんだ。亜美ちゃん、もう」
まことは亜美の耳元でうめく。
スッと、亜美の身体から力が抜け落ちる。
その大きな目はまことを見上げる。鼻からの荒い吐息が口を押さえたまことの手の甲を断続する風でなぶる。
ゆっくりとまことは亜美の口から手を外す。
ベッドの背もたれに背中を預けたまま、亜美は解放された口で大きく呼吸する。
「ごめん、亜美ちゃんにまでこんな想いをさせちゃって…あたしだけじゃなかったんだ。ごめん」
亜美はのろのろとまことのベッドから身を起こす。
「亜美ちゃんも、お休み。あたしに付き合わせちゃって、こんな事になっちゃって」
立ち上がった亜美はゆっくりとかぶりを振る。
「ううん、わたしこそ…ごめん、まこちゃんに付き添うつもりで、こんな姿を見せて」
亜美の声に恥じらいの色が見える。
時計は既に五時を過ぎ、窓の外の東の空に赤みが浮いていた。
「亜美ちゃん」
まことはためらいがちに声を掛け、掛け布団を大きくめくりあげる。
「一緒に眠ろ。そばにいて欲しいんだ」
頬を染め、無言で亜美はこくとうなずく。借りたまことのパジャマをダブダブに身に付け、亜美はまことの隣に身を埋める。
やがて静かな二つの寝息が盛り上がったベッドから流れ始めた。腕を折り畳んで身体を丸めたまことの身体を、亜美の腕は眠りながら抱きかかえていた。
翌日からは、昨日までとはうってかわった晴天だった。
東京上空での台風４号の突然の消滅、まことのマンション近所の道路と建物の大崩壊、ランドサットが観測した、成層圏の遥か上で強大な電磁波の乱れによるものと思われる緑のオーロラの発生、およびこれと原因を同じくすると思われる、関東地方のほぼ全域で起こった電子機器の異常動作。
今回の台風４号が災害復旧当局に残した課題は数々あったが、十番中学の二年生にとっては、異常な突発死に襲われた杉浦 彩の話が目前の事件であった。
六組の元山伸子の失踪事件と関連して語る者もいた。
杉浦家での葬儀はひっそりとしたものだった。
水野亜美は五組同級生代表として告別式に参列した。
六組から木野まことが同行した。それは杉浦家から学校へのたっての依頼であった。
杉浦家では一通りの式の終わった後で、二人は他の弔問客とは別室に案内され、彩の母親と対面した。
以前の中学にいた頃、学校でのたった一人の友人が木野まことであったと彩が常々語っていたこと、まことが転校してからいかに彩が落ち込んでいたかということ、不幸な事件のあと、彩の転校先としてまことの移った十番中学を調べて選んであげたのは自分であることを、その上品そうな婦人は涙ぐみながら語った。
最後に彩の母親は彩の二つの遺品を二人に見せた。
一つは小さな額縁に入った一枚の写真であった。
緑の樹木をバックにこちらを向いてポーズをとり、はにかんだ笑顔を浮かべたまことの隣に、まことと同じ制服を着た彩が嬉しそうに笑って並んでいた。
最近撮った写真とのことで、最後まで彩の勉強机の上に置いてあったと言う。
写真の彩は同時に撮られたものではなかった。
別の写真から切り抜かれ、額縁のガラスの下でまことと並んで貼られた稚拙な合成だった。
もう一つは小さなカードファイルだった。それはこの街のおもちゃ屋で売っている人気者のセーラー戦士カードのコレクションだった。
中に入っているカードは一枚残らずセーラージュピターのみだった。
彩はたいへんなジュピターのファンで、小学生みたいと自分に叱られながらも、おもちゃ屋に通い、いつもこのカードケースを持ち歩いていたことを母親は語った。
十番中学に来てから再会し、昔通りの付き合いが始まり、そのことを嬉しそうに語っていた彩の一番の友達というまことに、ぜひこのカードファイルをもらって欲しい、そう母親は頭を下げる。
思いがけず時間を取ってしまった葬儀からの帰り、夕陽に影が長く伸びる道を亜美とまことは並んで歩む。
今日は火川神社で皆の集まりがある。そこへ向かう二人とも口を閉ざしたままだった。
十番町商店街はずれの公園に差しかかる。
まことは公園の入り口に目を止め、立ち止る。
「済まない亜美ちゃん、先に行っててくれないか」
亜美が不安気に、まことを見上げる。
「ちょっとそこの公園で一人になりたいんだ。後からすぐ行くよ」
まことは穏やかに語る。亜美はうなづき、まことをそこに置いて歩き始める。
その後ろ姿を見送り、まことは公園の入り口へと向かう。
「こんにちは、木野さん」
先ほど公園の入り口で手招きした美夕は、今は鉄棒に腰掛けて近付くまことに微笑みかける。
この時間なのに公園の中には他に子供達の姿は見えず、夕陽のせいか公園の空気全体が赤っぽく目に映る。その中で十番中学の制服を着た美夕が鉄棒に腰掛けた姿は、童話の一シーンのようだった。
この公園は表通りのすぐそばなのに物音一つせず、森の中のようにしんとしていた。
「もう傷はいいのか？」
鉄棒の下から、まことは美夕を見上げる。
美夕は制服の上着を軽くまくりあげて、白い腹を見せる。薄いピンク色をした痣が肝臓の上あたりの皮膚に放射状に広がっているだけだった。
「うん、気に掛けてくれてありがとう。もう治りかけているの。一週間もしたら何の痕も残らない…それより、あなたは？」
美夕の金色の瞳がまことの瞳を覗き込む。
「悪い夢を見ていたみたいだった。美夕！ 話してくれ」
勢い込んだまことの様子に美夕はきょとんとした丸い瞳を見せる。
「あんたも、以前は人間だったって亜美ちゃんから聞いた。どうだったんだ。最初に神魔に乗り移られた人間を倒した時って、あんたは」
見上げるまことの瞳の儚い光に美夕は目を細める。
ふわと鉄棒から舞うと、その両腕をまことの肩に乗せたまま宙に浮いて顔を寄せる。
「そう、苦しかったのね、あなた。あの時、大勢の人間を空に散らせて。でも、それは仕方がなかった。神魔に身体を捧げた者は二度と助からないから」
「そう思おうとはしたさ。でも、あたしは…あたしは」
「辛い？ 苦しい？ でも、それがあなたが選んだ修羅の道」
穏やかな光を湛える金色の瞳。その瞳がまことの震える瞳の奥まで覗き込む。
「それとも…忘れたい？」
首をかしげ、美夕は誘うように囁く。
「私は夢を見せてあげることが出来るの」
「夢…？」
「そう、私の血を受け入れれば、忘れたいことも忘れられる。一番行きたい世界に行けるの」
「美夕の血を…」
まことは美夕の瞳から、その口元へとぼんやりと視線を移す。
半開きの薄桃色の唇と、その奥に小粒の歯が覗く。
レイと亜美は公園に向かって駆けていた。
氷川神社で亜美と共に皆の到着を待っている時に、レイは突然忘れたくとも忘れられない神魔が動きだすあの気配を感じ取り、その方向へと急行したのだ。
走りながら亜美と話した情報の交換から神魔、おそらくは美夕は公園に残ったまことのもとへ現われたと判断した。
亜美も同じ判断だった。だが、亜美は美夕の目的まで予想がついていた。
おそらく美夕は十番中学に現われた最初から…
「木野さん、あれからずっと悩み続けていたのね。かわいそうに、まだ中二なのに」
美夕はささやきながら、そっとまことの衿のセーラーをずらし白い喉を肩まであらわにする。
まことは美夕のささやきをぼんやりと聞きながら、なすがままにまかせる。
「杉浦さんや元山さんや、水野さんの想いに気付かなかったことも、苦しいんじゃなくて？ みんな忘れさせてあげるよ。みんな木野さんが大好きだったのに」
「亜美ちゃんが？」
「そう、本当は水野さんがどんな夢を見たかったと思う？ でも、もう悩むこともないの。夢をあげる。そのかわり私には美しい人の血が必要なの」
美夕の両腕はまことの肩と頭にそえられる。その薄桃色の唇がまことの喉へと迫る。
「木野さん。最初に会った体育館で、木野さんとっても美しかった。しなやかでとても輝いていた。その時から私は…」
レイと亜美は公園の入り口で異様な障壁に捕えられていた。
落日のせいだけではない赤っぽい光に満ちた公園の中で、十番中学の制服を着た美夕が宙に浮いてまことの頭を抱きかかえ、その喉に口を近付けている。
しかし、それが見えながらレイと亜美の身体は網に捕えられたように自由が効かず、声も出なかった。
まことはぼんやりとした視線のはじで彼らをとらえた。
亜美がドアを叩く姿勢のまま、必死で叫んでいる。音も声も聞こえては来ない。
喉に美夕の吐息がかかり、その冷たく柔らかい唇がひたりと喉に触れる。
弾かれたようにまことの手が動き、美夕の両手首をつかんでその全身をもぎ離す。
次の動作で美夕の背中を鉄棒に、力任せに押さえ込む。
「これが、あんたの手か、美夕！」
まことの叫びに、美夕は目を丸くする。
が、荒い息を吐きながら身体を重ねて押さえ込むまことの殺気立った顔を下から見上げ、美夕はくすりと笑う。
美夕を押さえ込んだまことの身体に、その頼りないほど柔らかい身体の感触と、それとは対照的にひんやりとした体温が制服を通して伝わって来る。
美夕はなんら抵抗すらしようとしはしなかった。
既に公園入り口の障壁は解け、亜美とレイとはこの二人の元に駆け寄っていた。
まことの顔から殺気が消える。
そっと手を離し、美夕の身体の上から身をどける。
「ごめん、乱暴して」
決まり悪げにまことはつぶやく。
亜美とレイはまことの前に素早く割り込む。
美夕は身を起こし、まことにつかまれた手首をさすりながら、自分を囲む少女三人の後ろに向けて声を掛ける。
「大丈夫よ、ラヴァ。気にしなくても」
慌てて振り向いた三人の後ろに夕闇に溶け込むようにあの黒衣の下僕が立っている。
「もう大丈夫みたいね、戦士の皆さん。私はこれでこの地を去ります。みんなとても立派よ」
三人を見回す美夕の目がまことで止る。
「どうして、最後に我に帰ったの？ 木野さん。聞かせていただけるかしら」
「…亜美ちゃんが、あんたの夢を自分で拒絶したことを、亜美ちゃんの顔を見て思い出したんだ」
まことは、亜美へと目を走らせる。
「そう」
美夕が微笑んだ時だった。
「あっ！ まこちゃん、亜美ちゃん、レイちゃんまでいるのぉ？」
公園の入り口から底抜けに明るい声が響いた。
皆がそちらを振り向く。
左右のおさげを振りながらうさぎが走り寄って来た。
その後ろに美奈子が笑って立っていた。が、美夕の存在に気付いた途端、顔色が変わる。
レイの目もつり上がり、懐の護符を引き抜きつつ、素早く美夕へと振り返る。
そこには既に美夕はいない。
たんっ！と地を蹴って美夕の身体は宙に舞い、ちょうど美奈子とまこと達の中間の地点まで来ていたうさぎのかたわらに着地する。
「すごおい！ あなたも十番中学の子？」
うさぎは美夕の軽業に感嘆の声を上げる。
「そうよ。あなたが月野うさぎさんね。私は美夕っていうの」
素早く散開したまこと達を横目に、美夕はうさぎに微笑む。
「今ね、木野さん達から月野さんのお話しを聞いていたの。とっても素敵なかたなんですってね。みんな月野さんが大好きだって言ってたわ」
「にゃはははは、人望よ。やああ、困っちゃうな」
照れるうさぎは、人質を取られた形で手の出せないレイ達の緊張が目に入る様子もない。
「でも、残念ね。もう私は行かなくちゃならないの。もっと早く月野さんとお知り合いになれたらよかったな」
「あら、美夕さん。お引っ越しなの？ すごく身が軽いからまこちゃんと話しが合いそうなのに」
そう言ってうさぎは、じっと美夕の顔を見、手を伸ばして美夕の左に垂らした髪にそっと触れる。
「美夕さんも、お団子だね、髪。あたしと一緒だあ」
うさぎは嬉しそうに笑う。
あっけに取られた美夕は、次の瞬間吹き出し、口に手を当ててうさぎと共に笑い出す。
笑いながら腕を伸ばし合図をする。
鉄棒のところに佇んでいたはずのラヴァが、ふいに美夕の真後ろに現われる。
その瞬間四人の少女はうさぎに向かって走り寄る。
ラヴァは彼らには構わず、美夕をその腕にと抱え上げる。
目を丸くしたうさぎの回りを四人の少女が素早く囲むのを、美夕はラヴァの腕から楽しそうに見つめる。
「分かったわ、皆さん。なぜ皆さんが月野さんを守るのかって。木野さん、あなたは空の上で言ったわね。宿命だから、守るんじゃない。うさぎちゃんがうさぎちゃんだから守るんだって」
亜美がはっとまことを振り向く。
「あたしも、空の上で見せてもらったよ」
まことも美夕達に向かって言い返す。
「血の宿命だから守るんじゃない。下僕だからあんたを守るんじゃないって」
その言葉に美夕は一瞬虚をつかれた表情を浮かべ、はにかみの微笑みを浮かべる。
美夕はあお向けに上を振り仰ぎ、右腕を差し伸べ、ラヴァの白い仮面の頬を指で撫でる。
再びまことへと戻した美夕の表情は静かな穏やかさに満ちていた。
「戦士ジュピター、最後にいいことを教えてあげる。空の上でみんな最後は人間に戻れて喜んでいたよ」
まことの目が大きく見開かれる。
「ほんとだよ」
美夕はまことへと微笑みかけると、自分を見上げる残りの少女達を見回す。
「それじゃね、皆さん。バイバイっ」
片手を軽く振ると、美夕とその下僕の姿は黄昏の闇に溶けるように薄れていった。
ふいに夕刻の騒がしい雑踏が周りから沸き起こる。
公園には夕焼けの最後の時間を遊ぶ子供達の姿が走り回る。
買い物帰りの主婦達がベンチに座ってしゃべっている姿がある。
「うさぎっ！」
レイがうさぎを力一杯抱きしめる。
「うさぎ、あんた危なかったんだから！ 危なかったんだからぁ…」
後半は声にならなかった。レイは人目もはばからず、うさぎを抱きしめたまま、わんわんと泣き出した。
「どうしてぇ、どうしたのレイちゃん。レイちゃんが泣くと、あたしだって、悲しいよお。レイちゃあん…」
レイに抱かれたままうさぎも、訳も分からず声を限りに泣き始める。
その二人を周囲の好奇の視線も気にせず、美奈子があやし続ける。
「美夕もさ、亜美ちゃん」
まことは亜美に語りかける。
見上げる亜美の視線を受けつつ、まことは言葉を続ける。
「美夕も戦士だったんだ。永遠に戦い続ける」
「あの姿のまま、歳をとることもなく、たった一人で何十年、何百年も…」
亜美は黄昏の空を見上げて呟く。
「一人じゃないさ。一人じゃ耐えられない。生き地獄だよ。もしあたしがそんな宿命になったら狂ってしまう。でも…」
「でも、その時にはわたしも一緒よ。仲間がいるわ」
亜美はまことを再び見上げ、手を取り、力を込めて握る。
「そうだね」
まことはうなずき、亜美の手を握り返し、目を閉じる。
風が耳元で吼える。
夏が近い満月は黄昏の空に姿を現し、眼下を夕陽に黄金色に輝く都市が流れ始める。
薄紫色の空をバックに、梁の一本一本のオレンジ色を燃え上げた東京タワーが間近にせまる。
その黄金樹の樹冠をかすめる巨大な蝙蝠のような黒衣の下僕にいだかれ、華奢な狩人は瞳を去り行く街へと向けている。
ぬくみを帯びた風は美夕の白い和服の衿を抜け、ほっそりとした肢体を洗い、袖を膨らませる。
風はおさげの髪をもなぶり、千切れるようにはためかせる。
少女の瞳が穏やかにまたたく。
薄桃色の唇が開き、自らをいだく黒衣の下僕にささやく。
「ラヴァ、行こう。次の街へ」
樹木に覆われた丘をかかえる黄金色に輝く小さな街から、はぐれ神魔を追う闇の狩人、吸血姫 美夕とその下僕は静かに去って行った。
了
後書き
作品「風の空域」は、パソコン通信NIFTY-Serve 上のまこちゃんファンの集団「セーラージュピター＆木野まことPATIO 」メンバー木星守護騎士団が発行した、まこちゃんオンリー同人誌「Ｅｖｅｒ Ｇｒｅｅｎ」（1993年12月30日発行）に掲載されたものです。
その本に掲載した版から、クライマックスのシーンを多少加筆修正をしております。
同人サークル「瀬」
檸檬児
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2000-9-27