華宵闇
井上英樹「耳のないうさぎ」へのオマージュ
引っ越してきた麻布十番のアパートの部屋は南向きで明るく、今の収入からは申し分のない物件と言えた。
大学時代に新人まんが賞に応募した原稿が出版社に認められ、その応募作「ラブコール」で雑誌デビューしてから、彼女がプロとして活動してゆく契機としての引っ越し先がここであった。
母の言うとおり薬剤師の道へ進めば安定した生活は保証されたかも知れないが、高校時代からの夢はやはり捨てきれなかった。
もはや後戻りは出来ない。
新たな決意を確かめる意気込みを込め、マーケットで買ってきたポリバケツに水をはり、彼女はこの新しい夢の基地である部屋の畳に雑巾掛けを始める。
以前のこの部屋の住人は男子学生であったと聞く。頬に大きな傷があったけれど、まじめで口数も少なく、大学を卒業と共にこの町を離れたと大家が語っていた。
男の子が暮らしていたにしては畳はそれほど汚れていない。
おそらく、畳の上にカーペットを敷いて暮らしていたのであろうか。
しかし、掃除をしながらも雑巾がかすかに窓側の一枚の畳のへりに引っ掛かる。
目で見ても、上を歩いても分からないが、微妙にその一枚の畳のヘリの高さが他と差があるようだった。
全ての畳を拭き上げ、後は家具類をセットすればよいのであるが、彼女にはその畳の厚みが気にかかった。
意を決して、へりに大型のマイナスドライバーを差し入れて、畳を起こす。
青臭い藺草の匂いが陽光に満ちたアパートの部屋に立ち篭める。
畳の下には新聞紙が敷かれてあった。
その新聞紙をどけるとその下一面にＢ５のノートが敷き込まれていた。
さらにその下は木の床板である。
このノートが畳の厚さの差の原因であったのだ。
ノートを全て取り、ふと気が付いて上に敷かれていた新聞の日付を見ると、四年前の四月となっている。
おそらく前の住人である大学生がこの部屋に越して来た時期のものであろう。
とにもかくにも畳を戻し、家具と家財道具を入れ、ようやく一息付くと彼女はレンジで湯を沸かして紅茶をたて、椅子に座ってそれを飲みながら先ほどのノートを開いてみた。
表紙に「月のうさぎの日記」とあり、通し番号を打たれたそれは意外にも丸っこい文字で書かれた女の子の日記帳であった。
高速２号線直下を流れる渋谷川は十番町に至ってその南の境界を沿い、町の東の外れを過ぎると急角度に進路を曲げて東京湾へと向かう。
上流から川沿いに植えられた桜並木は十番町南面に広がる十番公園に合流し、そこで桜の園へと大きく展開する。
春には公園一帯は仄かな白い花の塊に被われ、休日ともなると十番町の住民はおろか近隣の町からも花見客が繰り出す。
明日から新学期を迎える夜、軽目の夕食を終えた七時の朧月は中天にかかり、川沿いから見上げた夜空に並木桜が切れ込むような白さで視界に入る。
「花道みたいだねえ」
うさぎは一ノ橋のたもとで橋桁にもたれ、渋谷川を上流に向かって見つめ、つぶやく。
高速道路の下で波も見えない黒い川面の渋谷川は上流の闇へ向かって伸び、その両脇を桜並木がわびしい白さで守ったまま、やはり闇の奥へと続く。
うさぎの後ろに立ったレイは、ふと両側を白く守られたこの黒い花道奥の闇が冥府へと通じ、なにかがそこから川下へ向かってやってくるような妄想に襲われる。
「何言ってんのよ、うさぎ。ここを遡ってけば渋谷の東急があるだけよ。早くお花見に行きましょ」
レイはうさぎの腕を思わず引き寄せる。
「あん、痛。レイちゃん急に」
「あんたが、ぼんやりしてるからよ。うさぎ、綿菓子好きでしょ。おごってあげるから早くおいで」
「うん」
うさぎは元気に応えるといそいそと橋桁を離れ、レイについて歩きだす。
四月とは言え、夜になると肌寒い。
だが、ピンクのシャツと赤のミニスカートの上に白いアンゴラのカーディガンを羽織ったうさぎは、寒さ知らずといった軽い足取りで十番公園沿いに連なる屋台を先に立って冷やかして回る。
青のハイネックのセーターに赤のレザーワンピーススーツ姿のレイはそんなうさぎの後ろ姿を見つめながら足を進める。
屋台の群れの色トタン屋根の下には白熱電球が輝き、焼きそばのソースの匂い、タコ焼きの匂い、ドーナツを揚げる甘い匂いが次々と交差する。
レイは子供の頃、汗ばむ手に硬貨を握って縁日の夜に屋台の間を走り回っていたことを思い出す。
霊力のある子供だと町の人々は気味悪がり、町の商店でもレイを避けていた。
縁日でも自分を知る人々はさりげなくレイの前で道を開けた。
ただ、他所から来る屋台の商人達だけは、他の子供と分け隔てなく自分に接してくれた。
祭りの夜だけはレイはただの子供に戻って無心に遊んだものだった。
翌朝、あんなに楽しかった屋台のあった通りに行ってみると、もはや跡形もなく、ただそこかしこに散らばる割り箸がかすかな名残を留めるだけであった。
「みんなも来ればよかったのにねえ」
黄金色の光りを反射して銅板から剥がされ、穴の空いた板に差されてゆくベッコウ飴細工を見ながら、うさぎがささやく。
「こんなこともあるわよ。他のみんなの都合がつかないなんて」
「じゃあさ、お面を買っておいてあげようよ。さっきの屋台のところにセルロイドのセーラー戦士のお面があったのよ」
「お祭りはね、その場に居合わせるから楽しいのよ。ふざけて買うからお面も楽しいの。翌日見ても、それは抜け殻よ」
ふいにうさぎはくるりと振り向き、まじまじとレイの顔を見つめる。
「レイちゃん」
「なあに、うさぎ。変な顔して」
「レイちゃん楽しい？」
真剣な顔をして見つめるうさぎにレイはとまどう。
「今、レイちゃんとても淋しそうな顔に見えた」
思わずレイは息を飲む。
「あたしなんかといて、レイちゃん楽しくなんてないんじゃない。やっぱりみんなと一緒の方が」
「ばか」
レイは右腕をうさぎの首に回し抱き寄せる。
「レイちゃん、楽しいわよ。うさぎと一緒で」
レイの肩先に顔を押しつけたうさぎの耳元にそっとささやく。
ふわと甘やかな匂いが鼻腔をくすぐる。右腕の中で白いアンゴラに包まれた小柄な身体がもそりと動く。
アンゴラってウサギだっけ。ふとレイは脈絡のないことを思い出す。
「ほんとう？」
くぐもった声が漏れる。
「え〜ぇ、おばかさんのお世話で楽しいったらありゃしない」
「あぁん、レイちゃんのいじわる。心配したのにぃ」
勢いよくうさぎは顔を上げる。だが、レイはまだうさぎの首に回した腕をほどこうとはしない。
口元に笑みをたたえたまま、口を尖らせたうさぎの鼻の頭を左手の人差し指でつつく。
「なによ、泣き顔なんかして。ほら、約束の綿菓子買いに行こっ」
するりと右腕をはずすと、レイはさっさと先に立って歩きだす。
「あ、待ってよ。レイちゃん」
その後をうさぎが慌てて追う。
十番公園の丘の上の平台は満開の桜の花天井が頭上を一面に雲のように覆っていた。風もないのに花びらは絶えることなく散って舞い、公園の中に更に伸びている道を音もなく白く覆い続けている。
花咲く樹々の下には人々がビニールや蓆を広げ、唄ったり笑ったり、陽気な雰囲気があたりを満たしている。
「わあ、凄ぉい！」
うさぎは食べていた綿菓子から口を離し、頭上の白い花天井を左右に見上げる。
「そうだ、レイちゃん。これ持ってて」
ふいにうさぎがレイに食べかけの綿菓子の割り箸を持たせる。
「でやっ！」
うさぎは手近な桜の樹へとダッシュし、両手の平で幹にぶつかる。
ぶると揺れた樹は枝々を振るわせ、雨のように花びらを散らせる。その花の雨をうさぎは両腕を横に開き手の平を上に向けて受ける。
「レイちゃ〜ん、花の雨だよ」
「ばかねえ、うさぎ。子供みたいなことして」
割り箸を持ったままのレイは眉をひそめながら笑いかける。
「レイちゃん、見てて」
言い残すとうさぎはふいに全速で両側を桜に守られた暗い道を駆け出した。降り積もった桜の花びらが風圧で舞い上がり、うさぎの後ろ姿を覆う。
「レイちゃ〜ん、忍者みたいでしょう。花隠れの術だよ」
十メートル程前方でうさぎは立ち止るとくるりと振り返り、乱れ舞う花びらの向こうから呼びかける。
「もお、ばか」
苦笑するレイに、うさぎは手を振って呼びかける。
「レイちゃ〜ん、こっちおいでよ。こっちからの眺めも凄いよ」
「よ〜し、負けないわよ」
レイも負けずに駆けだす。
「あははは、鬼ごっこだあ」
レイが駆けだしたのを見たうさぎは、再び前へと駆けだす。
ふわとその姿を舞い上がった花びらが覆う。
「こら、うさぎ！待ちなさいったら」
そのレイの言葉も耳に入らないように、うさぎは駆け続ける。
ふと、レイは自分の姿もうさぎのように花びらに隠れているのだろうかと、後ろを振り返る。
両側を白い桜に守られた黒い道が後ろへとずっと伸びていた。
「まるで花道みたい」
呟いた自分の言葉にレイは突然立ち止る。
再び前方を振り返った視界を無音の花びらの嵐が襲う。
「うさぎ〜！」
悲鳴のようなレイの呼びかけに答える声はない。
花びらが舞い落ちた時、レイは回りの公園を見回す。
闇の中に桜の樹が延々と立ち並ぶ広大な敷地に、先程まであれほど賑やかだった花見客の姿がどこにもない。
それどころか東京の夜のざわめきすら消え去っている。
そもそも、十番公園はこんなに面積が広かったろうか？
「うさぎっ！今度は隠れんぼのつもり？レイちゃん本当に怒るわよ」
レイの叫びは、しんとした闇と白い桜の花の間に吸い込まれる。
「きゃはははは、あはははは」
幽かな少女の笑い声が前方に伸びる桜の樹々の奧から聞こえてくる。
うさぎの声だった。
レイは白い叢を戴いた樹々の間を伸び続ける黒い花道を進む。
ふいに視界が開ける。
道は突き当たりで止り、半径十メートル程の草の生えた丸い広場に接していた。
この広場を守るように満開の桜の樹が円周状にまばらに生えている。
突き当たりに位置する桜の樹の２メートル半程の高さの幹からは、横の闇に向かって太い枝が突き出していた。その枝の下には汚れ古びたパイプ椅子が開いて置かれている。椅子の隣にやはり古びた学生鞄が幹に凭れかけて置いてあった。
「きゃはははは」
朧月に照らされた丸い広場の中心で、身の回りに花びらまといつかせながら、うさぎが両腕を横に伸ばし、身を回して踊っていた。
レイはその場に立ち止り、思わず叫び声を上げる。
「何やってんのよ、うさぎ！レイちゃん心配したんだから」
その声にうさぎはピタリと動きを止める。
「レイちゃん、来てくれたんだ」
うさぎは、軽く首をかしげてレイに微笑みかける。
「ずっと待っていたんだよ、あたしはここで」
そのままうさぎはその場に立ったまま、静かな瞳でレイを見つめる。
ゆっくりとレイは足を進める。
「待っていた、ここで・・・ここはどこ？うさぎ。あなた、誰？」
自分の声が震えているのが分かる。
目の前のうさぎの髪が月の光りを受け、ほとんど白い程に見える。
身体もまるで透き通っているかのように、月の光りを淡く受ける。月の光りを受けた顔も白い。
「あたしは、うさぎ。耳のないウサギ。レイちゃんが来るのを待っていたの」
白い顔が静かに語る。
「あたしを待っていたって、どういうこと。影のないうさぎちゃん。あたしの本物のうさぎはどこ」
月の光りを全身に受けながら目の前のうさぎの足元に影はなかった。
レイの尖った声に、うさぎはそっと眉をひそめて笑う。
「あたしが、うさぎよ。本当の。そして、レイちゃんはあたしが作ったお友達」
穏やかな瞳でうさぎはレイの瞳を見つめる。
「お札を使ってみる？レイちゃん。最初に出会ったあの時にレイちゃんはあたしに悪霊退散のお札を額に貼ったでしょう。あの時に気がつかなかったの？お札を使えばあたしは消える。だけど、あたしが消えたらレイちゃんも消える」
レイは突き刺すような瞳でうさぎを見据える。
綿菓子の割り箸を胸のポケットに差し、右手は既にレザーワンピーススーツの胸に差し込まれていつも持っている札の束を握っていた。やがてレイは溜息をつくとスーツの胸からゆっくり右手を抜いた。
手には何も持ってはいない。
「どういうこと、あたしに何をして欲しいの？あたしをあなたが作ったって何？」
静かなレイの言葉にうさぎは嬉しげに微笑む。
「あたしの願いは、レイちゃんがこれまでと同んなじにあたしと一緒にいてくれることだけ。それだけ。ケンカしたり仲直りしたりしてずっと一緒にいて欲しいだけ」
うさぎは上目使いにレイを見つめる。
レイはゆっくりと白いうさぎに歩み寄る。
「聞かせて、あなたの話を」
自分でも驚くほどの落ち着いた声だった。
うさぎはこくとうなずく。
「昔のことよ。十番中学の三年生にうさぎって名前のバカな女の子がいたの。頭が悪くてクラスのみんなも付き合ってくれなかった。それがあたし。
「だから、日記の中であたしはお友達を作ったの。頭がよくてお勉強を教えてくれるお友達、ケンカが強いけど優しくてお料理も上手なお友達、いつも元気であたしと楽しく遊んでくれるお友達。そして厳しくて意地悪だけれど本当はあたしを見守ってくれるお友達。それがレイちゃん。
「毎日あたしは日記を書いてその日のことを、日記の中で作っていたわ。あたしはお友達作りの名人で、みんなあたしが大好きで、あたしに優しくしてくれるの。それに本当はあたしは月のお姫様の生まれ変わりで、お友達もみんなそのころの仲間の生まれ変わりだって・・・でも、日記を閉じるといつものバカなあたしがいただけ。誰もあたしを相手にしてくれない。
「その時の学校の花壇の隣には大きな檻があって、そこで何羽もウサギを飼っていたの。ウサギって何羽って数えるんだって」
レイは黙って先をうながす。
「勝手に触るのは禁じられていたんだけど、あたしは淋しくて我慢できなくなると、夜中に学校に忍び込んで合鍵で檻に入って、眠っているウサギを抱きしめてたの。撫でてやると寝ぼけて腕にすり寄るの。可愛いのよ。
「だけどクラスの進級組の男の子達にそのことを知られて、体育用具室に呼び付けられたわ」
うさぎは下を向く。その表情は見えない。
「そこには男の子達が集まっていて、先生にウサギのことを黙っていてやるからって、みんなであたしをおかしたの」
レイは歯を食いしばる。
「男の子達は放課後の進級組の特別コースのたびに、あたしを呼んでおかしてから授業に出ていた。あたしはそれからウサギを抱いた。でもね、昼はいつもバカにして見もしないくせに、放課後になって抱くときだけは、あたしをなで回すの。まるであたしがウサギみたいに。あたしってウサギだったの。耳のないウサギだったの」
うさぎは顔を上げ、すきとおった瞳でレイを見つめる。レイはその視線をまともに受ける。
うさぎはほほえむ。
「レイちゃん、レイちゃんはいつもあたしをはげましてくれてたじゃない。日記の中で妖魔になった男の子達を、レイちゃん達みんなでやっつけてくれてたじゃない。みんなと一緒にあたしをなぐさめてくれたじゃない。強くなれって・・・でも日記を閉じるとレイちゃん達は行っちゃって、あたしだけが残された」
とん、とうさぎは正面の桜の樹の下の古びたパイプ椅子に飛び乗る。
「そして翌日の放課後も男の子達はあたしを抱くの。バカでも、あたしを抱く時にはみんなあったかかった」
うさぎは椅子の上から飛び上がり長く横に突き出した太い枝にぶら下がる。衝撃で枝が揺れ、桜の花びらが舞い散る。
枝からだらりとぶら下がったその姿に、レイは全身の毛が逆立つ。
「抱いてる時にはみんなやさしかった。でもね、抱き終わるともうおしまい。みんなあたしから去っていった。学校も卒業が近付いて、もう男の子達もあたしを抱かなくなる。あたしも檻に入ってウサギを抱けなくなる。レイちゃん達とも一緒にいられなくなる」
器用にも、うさぎは枝からぶら下がったまま、くるりと回る。
手をどう動かしたのかは分からない。レイの喉を冷たい汗が伝い落ちる。
「三学期が終わってあたしは中学を卒業したけど、高校にもどこにも行けなかった。明日から中学と高校の始業式って日の夜に、あたしは元の中学に忍び込んだわ。ウサギ達はよく眠っていた。柔らかくてふわふわで、何にも知らずに。
「あたしは一羽づつ抱き上げて撫でながら耳を鋏で切り落として、喉を突き刺したわ」
くるり、くるりとうさぎが回る。レイの口の中は渇き上がる。
「ちょっと暴れて、ウサギはみんな静かになっちゃった。檻から出るとあたしを抱いた男の子の一人が立っていたわ。最後にまたあたしを抱こうとしたのかしら。でもうさぎはもうどこにもいないのに。あたしは笑いながらその子の顔に鋏を突き立てたわ。その子、悲鳴を上げて逃げ出しちゃった」
くるりとうさぎが回る。
「あたしはそれからここに来たの。桜がとってもきれいで満月だった。今夜と同じよ。あたしはここで踊ったの。たらった、らった、らった、うさぎのダンス」
くるり、くるり、くるり、くるり。
「こんなきれいな花の中ならあたしの夢のお友達と一緒に月の光りの中でいつまでも遊べるって、その時分かったの。私は月のお姫様で、レイちゃん達もそこからやってきたんだもの。ねっ、お月様。みんなが住んでいる日記は全部鞄に入れて持ってきていたんだもの。みんなが見守ってくれている前であたしは踊ったの。こうすればみんなはいつまでもあたしと一緒にいてくれるんだもの。レイちゃんがいてくれるんだもの。あたしは踊ったの。桜の花びらの中で踊ったの。う〜さぎ、うさぎ、なにみてはねる、十五夜お月様、みては〜ねる」
くるり、くるり、くるり、くるり、くるり、くるり。
うさぎの足がついと動いてパイプ椅子を蹴り倒す。思いがけない金属音にレイは呪縛を解かれ、桜の樹に向かって駆け出す。
「うさぎっ！」
揺れる枝の下でうさぎの動きが止まり、物体のように反動にまかせて揺れている。その背中がレイの方を向いていた。
うさぎは腕で桜の枝にぶら下がっていたのではなかった。
桜の枝から一本のロープが伸び、それがうさぎの首を吊るしていた。
ゆらゆら揺れながらゆっくりとうさぎの身体が回る。
正面までじりじりと回り続ける。
レイはまっ正面を向き満月に照らしだされたうさぎの顔を見上げた。
その顔は黒紫色に膨れ上がり、目は一杯に見開き、開いた口からはサツマイモのように膨張した舌が突き出している。
スカートの下からは多量の排泄物がしたたり落ち、その臭いに更に濃厚な血の臭いが混じる。
「バカっ！」
レイは倒れたパイプ椅子を立て、それに飛び乗り、うさぎを抱きかかえ、首のロープの結び目をこじあけようとする。
きつく食い込んだそれをほどくことが出来ないと知ると、ロープをつかみ枝を引き下ろそうと渾身の力を込める。
「バカ、バカっ、バカ、バカっ！死んでどうすんのよっ、弱虫！なんで日記なんかに逃げ込んだのよ。なんで自分から心を人に開いてゆかなかったのよ！」
顔を突き合わせる程目の前の膨れ上がったうさぎの顔に、レイは涙を目ににじませながら叫び続ける。
早朝の白けた道を泣きながら家に帰る小さな自分の姿が心に浮かぶ。
屋台のおじさん達はもういない。次の縁日がいつなのか分からない。
泣きながら歩くレイを街の人々が指さしてひそひそ囁きあう。
「独り遊びで何が楽しいの！初めっから諦めてたんでしょ、卑怯者！これでいいんだって思ってたんでしょ！誰も分かってくれないって諦めてたんでしょ！」
振り回される枝から舞い散った桜の花びらが視界を覆う。
この風景だったんだ！
レイは思う。
首を吊った枝が揺れ、いまわのきわのうさぎの目には闇の中一杯に舞い散る白い桜吹雪が映っていたのだ。
「なんにもしてあげられないけど、ついていてあげるから、この悪夢から目覚めなさい！うさぎっ！あたしのそばにいていいわっ。嘘つきうさぎ！」
うさぎの涙と鼻汁が抱きついたレイの髪を汚す。膨れ突き出した黒紫のひんやりした舌がレイの顔を舐め回す。排泄物がレイのももを汚す。
それにも構わず、レイはロープを引きずり続ける。
めり、と枝の根元が音を立てる。レイは歯を食いしばって更に力を込める。
ぱきっ
音と共に、レイの顔を桜吹雪が襲う。
腕の中にうさぎはいなかった。
古びたパイプ椅子もなく、折れて落ちたはずの桜の枝もない。
レイは桜の木の下に立っていた。
顔にも髪にも身体にも、何の汚物の痕跡もない。
見上げた頭上には古い折れ口の枝を突き出した桜の樹が上へと伸び、おぼろな花の雲の中へと黒い枝を広げていた、
古い鞄だけは桜の根元に凭れかけて置いてあった。
「うさぎ？」
しんとした空気の中で、レイはつぶやく。
「レイちゃん。分っちゃったんだね、あたしのウソ」
背中の方から声が掛かる。
丸い広場の中央に白いうさぎが立っていた。
先ほどの断末魔の姿ではなく、レイをこの場所に呼び寄せたうさぎの姿だった。
軽く手を後ろで組み、バツが悪そうに上目で見上げている。
「あたしが昔の亡霊の夢が生んだ者なら、その時代の中でいつまでも流れない時にとらえられてるはず。最初に気が付いたわ」
レイの答えにうさぎは微笑む。
「あたしはバカだから、気が付かなかったの。でもレイちゃんは、それでもあたしにあんなにまでしてくれたのね。あたしがうさぎって名前だから？あたしの顔がレイちゃんのうさぎちゃんにそっくりだから？」
「なぜ、あたしを呼んだの」
レイはうさぎへと歩み寄る。
「見ていたの。あたしはここからずっと。レイちゃんやうさぎちゃんがこの街で育って出会ってゆくのを。あたしにそっくりなうさぎちゃん。だけどあたしと正反対なうさぎちゃん。あたしがなりたかった夢のとおりのうさぎちゃんと、うさぎちゃんを見守るレイちゃんもずっと見ていたの。小さい時からよ。あたしが日記に書いたのよりもっと素敵でもっと強いお友達。
「そばにいてもいいって言ってくれてありがとう、レイちゃん。とてもうれしかった。でも、もう行くわ。レイちゃん、レイちゃんのうさぎちゃんのそばにいてあげてね」
ふわ、とうさぎの足が宙に浮く。
両側を白い桜に守られた黒い道の奧からはらはらと桜の花びらが渦を巻いて流れて来た。
「日記はあの鞄の中？供養してあげるわね」
花びらに包まれ朧に霞んでゆくうさぎにレイはかすれた声で呼びかける。
「ううん、もう日記はないわ。あたしが頬に鋏でケガさせた男の子があたしのあとをつけてたの。あたしが首を吊ったあとで鞄ごと持って逃げちゃった。きっと遺書に自分の名前が書いてあったとでも思ったのね。中には私の書いたおとぎ話しか入ってないのに」
はっとレイは桜の根元を振り返る。
そこには既に鞄はなくなっていた。
いや、桜の樹そのものが薄く色をなくして行っていた。
「でも、もういいの。レイちゃん、ありがとう」
空へ向かって遠ざかってゆくかすかなうさぎの声に、レイは空へと振り返る。
乱舞する花びらを通し、中天の朧月に向かって舞い上がってゆくうさぎの姿が白くにじんで見える。
小さくなるその表情は穏やかに笑っていた。
「待って、まだ話は聞き終えてない。日記はどこへ行ったの？日記にこめられたあなたの想いはどこに行ったの！」
答えはなかった。
朧月はただ白く中天からレイを見おろしていた。
「あたしはなんなの？」
見上げるレイの目から涙がしたたり落ちる。
「レイちゃん、どうしたの？」
ふいに後ろからうさぎの声がする。
レイはピクと振り返る。
ピンクのシャツと赤のミニスカートの上に白いアンゴラのカーディガンを羽織ったうさぎが心配そうに自分を見つめていた。
レイは一ノ橋のたもとで渋谷川を上流に向かって橋桁にもたれ、月を見上げていたのだ。
目の前の黒い川面は上流の闇へ向かって伸び、その両脇を桜並木がわびしい白さで守っていた。
レイの耳に一ノ橋交差点を通過する車の群れの音が飛び込む。
「あれっ、レイちゃんの胸ポケットに綿菓子が入ってるよ。まだお花見行ってないのに、いつ買ったの？」
レイは下を向き胸から食べ掛けの綿菓子の割り箸を引き抜く。
白けた朝の道のあちこちに捨てられた割り箸は宴の抜け殻。
唇を引き締めて割り箸を見つめると、レイはそれを橋桁から下の渋谷川へとそっと落とす。
「レイちゃん、泣いてる。ねえ、どうしたの」
レイは答えず両手を伸ばしてうさぎの両頬を鋏む。
ピンク色をした暖かい頬がレイの両手に包まれる
レイはうさぎの瞳をまばたきもせずに見つめる。
うさぎはレイのしぐさに怪訝な表情のまま、なすがままにまかせる。
ふいにレイの両手が震えだし、両眼から新たな大粒の涙がこぼれ落ち始める。
「うさぎ、うさぎっ」
両手をうさぎから放し、手の甲で目をぬぐいながら、肩を震わせてレイは泣き始める。
「レイちゃん、どうしちゃったの？レイちゃん、レイちゃん！どっか痛いの？」
泣くレイの両肩を抱きかかえ、うさぎは問いかける。
「あたし誰なの、うさぎは誰なの」
切れ切れのレイの声が漏れ聞こえる。
そっと、うさぎはレイの背中に腕を回す。
涙まみれのレイの顔がうさぎの胸に押し付けられる。
ふわと甘やかな匂いがレイの鼻腔をくすぐる。
「あたしはあたし、月野うさぎだよ。レイちゃんはあたしの大切なお友達、火野レイちゃん。レイちゃん、気が済むまでこうやっていよっ」
うさぎは胸の中のレイに囁きかける。
レイはうさぎの背中に両腕を回し、声を殺して泣き続ける。
通行人の視線も気にせず、うさぎはそのままの姿勢でレイをささえ続ける。
どれほどの時間が経ったのであろうか、嗚咽は止み、やがてレイは顔をもたげる。
はにかみを浮かべレイはうさぎと目を合わせる。
「ごめん、驚かせて。びっくりした？」
うさぎはそれには答えず、小さく吹きだす。
「レイちゃん、目、真っ赤。まるでウサギみたい」
一瞬レイの表情が凍り付くが、すぐそれはあぶり出されてきたような穏やかな笑顔の中に溶け込む。
ついとレイは朧月を振り仰ぐ。その月へとレイは語る。
「うさぎは月に帰ったのよ。桜の花に誘われて花道を通ってやって来て、花と一緒に帰ったの。たとえあたしがうさぎの夢だとしても、あたしは月には行かないの」
「あの、レイちゃん？」
うさぎは目を丸くしてレイを見つめる。
「うさぎっ、お花見に行こっ！何でも買ってあげるわ。明日から花の女子高生だもん。今夜はうんと遊ぼっ！」
振り向くとレイは、うさぎに勢い込んで笑いかける。
「わーい、いつものレイちゃんだ。行こ、行こ」
レイは確かな足取りで十番公園に向かって駆け出す。
そのすぐ後をうさぎが嬉しそうについて走ってゆく。
朧月の照らす肌寒い四月の夜空へとうさぎの明るい笑い声が舞い上がる。
男子学生の部屋の畳の下に隠された少女の日記に、すわ犯罪の匂いかと意気込み込んで読み始めてみたものの、それは思春期の少女による脈絡すら通らないたわいもなく荒唐無稽な夢物語であった。
なぜ、こんなところに隠されていたのかは分からない。
あるいは、その学生の少年時代の女友達との創作交換日記などといった、甘酸っぱく気恥ずかしい想い出だったのかもしれない。あるいは、紀貫之のようにその男の子自身が少女の気持ちになって書いた創作物であったかも知れない、と彼女は考え笑みを浮かべる。
最初は大家にその学生の転居先を聞きだして返送しようかとも考えたものの、おそらく今は社会人ともなっている若者に、見も知らぬ女性から気恥ずかしい少年時代の想い出が届けられたら何と思うであろうと考え直すと、かえってはばかられる。
結局、彼女は日記の束を翌朝の燃えるゴミの日にビニール袋に入れてアパート前の指定の電信柱の元に置いた。
アパートの窓から青い清掃車がゴミを回収し去って行くのを見ながら、彼女はふとあの日記の行く先を考える。
夢の島
なにかひどくたちの悪い冗談を聞いた想いがし、思わず清掃車を追いかけようとアパートの出口から飛び出した自分に気が付き、彼女は苦笑する。
むろん日記を入れたビニール袋は既になく、烏につつかれて破れたゴミ袋から散らばったのか、数本の割り箸が白けた朝の道に散らばっているだけであった。
了
同人サークル「瀬」
檸檬児
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2000-9-27