夜の仔猫
目次
夜の仔猫
夜の仔猫・二 黄昏の森
第一章・発端
第二章・鎌倉
第三章・悪夢
第四章・散策
第五章・神魔羅喉
第六章・凌辱
第七章・ラヴァ
第八章・代替わり
終 章・黄昏の森
中休み
夜の仔猫・二 夜明けの森
夜の仔猫
梅雨は夕刻迫るアスファルトの道を濡らし続けている。
コートに身を包んだ瀬 一三子は帰路を急いでいた。
連日の雨は傘を乾かす暇も与えず、布地を染み通った雨は柄を伝って傘を持つ一三子の掌を濡らし続ける。
雨をついて吹く風は重苦しく湿り、肌の露出部分を刺すように冷やしたが、コートはその下の身に居心地よいぬくみを保っていた。
アスファルトの道の左手に、やがて竹林が現われる。
ここを通る度、並び生える竹のはざまの薄闇は一三子に一人の少女を想い出させる。
ー美夕ー
あれからもう、どれだけの年月が過ぎ去ったことだろう。
あどけなさを残した少女の姿の怪物。
自分を呼ぶときの、時に見下したような、時に甘えるような声。
一三子は軽く頭を振った。他のことを考えたかった。
少女の頃、やはり雨の日に竹林で拾った仔猫の記憶がふいに想い出された。
永いこと、とても永いこと忘れ去っていた記憶だった。
あれはまだ中学生のころ、ちょうど今ごろの季節、今ごろの時刻だった。
当時住んでいたＫ町のはずれの道路沿いの竹林から、雨の音を縫うかすかな啼き声が下校途上の一三子の足を止めた。
踏み入った竹林は道路の雑踏の音を消し、頭上一面から雨が葉を打つ音がやわらかく降っていた。
一本の太い竹の根本にその純白の仔猫はいた。
「・・・みこさん・・・一三子さん」
一三子は夢想から覚め立ち止った。道の左手に長々と続く竹林から、自分の名を呼ぶかすかな声が聞こえた。
この時刻にしては道路は車の往来もなく、通行人の姿も見えず、ただ一人立ちすくむ一三子の耳には傘を打つ雨の音が聞こえるだけだった。
・・・後から考えてみると、この時刻、人通りがなかったことも変だった。その時は耳をそばだてて竹林からの音に注意を集中していたので気付かなかった事ではあったが。
「一三子さん、たすけて」
空耳などではない。忘れようにも忘れられないあの声。
一三子は傘を畳み、竹林へと踏み入った。
一歩中に入ると竹林は道路の雑踏の音を消し、頭上一面から雨が葉を打つ音がやわらかく降っている。
竹林の中は深く、足を進めるごとに暗さが増す。
かすかな白い靄が薄闇にたなびいている。
孟宗竹のまっすぐな柱の間を、薄黄色の枯れ葉が地を覆い、足を進める一三子のブーツに濡れた葉がへばりつく。
しんとした竹林の薄明の中に期待したものは何も見えない。
「何をやっているんだろう、私」
立ち止った一三子が、誰に言うともなくつぶやいた時だった。
視界の隅に、動くものがうつった。
振り返った一三子の目に、竹叢の向こうに倒れ伏した白い塊が飛び込む。
白い着物に包まれた人間だった。いや、見間違えるはずもない。
「一三子さん、来てくれたんだ・・・」少女は弱々しく顔を上げ、立ちすくむ一三子に微笑んだ。
「美夕！」一三子は駆け寄り、美夕のかたわらに膝をつく。
「どうしたの、この傷！？」
濡れそぼった美夕の白い着物の左の肩口がザックリと裂け、その回りににじんだ血がさらに大きく濡れ広がっていた。
着物の裂け目から覗く肌に、大きな裂傷が口を開いているのが見える。
「美夕、しっかりおし！」
一三子の姿を認め安心したのか、美夕の目が閉じられ、スッと首の力が落ちた。
触れた頬は雨に濡れ、死人のように冷えきっている。
このままにしておくわけにはいかなかった。
血でコートが汚れるのも構わず背に負う時、かすかにうめいた他は、美夕は一三子のアパートに着くまで全く静かだった。
途中で通行人にも、車にも遭わなかった。一三子はそれをさいわいと思った。
何度か背中の美夕に語りかけたが返事はなく、肩にあずけられた頭が無抵抗にグラグラ揺れるのが不安感を募らせ、一三子の足を急がせた。
部屋に入るや、ダイニングの床に美夕の身体を横たえ、ドアの鍵を掛けるのももどかしく、一三子はバスルームに飛び込みタオル類を抱え込んだ。
戻ってくると、床にバスタオルを広げ、美夕をその上に移す。
あわただしく温水器のコックを捻って持ってきた洗面器に湯を満たし始めると、一三子は再び美夕のそばに跪き、帯を外して濡れそぼった服を脱がせ始める。
白い着物に似た服の下には、袖無しの赤い肌じゅばんの他は下着を着けておらず、バスタオルの上に横たわった初めて見る美夕の頼りないほど華奢な裸身に、一三子は眉を寄せた。
左肩の傷は恐ろしいものだった。既に流れる血そのものが乏しくなったのか、出血は少ない。
つるはしで打たれたような深い穴が口を開き、穴の周りの肉ははじけ、水に触れていた部分の肉は半透明に白くなり、穴の奥から新しい血がゆっくりとにじみ上がってくる。
洗面器から湯が溢れる音に我に返り、一三子は立ち上がりコックを締め、湯を美夕の傍らの床の上に置いた。
医師を呼ぶわけにはいかなかった。人間の身体ではないのだ。
止血して安静にすることしか出来ない。
冷静に対処を考え始めた時、初めて一三子は自分がまだコートを着たままだったことに気付いた。
コートをハンガーに掛け、部屋の寒さに気付き、ストーブをつけ、救急箱を取って戻ってくると、再び一三子は美夕の傍らにひざまずき、手当てを始めた。
熱湯に付けたタオルを絞り、傷の周りの肌をぬぐう。
痛みが響くのか美夕の顔が歪み、小さな呻きをもらした。
「だいじょうぶよ、ここは私の部屋」気遣って語りかけた一三子に美夕は答える気力もないようだった。
薬を染ませた珠綿とガーゼとテープで傷口を塞いだ後は、濡れそぼり冷えきった全身をタオルを何度も暖め直しながら拭く。タオルはその熱をすぐに奪われてしまうのだ。
浅い呼吸に上下する胸の膨らみ始めた乳房も、細い腕も、丸みを帯び始めた腰も、一三子は拭き続けた。拭きながら一三子の鼻の奥が締めつけられた。
この膨らみかけた乳房が成熟する日は永遠に来ず、まだくびれも目立たない腰はこれからも豊かな広がりを持つことはないのだ。
まばらな体毛の生えた小さなつつましい性器に、一三子は一瞬手を止め唇の端を歪めたが、クスンと鼻を鳴らすと目をしばたたせ、休めた手を動かし始めた。
全身を拭き終わると寝室に急ぎ、新しい厚手のパジャマを持ってくる。
長身の一三子のパジャマはあきらかに美夕には大き過ぎたが、この際ぜいたくは言えない。
ダブダブのパジャマ姿に変じた美夕の髪から赤いリボンをほどき、乾いたタオルで髪に含んだ水気をぬぐう。
手当ての終わった美夕を抱き上げ、自分のベッドに寝かせると、一三子は乱れた髪を櫛ですき、タオルでまとめてくるんでやる。
美夕の様子をみると苦しげな浅い呼吸を続けている。「ゆっくりお休み」と声を掛けるとかすかにうなずいた事に、一三子は一応の安堵を覚えた。
汚れた美夕の衣服を湯ですすいで部屋の中にハンガーで吊るすなど、こまごまとした後始末が終わってベッドの枕元の椅子に戻ると、美夕は既に小さな寝息を立てていた。
ようやく一息ついた心地で、一三子は椅子を近付け美夕の寝顔をしみじみと眺めた。
窓ガラスの外には既に夜が広がり、黒く変じたガラスの外側をつたう雨が筋を光らせている。
美夕のつむられた瞼の長い睫とタオルからのぞいた揉上げが、整った顔にアクセントを加え、わずかに開いた薄ピンクの唇の奥に小粒の歯が覗き見えた。
あれほどの重傷に身体が休息を求めているのであろう、美夕はもはやうめき声もせず眠りに落ちていた。
それはあまりに無防備な小娘の姿だった。
あどけない顔で寝息を立てる美夕の顔を見つめながら、ようやく、こんな世話をしている自分への当惑が浮かんできた。それでもこの少女が自分に何をしてきたかを充分承知の上でも、この寝顔に触れ髪を撫でたい衝動が沸く自分をどうしようもなかった。
部屋は温かく、枕と布団とタオルにくるまれて眠る少女の寝顔は、一三子を拾った仔猫の想い出へと導いた。
犬や猫を嫌いだったわけではなかった。ただ、子供の頃から近所の犬猫は一三子を避けていた。あるいは、動物の直感で何か霊的に他の人間とは異質なものを察知したのかも知れない。人間の友人も少なかった。
だから、中学生の一三子がその時の竹林からの啼き声に呼ばれたのは、全くの出来心だった。
いつものように怯えて避けるだろうと思いながら差し出した手に、その白い仔猫はあらがいもせずにおとなしく包まれた。
胸に抱きかかえると、金色の大きな瞳で一三子の顔をまっすぐ見つめて、甘い声で啼いた。
小動物が一三子を避けることを危惧していた両親は、また生き物でもあることからも仔猫を飼うことには反対した。
しかし、初めて自分をしたう存在を得て興奮する一三子のたっての望みで、その牝の仔猫は一三子の部屋で飼われることになった。
その甘い啼き声から、仔猫の名はミュウと名付けられた。
ミュウと美夕、奇妙な名前の相似だった。思い出した一三子の頬にフとほほえみが浮かんだ。
ミュウはいたずら者だった。一三子の部屋の中をミュウは自由気ままに荒らし回った。
何度注意しても全く一三子の言うことを聞こうとはしなかった。
腹の立つことはたびたびあったが、それでもミュウの方からじゃれてきて甘え掛かるとき、一三子はそれらのことを全て許せると思えた。
母からは禁じられていたが、寝るときに布団の中に入れてやると、一三子の膨らみかけた胸の谷間を這い登り、さらに温かい腋の下に冷たい鼻面を押しつけてきた。
その柔らかい毛皮の背を撫でながら、くすぐったさを堪え、蠢くミュウのさせるがままに任せているうちに、一三子の股間は潤ってしまうのだった。
幼い自慰とも言えた。
その時の身体のわななきを思いだし、一三子は顔を赤らめた。
布団の中で思い切ってパジャマの上を脱ぎ、素肌でミュウと戯れたこともあった。
思い出される記憶に一三子の股間はすぼまるように痙攣した。
すぐそばで眠っている美夕に今の気配を気取られたのではないかと、一瞬一三子は危惧したほどだった。
ミュウとの別れは、しかしほどなく訪れた。
夏がじき訪れようというある夕刻、ミュウが動かなくなった。
箱の中で震えて丸くなるミュウを翌日になったら獣医に連れて行くとの母の言葉だった。
撫でると更に弱るとの父の話に、触れることさえ出来ず、夜中ベッドの中から床に置いた箱の中で苦しげに上下する毛皮の背中を見つめ、祈り続けるしか一三子に出来ることはなかった。
トロトロと寝ては、何度も目覚め、そのたびに箱から覗く背中の動きが止っているのではないかと目を凝らした。
翌朝、ミュウは全く身動きをせず、それでも息だけは続けていた。
一三子は学校に行かねばならなかった。今日だけは学校を休んでついていると泣きじゃくる一三子を母は激しく叱りつけ、朝一番で獣医に連れて行くと約束して追い出した。
一三子が夕方駆け帰った時にミュウの姿はなかった。
注射を打ってもらったミュウは元気になり、連れて帰って休ませていて、目を離した隙に窓からどこかへ行ってしまったと、母は言った。
とうてい信じられる話ではなく、何度も本当のことを話すよう問い詰めた一三子は、とうとう母から怒鳴り付けられ、部屋に追い返された。
部屋の中で空になった寝箱を前に一三子は一人嗚咽した。
それ以来ミュウの話は一三子の家では禁句になり、やがて一三子の記憶からも薄れてゆくことになった。
物音を立てないよう気を使った孤独な夕食をそくさくと済ませ、一三子は美夕の眠る部屋に戻ってきた。
最初に耳を澄まし、寝息があることに安堵した。
美夕の枕元に近づいた一三子は、そっと掌を美夕の口元にかざす。
幽かだが規則的な吐息が掌に感じられる。
が、その息は人間のものではなかった。温かさが感じられない。
そこに眠る少女が明かに人間ではない証拠を掌に感じ、一三子はしばしその場に立ち尽くした。
思えば美夕の肌に触れたのは、先ほどの手当てをしたときが初めてだった。あの時の冷たい体温は雨に濡れ、身体が冷えていただけではなかったのだ。
手を戻し、改めて美夕の寝顔を思案げに見つめた後、一三子は部屋のベッドとは反対側に置かれた机へと向かった。
明日の依頼の仕事のために調べ物をしなければならなかった。それにここからなら寝ている美夕にいつでも目をやることが出来る。
机の脇の資料棚から巫蠱に関する中世の本を取り出し読み始め、いつか一三子は作業に没頭していった。
調べ物が一段落し、気が付くともう１時近くになっていた。
美夕の手当てで身体を動かしたときの汗ばみが、暖房が利いていたこともあり、肌のべたつきとして残り不快でもあった。
シャワーでさっぱりして、ベッドは美夕に占領されているので、隣部屋に布団を敷いて早く寝たかった。
出来れば、美夕の様子が気になるのでこの部屋で夜を過ごしてやりたかったが、スペース的に無理・・・そこまで考えて、一三子は美夕をあの病気の仔猫に重ねて見ていたことに苦笑した。
口元に笑いを残したまま一三子は美夕のベッドへと椅子に座ったまま振り返った。
その笑いが凍り付いた。
美夕が目を開いて自分を見つめている。
一三子が立ち上がるのと、美夕が笑顔を見せるのは同時だった。
「一三子さん、私を手当てしてくれたのね」
弱々しいけれど嬉しげに美夕は語りかけた。
「放っとけないでしょ。いくらおまえでも」
緊張を解いてつっけどんに応ずる一三子。
「それよりどうしたの？その傷」
こればかりは、心配そうな口調で問う。
「神魔に・・・」
美夕はゆっくりと身を起こす。顔が厳しい表情に変化した。
頭からタオルが滑り落ち、長い髪がパサリと肩に流れ落ちる。
「私、ラヴァを助けにいかなきゃ」
「待ちなさい、そんな身体で。今は休みなさい」
ベッドの上に座り直し、思いつめた表情の美夕に、思わず一三子は強く命じた。
「へえ〜」ふいにいたずらっぽい目で一三子を見上げる美夕。「心配してくれてるんだ」
「バカッ」ムキになった方が負けだということは分かっていたが、それでもこう言ってしまう。「それより、体力落ちているんでしょう？何か食べる？ミルクならあっためてあげるけど」
「ありがとう、いただく」嬉しそうに答えた美夕の表情の変化に一三子はあやうく笑みを浮かべそうになり、それを気どられぬようキッチンに続くドアへとすばやく向きを変えた。
レンジに向かい小鍋を手に取り、てきぱきとミルクを暖める用意をし、美夕に背を向けたまま一三子は問いかけた。
「どんな神魔なの？今度の相手って」
一瞬の間の後、向こうの部屋から美夕の声が戻ってきた。
「羅喉・・・恐ろしい相手。それより一三子さん」
「なあに？」
「わたしミルクより血が欲しいな」
ハッと振り返った一三子の目に、開け放されたままのドアの向こう、ベッドの上に一三子のパジャマをダブダブに着てペタンと座り込んだ美夕の姿が見えた。
が、その両の瞳は金色に輝いている。その輝きに美夕の背景がスッと色を失い闇に沈んだ。
この瞬間、一三子は自分の身体の自由が奪われたことを知った。
こわばった指から小鍋が落ち、床の上でけたたましい音を立てる。
一三子は美夕がベッドの上から滑り降り、口元に薄ら笑いを浮かべながらキッチンへのドアを抜け、パジャマの裾を引きずりながら自分の方へと向かってくるのをなす術もなく見つめるしか出来なかった。
最初レンジに凭れていた一三子の身体は、自分の重さを支え切れず、ゆっくりと床へとずり落ちていった。
美夕が自分の前で立ち止ったとき、一三子はレンジに背を預けて、床の上に腰を落とした姿勢で美夕を見上げることになった。
上から薄く口を開いて自分を見下ろす美夕。この光景に見覚えがあることを一三子は思い出した。
幼い日、鎌倉の山中で今と同じ表情で自分を見下ろす恐ろしい少女。
あのあと起こったことを、今では明瞭に想い出すことが出来る。
小さな自分の身の上にのし掛かるようにかがみ込んできた少女。
抵抗出来ない力で押さえ付けられ、何が起こるか分からず怯え切っていた自分の喉に押しつけられた湿った唇。柔らかいのに冷たい、その異様な感触。
かすかな痛みが首に走り、痺れたようになり、その上を何度も這い回る舌の淫蕩な感触。肌から直接に伝わってくる少女の喉の重い脈動。少女の鼻腔から漏れる生々しい息継ぎのあえぎの背景に風のざわめきだけが無情に響き、一三子は決して誰も自分を助ける者がいないことを幼いながら意識していた。
やがて永遠に続くかと思われた拷問から開放し、唇を離した少女は、その上気した頬にゾッとするような微笑みを浮かべていた。
それらの想い出が全て、どこにこれまでしまってあったのかと思えるほど細部まで明瞭によみがえった。
「あの時の一三子さん、とても小さくて可愛かった」
美夕が一三子の心を読んだかのように、ささやいた。「血も熱くて、とても甘いの」
ス、と美夕は一三子と同じ目の高さまでしゃがみ込み、両肩に手を置いた。
「熱いの。一三子さんって」
そのまま美夕は手を一三子の肩から滑らしながら背中に回し、身体ごと抱きついてくる。その顔を一三子の胸の谷間に押しつける。
「暖か〜い」甘い声を上げながら、美夕は一三子の豊かな両の乳房に頬擦りをし、ついで谷間に強く顔を押しつけたままクスクス笑い始めた。
その身の震えを、ブラウス越しに伝わってくる異様な冷たい体温を、直接に肌で受けながら一三子は指一本動かすことが出来なかった。
フと美夕の笑いと身体の震えが止まり静かに顔を離し、少女は一三子の顔を上目使いで見上げた。
「わたしの身体、見たでしょ。一三子さん」冷ややかな響きがあった。「一三子さんの身体も見せてもらうわ」
一三子は悲鳴を上げた。しかし喉も口も動かず、声は発する前にかき消された。
美夕は顔を上気させ、一三子のブラウスのボタンを外していった。その手がわななくように震えている。
ブラウスを毟り取られながら、一三子は場違いにもまだシャワーを浴びていないことを恥じた。
ブラジャーが胸から外されるとき、一三子は目を閉じ美夕が生唾を飲んで一瞬手を止めるのを肌で感じた。
上半身があらわにされた後、美夕が震える深い息をつきながら自分を見つめているのを感じ、一三子は目を開いた。
「きれい、一三子さん」目を開いた一三子に美夕は口を開いた。
唇が乾くのか、小さな舌が唇を舐める。唾を飲み込む音が、一三子の耳にまで響いた。
「こんな素敵な女の人になって」
美夕は今度はそっと身体を寄せてきて背中に腕を回す。剥き出しの一三子の胸に腹に頬擦りし、唇を押しつける。
柔らかいのに屍体の冷たさの唇が、肌を濡らしながら這い回るたび、鳥肌がたつ。
一三子は身をよじってのがれようとする。が、身体の自由は奪われ、わずかに切れ切れの吐息が口から漏れるだけだった。
やがて美夕は一三子の湿った温かい腋の下に冷たい鼻面を押しつけてきた。そのまま、スウーと深く息を吸う。
「一三子さんって、匂い、濃いね」
何度かの深呼吸の後、美夕は顔を上げ、いたずらっぽくささやいた。
一三子は自分の顔が見る間にカアーと紅潮して行くのが分かった。
その一三子の反応を明かに楽しみながら、美夕は言葉を続ける。
「大人だからかなぁ」
再び腋の下に顔を押しつけ深く息を吸う。
「だけど、一三子さんの匂い、好きよ」
ゆっくりと美夕は身体をずり上げてくる。
冷たい吐息が喉を撫でる。
「好きよ。若くて、きれいで。生き生きしていて・・・とっても素敵な女の人」
耳元でささやく、美夕の声。その中にゾッとするような冷たさが混じる。
美夕の口が喉に近づき、冷たい唇が押しつけられる。
一三子は再び目をつむった。喉がゴクリと鳴る。
開いたまま押しつけられた唇の中で冷たい舌が喉を這い回り、荒い鼻息が喉をくすぐった。が、予期した痛みはない。
湿った音を立てて美夕の唇が離れる。
ひんやりした両手がほてった一三子の両頬を包み、一三子は目を開いた。
目の前に美夕の笑いを含んだ顔がある。
「本当に一三子さんの血を吸うと思ったの？」
思わず一三子は美夕を睨み付けた。そうしようとはした。
「恐い顔しちゃって」首をかしげてクスッと笑い、それでも目は真っ直ぐ一三子の目を覗き込んでいた。「顔、真っ赤よ。一三子さんって可愛い」
頬を包む美夕の両手が、また震え始めた。その目が大きく見開かれた。
「ねっ、一三子さんっ、いい事しよっ」
はっと思う間もなく、目を半分閉じた美夕が顔を一三子の顔に寄せてきた。
あらがうことすらかなわず、一三子の唇は美夕の唇でふさがれる。
むさぼるように美夕は一三子の舌を吸った。自分の舌を絡めてはしゃぶった。溢れる一三子の唾液を喉を鳴らして飲み込んだ。
唇をずらし、顔の角度を変えながら、美夕は一三子の唇を味わい続けた。
ストレートの美夕のロングヘアーが一三子の肩に冷たく流れる。
眉を寄せながら一三子はこれに耐えた。ほてった頬を美夕の冷たい鼻先が撫でる。
耐えながら、頬を包む美夕の掌がそう冷たいだけではないのに気が付いた。表面の冷たさの奥からかすかなぬくみが伝わってくる。
絡み付く舌にも生暖かさがあった。頬を撫でる深く荒い吐息にも暖かさが感じられることに気が付いた。
ようやく美夕が、唇を離した。
パジャマの胸が大きく上下している。紅潮した頬に、目が異様に輝いている。
もはや物も言わず、やはり荒い吐息をつく一三子を見つめる。
ついと身をかがめると、傷を負っていない右腕を一三子の身体の下に回し、どこにそんな力があったのか一三子を抱えて立ち上がった。
そのまま隣室に抱え込まれ、一三子はベッドの上に横たわらされた。
掛け布団と毛布はずり下げられ、むき出しの背中にシーツが冷たい。
スカートのホックが外され、ジッパーが鳴る音に、一三子はふいに嗚咽を始めた。
涙が止めどもなく溢れてきた。が、それを手でぬぐうことすら許されなかった。
流れた涙は頬を伝い、耳から滴り落ちてシーツを濡らした。
ぼやけた視界の中で、スカートを外した後、ショーツに手を掛けた美夕の手が止り、そんな自分の様子を伺っている姿が見える。
そのショーツが引き下ろされる時、一三子の喉からひときわ高く「うーっ」と声が絞り出された。
張り切った太股の伸びる広がった腰の窪みの、逞しい恥毛の密生した茂みと、その中央の成熟した亀裂があわらになる。
一三子の足元にしゃがんだ美夕が自分の身体を見つめている視線を痛いほど感じる。
美夕の深い呼吸の音が、一三子の熱した耳に突き刺さる。
やがて、美夕が静かに身体の上に被さってきた。
美夕の口が一三子の目に重なり、鋭い音を立てて涙がすすられる。
はっきりした視野に美夕の困ったようなほほえみがあった。
「一三子さん、いい子ね。泣かないで。・・・とってもきれいよ。一三子さんのからだ」甘い声深々とでささやくと、言葉を切り、頬擦りし、髪に顔を埋め、そのかおりを吸った。
「一三子さんってすてきな大人の身体。スラッと伸びてて、ふっくらしてて」
美夕は身を起こした。ちょうど一三子の腹の上に馬乗りになった姿勢だった。
そのまま美夕は自分のパジャマのボタンを外し始めた。
華奢な細い肩に大きなガーゼがテープで止められている。真白なガーゼの中ほどに、もうどす黒く変色した血のにじみがあった。
上着を脱ぎ落とした美夕は腰を浮かせて、パジャマのズボンも脱いだ。
むき出しの肌を重ね、馬乗りのまま美夕は一三子を見下ろした。
一三子の嗚咽はいつか低くなっていた。
「見て、一三子さん。私のからだ。・・・私ね、初潮もまだだったのよ」
恥じらいを見せたその言葉に、改めて一三子は美夕の身体を見つめ直した。
乳房や性器の未成熟に加え、尖った肩、華奢な身体、平たい腹、豊かさには程遠い腿。それらは、少年じみたものすら感じさせた。
その一三子の気持が表情に出たのであろうか、突然美夕は襲いかかるようにまだ嗚咽の消えやらぬ一三子の身体に覆い被さってきた。
その表情が残忍なものに一変していた。
「だから、一三子さん。一三子さんのからだ、ちょうだい」
あざ笑いながら、美夕の右手が荒々しく一三子の股間に伸びた。
絞りだすような息を吐き出し、身を縮めようとする一三子。が、そんなことはこの幼い獣には何の役にも立たない。美夕の指の腹は難無く一三子の亀裂に埋まった。そこでビクッと怯えたように止り、そろそろと溝の中を撫でる。粘液が泡立つ音に、一三子の頭の中に赤い霧が立ちこめる。乳房が堅く盛り上がって来るのを意識する。
「どうしたの、一三子さん。もうヌルヌルよ」からかうような美夕のささやき声だった。
「それに・・・」言葉を切って美夕は乳房の上に口を落とした。乳首が美夕の口中で舌で転がされる。
一三子は歯を食いしばった。いや、まともならそうなるところだった。しかし、意思の力で動かせる身体の自由は奪われていた。ただ、力なく半開きの口から獣じみた荒い息が喉の奥から押し出される。
亀裂の溝を指の腹で撫でていた美夕は、その一三子の声を契機にしたように、中指を曲げながら絞まった肉襞の奥へとずぶずぶと沈め始めた。
再び一三子の両眼から涙が溢れ出た。今度は確かに細い悲鳴が絞り出され、一三子の体内に潜り込んだ美夕の指は、きつく締めつけられた。
ためらうように美夕の動きが止り、乳房からその口が離れた。乳首がピンと立ち、幽かな湯気を上げる。
「一三子さんって、処女なの？」かすかに、気遣うような響きがあった。
美夕は一三子の堅く盛り上がった乳房、紅潮した頬、涙だらけの歪んだ顔を見つめているようだった。その荒い呼吸に耳を澄ませているようだった。
「ふう〜ん」突然、美夕の口調が冷ややかなものに代わった。
肉襞に飲み込まれた美夕の中指が急に内部をこね回すような動きを始める。親指は亀裂に溢れる粘液の中、小さく勃起した核をぬめぬめといたぶる。
左の掌は堅くこわ張った乳房を揉みしだき始める。
美夕は残忍なほほえみを顔に貼り付かせ、乾いた唇を小さな舌で舐めて潤しながら、あえぐ一三子の顔をのぞき込む。
やがて静かに顔を落とし、切れ切れの息を吐く一三子の口にその唇を押し当てる。
下唇を両唇で吸い上げてその柔らかさを味わう。吸ったまま持ち上げプルンと離す。
美夕はさらに瞼、耳へと移り、唇と舌とで一三子の肌を味わう。
首筋に唇が移ったころ、乳房を楽しんでいた左手も加わり、一三子の身体を大きく動かし、のけ反らして全身への愛撫へと美夕の動きも移っていった。
喉、鎖骨、腋窩、肩甲骨、手の指、乳房、背中、脇腹、臍・・・美夕の指と唇と舌の愛撫の触れないところはどこもなかった。
形の良い臍に舌を這わせ、その腹の痙攣を楽しんだ後、美夕は顔を上げ、それまで一三子の内側を弄んでいたすでに中指と人差指の２本になっていた指を抜き取った。
広がっていた穴がゆっくりと縮んでゆく。
美夕は真紅に充血した肉襞と、露出した豆状の核、その周りに密生する黒々とした恥毛とを怯えたように凝視する。
一三子の体内から抜き取ったばかりの指に目を移す。
２本の指はねらねらと粘液に覆われて蛍光燈の光を映し、中指と人差指を開くとその間に透き通った糸の橋を作る。美夕は眉を寄せその指を口元に近付け匂いをかぐ。
意を決したように美夕は小さく舌を出し、その指を舐める。
そのまま更に口に含む。
口から指を離すと、美夕は両手で一三子の膝を大きく開きながら、その間に身を移した。
両手で一三子の腿を押さえたまま、美夕は一三子の肉襞へとゆっくりと顔を落とした。
一三子の下腹部を、広がった美夕のロングヘアが冷たく流れて覆う。
一三子がはっと大きく息を飲む音が、湿った部屋に生々しく響く。
もつれ合い、荒い息を吐き、時に粘っこいあえぎを洩らすベッドの上の２つの白い身体を蛍光燈の光が静かに照らしていた。
一三子は何度も悲鳴を上げた。が、その悲鳴は一度も実際の声になることはなかった。
室内にこもる湿気に黒い闇を映した窓ガラスの表面は結露し、やがて雫を結んでは外側の雨の筋と呼応するように、内側に筋を光らせた。
どれほどの時間が経ったことだろう。
窓ガラスの内側のサッシの桟に、すでにいくつかの水たまりが出来ていた。
美夕は今は静かに一三子の胸に頭を横たえていた。右腕は一三子の背に回され、左手の掌はいとおしげに一三子の右の乳房を愛撫していた。その愛撫に乳房はされるがままに柔らかく応じていた。
一三子の両足は大きく広げられ、その間に美夕の腰が押しつけられている。
亀裂と亀裂とがその突起同士を頬擦りしあうように押しつけられ、美夕は腰全体を小刻みに動かしていた。切れ切れの息が短く美夕の唇から漏れている。
やがて肉襞を接し合ったまま美夕は半身を起こした。
美夕の腿よりひと周りは太い一三子の逞しい腿が、より深い接合を妨げていた。
美夕は腰を浮かし、左足を持ち上げて一三子の右腿の上を越え、ついで一三子の左膝を持ち上げて立て、その下に自分の右膝を割り込ませ、再び腰を落とした。
湿った音を立てて二人の肉襞同士が斜めに向き合って密着した。
美夕は一三子の腰の上に両手を付き、再び腰を前後にゆすり始めた。
最初ぎこちなかったその動きも、やがて時に深く時に浅く陰核同士が嬲り合うリズミカルなものになっていった。
ピチャピチャと淫蕩な粘液音がはっきりと響き始める。
腰の揺れに、美夕の小振りな両の乳房も小刻みに揺れる。
美夕の目は焦点が合っていないようにボ〜ッとしている。
一三子の身体の自由は既に束縛されていなかった。
呼吸も落ち着き、今や自分の腰の上に馬乗りになり、快楽をむさぼる美夕の姿をじっと見つめていた。
身体を動かそうとすれば、もういつでも動かせた。が、一三子は美夕のされるがままに任せていた。
美夕の腰を動かすピッチが早くなってきた。眉を寄せ、口は空を仰いで半開きになり、吐息もハッ、ハッと規則的になってきた。
やがて、「クウ〜ぅ」と高く細い声を上げると同時に前後運動が止り、肉襞を強く一三子のそれに押しつけ、おとがいを高く空へ向けると、全身が硬直した。
その腰の奥で激しい痙攣が起こったのを一三子は肌を通じて感じ取った。
とろりと生暖かいものが一三子の亀裂に広がる。
ゆっくりと美夕の上半身が一三子の上に崩れ落ちてくる。
一三子に身体をあずけ美夕は一三子の首元で荒い息を吐いて動かなくなった。
ぬくみのある身体だった。早い心臓の鼓動が身体を通して伝わってくる。
やがて、息が次第に落ち着いたものに変わってくる。ゆっくりと美夕の身体も冷え始めていった。
閉じられていた美夕の瞼が開いた。長い睫の奥から金色の瞳が、それまで自分を見つめ続けていた一三子の目を見上げた。
無表情に美夕は一三子の視線をその目で受け続けた。
美夕の身体はもう元の屍体の体温に戻っていた。
目を見つめ合ったまま、ゆっくりと美夕は身体を起こした。
ベッドから降りて初めて顔をそらした。
「一三子さん、動けるんでしょ」静かな声だった。
一三子も身を起こし、毛布を身に巻いた。
「動けるのに何で、何にもしなかったの。ずっとそんな目で私を見続けて！」
激しく振り返り叫ぶ美夕。一三子はもうベッドから降り、変わらぬ表情で美夕を見つめ続けていた。
「何よ、一三子さんも最初はあんなに感じていたじゃない！」
むきになった口調でさらに美夕が言いつのった瞬間、一三子の平手が激しく美夕の頬を打った。
「出ておいき！」激しい叫びだった。「今すぐ、ここから出ていって！」
長身の一三子の手加減のない張り手は小柄な美夕には相当の打撃だったはずだ。美夕は頬を押さえうつ向いていた。
そんな美夕には構わず、一三子は手荒くハンガーに掛かった美夕の着物を外した。荒い動きにロープに掛けたハンガーのいくつかがはじけて落ちた。
「さあ、これを着てさっさと私の部屋から出ていって！」
手にまとめた生乾きの着物と帯とを全裸で立ち尽くす美夕に叩きつける。着物の塊は、動かない美夕にぶつかりそのまま床の上に落ちた。
「一三子さん、わたし」声が震えている。
「さっさとしたら、このマセガキ」一三子は美夕に近づき、荒々しく両肩を掴んだ。
美夕の顔が苦痛に歪む。
「この傷だって」一三子は美夕の左肩のガーゼをつまむと一気にむしり取った。
思ったとおりだった。夕刻にはあれほどの凄まじい口を開いていた傷が、周りを薬で黄色く染めた肌の中央に既に薄皮が張り、肉が盛り上がり、テラテラ光る薄紅色の瘢痕に変わっていた。
美夕は一三子の右手からぶら下がるガーゼを見つめていた。白いガーゼの中央に滲んだ血は既にアズキ色に乾いて変色していた。
「一三子さんが、手当てしてくれたのに」つぶやくと、美夕は腰をかがめ着物を拾い上げ、うつ向いたままゆっくりと身に付け始めた。
「知ってたんだ。吸血姫の怪我がすぐ治るって事」
着衣の間に、いつか美夕の口調は元に戻り始めていた。
「ええ、おかげさまでね」腕を組み、監視するように美夕の動きを見つめる一三子。
まだ乾きが遅く、湿り気の残る帯を最後に締めると、美夕はゆっくりと顔を上げた。
「一三子さん、それじゃいくわ。手当てしてくれてありがとう・・・ごめんね」
甘やかな声だった。一三子も堅い表情を僅かに崩した。
「怪我さえしてなけりゃ殺していたのに。こんなマセガキだったなんてね」
「一三子さんに」言葉を切り、一三子から目を反らし自分に言うようにつぶやいた。リボンを巻いてないロングヘアーにさえぎられ、その表情は見えない。「抱いてもらいたかったの。熱い身体で・・・だから拘束も途中で・・・」
「抱いてあげるわ」唇の端を歪めて一三子は美夕に言葉を投げつけた。「おまえが死んだら、笑いながらおまえの身体を抱きしめてあげる」
最初の言葉に一三子へと丸い目を向けた美夕は、続いた言葉に目を落とした。落としながら口元から含み笑いがこぼれ始めた。
笑いながら美夕は向きを変え、窓のサッシに手を触れた。
音もなく開く窓ガラス。
窓ガラスには外の夜の町が黒々と映っていた。しかし、開いた窓からは紅い大気に満ち、ねじくれた異形の樹々の立ち並ぶ光景が覗いていた。
樹々の間に漂う白い靄が、薄く一三子の部屋の中にまで流れ込んできた。
その光景に一三子は硬直した。
窓を背に美夕が一三子へと向き直る。
含み笑いは冷ややかなほほえみに変わり、金色の目がそんな一三子を射る。
「私はラヴァを助けに行かなくちゃいけないの」有無を言わせぬ口調だった。
「この町には沢山の若い血が眠っているわ」窓に向かって、後ろ向きに美夕はにじり上がっていった。
一三子は美夕の言葉に、ハッと独鈷杵を収めた棚に手を延ばした。
首をかしげて一三子の動作を追った美夕は、独鈷杵をかまえた一三子にクスッと笑いかけた。
「変わらないのね、一三子さん。若くてきれいで熱くって。全然変わってないのね」
やるせない表情で、美夕はとうとう笑いだす。
「もうあれから十年以上経っているのにね」
その言葉にはじかれたように一三子は駆け寄り、思いきり独鈷杵を美夕の胸に降り下ろした。が、一瞬早く美夕は窓の桟を蹴り、後ろ向きに外の紅い森へと跳んだ。
独鈷杵は空振りし、勢い余って一三子の左腕を擦った。
一三子の目に靄の漂う紅い森の奥へと高い笑い声を残しながら消えてゆく美夕の姿が映った。
しかしその光景は周辺から夜の闇が滲んできて薄れてゆき、ついには全くの夜の町が窓から見えるだけになった。
一三子はそのままで立ち尽くし、幽かな少女の笑い声を求めて耳を澄ませた。
しかし聞こえてくるのは雨の音ばかりだった。
傷付いた左腕からは血が滴っている。
この傷も、あと１時間程でふさがり、朝には跡さえ残らないであろう。
今夜これからこの町のそこここで、飢えた少女による血の惨劇が繰り広げられるであろう事は、一三子には分かっていた。が、どうすることも出来なかった。
一三子は窓枠に崩れ落ち、嗚咽し始めた。
開けはなった窓からの風が、嗚咽する一三子の髪をなぶり、ハンガーに１本忘れられた赤いリボンを揺らし続けていた。
了
夜の仔猫・二 黄昏の森
第一章・発端
冬の夕陽は新宿シティーのビル群のかなたへと落ちてゆき、そそり立つビル群はオレンジ色に燃える空をバックに黒々としたシルエットを浮かべる。
ビルの谷間から垂直の線を見せて輝くオレンジの空は、溶けた金属の輝きをもって、瀬 一三子の目を焼く。
二十一世紀に代わっても、子供の頃、雑誌で見たスマートな超未来都市の姿はそこにはなく、新宿シティーは前世紀末からの延長のゴミゴミした活力が猥雑に渦巻く多民族都市だった。
一三子の小さな事務所は、街の北部のいかがわしい界隈の小ビル群の二階、元は喫茶店だったという、この地域には不釣り合いなほど落ち着いた雰囲気の内装の一室だった。
西に面した広いガラス窓から差し込む夕陽は、窓辺にたたずみ、下の歩道を眺める一三子と室内とをオレンジ色に染め上げていた。
シンプルなシャツと長目のスカートに身を包んだ長身の一三子の動かぬ姿は、オレンジと黒のコントラストに彩られた部屋の中で、彫像のように見える。
この活力ある街の夕方、窓から見える歩道に溢れる人々の群れは一三子に、確かに自分はこの街で生きているとの実感を与えてくれる。
既に事務所を閉める時間だった。
一三子はここで、占い、除霊、それに行方不明者捜しのなりわいを一人で営んでいた。
新世紀になったと言っても、高度にシステム化された社会の中、闇を怖れ、霊魂の世界に救いを求める人々の絶えることはない。
このビル一帯は似たような怪しげな商売を営む者たちの巣窟であったが、公式の通信ネットワークにも載っていない、ここでのアンダーグラウンドな口頭での情報網の中でも、一三子の評判は別格のものとして高く、また畏怖されてもいる。
いつの頃から一三子がこの街にいたのか知るものはいない。
人間の移動の激しいこの一帯、それを知るよしもない。
古くからこの街に住むものの中には一三子のこの街での経歴の長さと、その若々しい外観との差に奇異の念を持つ者もいたが、彼らも彼女が人工的な体組織活性法を施しているものだと、みずからを納得させていた。
紅いマニュキュアも鮮やかな指で髪をなで付け、鏡の中の自分の姿に帰宅前の最後のチェックを終えた満足の笑みを浮かべたときに、来客を告げる穏やかな電子音が鳴った。
一三子は舌打ちした鏡の中の自分に苦笑を浮かべ、向き直るとドアへと向かう。
地味な色のスーツを着こなした中年の男は、名前を言えば誰でも知っている、とある大企業の総務部長だった。
噂を聞き付け、最後に辿り着いた一三子の部屋で、経歴から想像していたより遥かに若い一三子の姿に、最初男はとまだったようだったが、ガラスのテーブルを前にした椅子に導かれてからの要所を突いた一三子のてきぱきとした応対に、新たに信頼感をいだいたようだった。
やがて男は要件を語り始めた。
人捜しの依頼だった。
その種の依頼自体はよくある事柄で、月のうち３つ４つはあり、固定的な収入源でもある。
ただ、状況の説明の中で、妙に引っ掛かるものがあった。
状況は以下のようなものだった。
失踪したのは、この会社の経営者・浅野の息子の槙雄。
幼い頃からエリートコースを進み、２年前入社したばかりで、将来的にはトップ層に加わることが期待されていた若者であった。
１年前、子供の頃から大人しく学究的なタイプだった槙雄が、変わり始めたのが、最初の兆候だった。
身嗜みにも構わず地味なファッションだった彼が、派手な嗜好になり、またそれまでのどちらかと言えば沈んだ物静かな振る舞いも、明るく陽気なものになっていった。
そして一ケ月前、突然失踪した。
最初は生き生きとした槙雄の変貌に喜んでいた家族も、やがて何日も家に戻らない外泊が目立ってくると不安が湧き始めたと言う。
最初に疑われたドラッグは、社内の健康診断の際に隠蔽した検査の結果、検出されず、女性の存在も、確かに槙雄の積極的な態度への変化と、その将来的な地位とで取り巻きが増えたとはいえ、興信所の調査の結果、決定的な相手がいることは否定された。
ただ、ときどき鎌倉に出かけてゆくのが行動上での目立った兆候だった。
「鎌倉、ですか」
その土地の名が出たとき、思わず一三子は問い返した。
「そうです。鎌倉といっても市街地ではなく、山の中です」
総務部長は、突然の鋭い語調に、とまどった様子を見せる。
ー 美夕 ー
一三子の脳裏に、あの吸血姫の少女の面影が浮かぶ。
しかし、これは明かに美夕の仕業ではない。
総務部長の話での興信所の報告によると、槙雄は鎌倉の山中の屋敷を訪れ、いつも小一時間ほどで戻って来ると言う。
その屋敷は二百坪ほどの大きさの新興宗教の道場で、瞑想と自己開放をうたっている「暁の真理」と称する団体の本部だった。
最後に男は茶封筒から二枚の写真を取り出した。
一枚は秀才を絵に描いたような、髪を七三にキチンと分けた落ち着いた物腰の青年の姿だった。
入社した頃の写真だと言う。
父の跡を継ぐべつ、子供の頃から勉学に空け暮れていたという話がもっともと思えるような、官僚の目をした若者だった。
正直言って一三子が最も苦手とするタイプの青年である。
地方での霊がらみの事件で、当局と掛け合いをする度に、必ずと言ってよいほど一三子に対して強硬な態度を見せる中堅幹部の典型の男の顔だった。
しかし、もう一枚の、失踪直前に撮ったという姿は。
一三子は眉をひそめた。
髪形や体形には変化はなく、服装も派手とは言っても上質のもので、乱れていると言うほどではない。
しかし、その表情は冷たさを覚えさせるほどの二年前の姿と較べ、別人のような快活さに満ちていた。ふてぶてしさとも言えた。
だが、それだけではない。
何とも言えない「いやらしさ」が、人間性の深いところでの「崩れ」と形容したくなる変貌が、その表情から匂ってくる。
一三子は仕事がら、人間の普段は表には出ないダークサイドの面を夥しく体験している。
たとえ霊とは無関係であったケースの場合でも、一歩依頼人達の世界に踏み込むと、ドロドロの、時には家族でさえ知らなかったようなきたならしい姿が吹き出てくる。
そういった場合の、「いやな感じ」がこの顔には濃密に漂っている。
この事件は根が深い。
一三子は直感した。
恐らく、全貌が明らかになれば、スキャンダルを怖れた会社は高額な報酬を支払うのではないか。そんな皮算用もあった。
一三子は依頼を正式に引受た。
依頼人が帰ってから、一三子は帰宅を延ばし、窓と対抗する壁に備えた、インテリジェンス端末を目覚めさせた。
世界中のたいていの情報は、この画面で調べることが出来る。
さっそく、公的な通信ネットワークで、依頼人の会社、その周辺情報、および宗教団体「暁の真理」に関する情報を調べ、更にこの街のアンダーグラウンド世界で手に入れた、「マジック・キー」で警察、病院、調査会社の非公開ファイルにアクセスし、より詳細なデータを求め始める。
「マジック・キー」は内閣調査局レベルの情報閲覧力を持ち、かつ一三子の持つ闇バージョンは、それ自体が人工知能にリンクして成長し、侵入されたネットにいかなる侵入の痕跡も残さないという、危険極まりない代物だった。
作業は深夜に及び、一三子は画面に向かい次々と現われる裏付け情報をきっかけに、さらに新たな探索の根を、膨大なネットワークの中に拡げて行く作業に没頭した。
ふいに一三子の指が凍り付いた。
画面のガラス表面に部屋の反対側の窓枠が薄く写り込んでいる。
その窓枠の向こうから人間の顔がずっと自分の背中を見ている。
すばやく、一三子は振り返った。
窓からは、新宿シティーの濃紫の夜空と、その底で輝き溢れる歓楽街のイルミネーションが見えるばかりだった。
一三子は窓に駆け寄りすばやく開き、身体を乗り出して上下左右を見回したが、ビルの壁にも空中にも怪しい者の姿は見当たらない。
下の道路をゆく通行人の何名かが、物音に気付いてか、二階の窓から身を乗り出した一三子の姿を見上げているだけだった。
一三子はディスプレイ画面上にかすかに写った人間のシルエットを反芻した。
あのシルエットは、
ー 美夕？ ー
第二章・鎌倉
横須賀線は冬の午後の弱い陽射しの中、鎌倉へと向かっていた。
アイボリーのハイネックの上に焦茶色のＶネックのセーターを重ね、ウールのグレーのスカートに、ふくらはぎまでのソフトブーツに身を包んだ一三子が、座席から流れゆく窓外の風景に目を向けていた。
襟元に小さな銀のハートのネックレスが、ちかちか輝く。
一三子は今回の失踪事件に関わるこれまでの記録を思い出していた。
失踪と言っても色々の原因がある。
たいていは現世的な金、異性、責任問題からの逃避、あるいは何らかの刑事事件に巻き込まれたものがほとんどだった。
しかし、膨大な失踪者リストの中には、全く原因のつかめないものもある。
インテリジェンス端末を駆使した調べが進むうちに、似たような姿の消し方をした人間の記録が一三子の目に留まり始めた。
例外なく、それまで影の薄い人間だったのに或る日から突然に活力に満ち、陽気に振る舞うようになる。
明朗で自信に満ちた振る舞いの変化に周囲が目を見張る。そして或る日、忽然と姿を消し、二度と現われない。
性別は男女を問わず、年齢は十代から壮年までにバラついていた。記録は二十世紀の中頃から始まり、現在まで失踪者は既に千人を越えていた。
これほどの人間が姿を消しているのに、失踪事件自体がこれまで巧妙に隠され、別の事件の記録の中にカモフラージュされていた。
一三子の霊媒師の勘では、まるで意図的に誰かが結界を張ったかのような手ごたえを覚えた。
もつれていた糸を丹念に解きほぐすような根気強い解析の結果、その裏にここ鎌倉に本拠を置く新興宗教「暁の真理」の影がちらつくのが、最近分かったばかりだった。
とりあえず、「暁の真理」を自分の目で確認しておきたかった。
今のところ「暁の真理」以外に、浅野槙雄の失踪に関わる目立った要因は見当たらない。
教団側は彼が教徒であったことは認めても、失踪には関連がない事を証言している。
むろん、会社側としても自力で調査をしたものの、看板どおりの瞑想を主体とした、はやりの自己改造セミナーに毛の生えたもの以上のものには見えなかった。
インテリジェンス端末から読み込んだ、公開・非公開ファイルからも、平凡な新興宗教団体以外の特徴は読み取れない。
「暁の真理」は二十世紀の中頃、創始者で現・教主である黒木竜男が鎌倉山中を散策中霊感に打たれ、最初は彼が属していた自然愛好家の団体内で始めたセミナーを母体としていた。
その学識と人柄の魅力で、少しずつ信者の輪を拡げ、現在に至っていた。
教義はとりたてて難解なものではない。
人間は自然の中の一部であり、なんら特別の生物ではない。
心の悩みも迷いも、身体の不調も、全て本来の生物としての人間をないがしろにしたところから来る。
人間としてあるべき姿を考えるには、まず大きな自然の中での生物としての自分の本来の姿を再確認することから始まる。
人間は自然の中で一人だけで生きているのではない。植物や動物や菌類に至るまでの全ての生物の存在と自分の存在を交流させ、彼らの一員として、より大きな存在へと溶け込んだ境地から、改めて自分はどうあるべきか、本来のあるべき自分の姿を取り戻すことが出きる。
そこでは、歪んだこれまでの生き方に起因する心の悩みも身体の不調も消え去る。
いかにも、自然愛好家出身らしい教義であった。
宗教らしいところと言えば、教主を囲んでの瞑想の場で全ての生物達と魂の共有体験を味わう、という事ぐらいであろうか。
いかにそれまでの自分が小さな存在であったか、この瞑想体験で実感し、それは法悦の域にまで達した・・・との入信者、それも浅野槙雄自身の熱っぽいレポートも、一三子は「マジックキー」で端末から読んでいた。
おそらく、催眠術かあるいはある程度の精神感応を使っているのかも知れない。
同業者とは言わないまでも、近い職業の自分としては、ついそんなネタ探りをしてしまう。
フと、美夕を教祖に祭り上げたら、あの精神誘導力、さぞや弱い心の信者をかき集められるのではないか？
そんな事まで思い付いた自分に、一三子は苦笑した。
ー 美夕 ー
あの日、事務所の窓に現われたのは美夕だったのだろうか。
今となっては、自分の記憶に自信がない。
美夕を忘れることのできない自分が、ふと見てしまった幻視だったのかも知れない。
そして、美夕にこだわる自分がどうしても引っ掛かる事があった。
教主・黒木が鎌倉山中で霊感を得た時期というのは、どうやら美夕が吸血姫の血に目覚めた頃らしかったのだ。
その時期はまた、謎の失踪事件が始まった頃でもあった。
横須賀線はメガロポリスの活気の沸き立つ東京を後にし、何度か住宅地帯を抜け、やがて横浜に差しかかる。
電車左手の湾岸部には東京とは又違った優美な高層ビル群がゆとりをもって並び、西洋的な都会の景観を形作っていた。
鎌倉の調査の帰りは横浜に寄ってショッピングと食事をしてゆこうと一三子は思った。
孤独なショッピングと孤独な食事になる事にすぐ思い至り、一瞬はしゃいだ気持が暗くなる。
かって成人後も時折会っては共に楽しいときを過ごした、学生時代の友人達とは既に疎遠になっていた。もはや、外見上の年齢の差は隠すべくもない。
ゆっくりと、しかし確実に一三子は刻に置きざりにされていた。
大船に近づく頃になると、窓の外に緑が目立ち始める。
住宅地の開発が進んでいるとは行っても、このへんはまだ未開発な土地が散在している。
更に大船を過ぎ、北鎌倉に差しかかる頃には、窓外の景観は一三子が子供の頃と全く変わらない姿を見せ始めた。
眩暈するような感覚だった。
すさまじい勢いで変貌し続ける都市部に比べ、鎌倉そして京都といった古都は、かって自分を迎えてくれた姿のまま、いつ行っても待ってくれている。
鎌倉駅から街に下り立つ。
残雪が目立つ。都心部とは気温そのものが違うのだ。
一つ一つの店や家屋には変化があるものの全体的な空気は変わることなく、冬の鎌倉は一三子を迎えた。
駅前からバスに乗り、「暁の真理」の道場のあるＫ街道沿いのＳ観音へ向かう。
バスはすぐ市内を抜け、低い山々の間を縫うように進んでゆく。
目的地に近づくにつれ、窓の外に現われる竹林や木々の連なる景観に気が重くなる。
Ｓ観音で降りる。
道路の左右を雪に覆われた山に挟まれた、市内の喧騒が嘘のような田舎のたたずまいを見せる。
一三子は道路右側のＮ川に架かる橋を越え、前に伸びる道を山中へと進んでいった。
楽しい記憶の残る土地ではなかった。はるか昔、幼女の自分が美夕に血を犯された場所、美夕の実家のある場所はここから遠くはない。気の重さはここから来ていた。
街道からだいぶ離れた山中に旧家のたたずまいの道場があった。
面会の予約は入れてあったが、ちょうどこの時間は教祖の講義中との受付の話で、講堂の後ろで拝聴しながら待つことにする。
実際の目的地についたことで、一三子は重い気持を振り払おうとするが、気は晴れず、それどころか酒に酔いかけたかのように、視界に現実感がない。
木造の講堂に裸足となって上がる。
教祖とそれを取り囲む三人の高弟達が説教壇の上から、講堂に正座して居並ぶ信徒達に教義を語っていた。
教祖・黒木は写真で見たとおりの、かなりの年配だが、禿げ上がった頭に活力に満ちた顔が生き生きと輝いていた。
彼らの柔和な顔は穏やかさに溢れ、聴き入る信徒達一人一人に目を移し、優しげな、あるいは力強い言葉を語りかけていた。
が、入ってきた一三子の存在に気づいた瞬間、彼らの目が見開かれた。
一瞬後には彼らの表情は元の穏やかな表情に戻り、説教を続けた。
居並ぶ大勢の信徒達には、ただ言葉が途切れただけにしか思えず、また何も変化は見えなかったはずだ。
が、一三子の目には一瞥の瞬間、彼らの立ち並ぶ姿がゆらぎ、まるで溶け合ったかのように見えた。
思わず目を見開いて、気を取り戻し見直すと、別にごく普通の説教の光景が拡がっているだけだった。
説教は滞りなく終わり、信徒達は解散していった。
小さな和室に通され、予定どおり黒木との面会が始まる。
許可を得て偽造した浅野の会社の総務部に所属の名刺で、一三子は自己紹介する。
「浅野槙雄の失踪の調査の参考におうかがいしたいのですが、こちらでは浅野はどのような信者だったのでしょうか」
一三子は胃の腑のあたりに淀む不快感を押さえながら、にこやかに尋ねる。
「さあ、警察のかたにもお話しいたしましたが、なぜ浅野さんが失踪なされたのか、私どもの方でもさっぱりと見当がつかないので、心配していたのですが」
正座して対面した間近で見る黒木は、逞しい活力を内に秘めた骨太な老人だった。鋭い眼光が穏やかに一三子を直視する。
落ち着いた応対だった。何か隠していると言った様子は見当たらない。
「いえ、失踪そのものは私どもでも警察にお任せしているのです。そうではなくて、こちらに入門してから見違えるように明朗になったのは、どのような修業をしていたのかと、そこの内容的な面を伺いたいのです」
事前調査の裏取りが目的の取材だった。一三子はこまごまとここでの浅野槙雄の修業ぶりや、教義について尋ねた。
柔和な黒木の応対からは、不審な点は見当たらず、それどころか本気で浅野槙雄の失踪に心を痛めているさまが伝わってきた。
話術も巧みであり、すでに知っている教義も熱っぽく黒木の口から語られると、一三子でさえ相槌を打ちたくなる。
どんな悩みを抱えていたのか知らないが、世間知らずのインテリの浅野槙雄など、いっぺんで入信したのではなかろうかと、推測された。
その間も一三子の不快感は高まり、はっきりと吐き気にまで変化していた。
聞きたいことは全て尋ね終わると、一三子は礼を述べ、足早に辞すことにした。
黒木教祖とは部屋で穏やかに別れたものの、そこから山門までに擦れ違い、あるいは見送る他の教徒達の視線は鋭かった。
おそらく、失踪した浅野槙雄の事を調べに来た外部のものとの話が伝わり、過敏になっているのだろう。
道場を出た一三子は、山門の奥の暗がりからの粘り着くような視線をその背に感じていた。
足は重く、不快感どころか、体力・気力までひどく弱っている。
道場が視界から見えない道まで戻ったとき、脂汗を流して堪えていた一三子は、ついに道端にしゃがみこんで嘔吐した。
誰も行き交うものもいない雪の山道で、もどすたびに冷気がゾクリと膚を抉る。
それでも、腹の中のよどみが消えるに応じて不快感が遠退く。
ハアハアと荒い息をついて、しゃがんだままようやく落ち着き、ハンカチを取り出す余裕が出来る。
「苦しい？一三子さん」
そっと肩に手がおかれ、静かな声が掛かる。
「美夕！」
振り返るや否や、一三子は弾かれたように立ち上がる。
この寒さの中、美夕が裸足であの白い薄手の衣に紅の帯を締め、心配そうに一三子を見つめて立っていた。
「大丈夫？もどしたあとで急に立ち上がったりして」
ふらつく一三子に、美夕はからかうよう微笑む。
「いやらしい子ね。私はおまえと違ってものを食べなくちゃいけないの。気分が悪ければゲロだって吐くわよ。だいたい、いつからそこにいたの」
ハンケチで口を急いでぬぐいながら、一三子は吐瀉物を隠すように、その前に立つ。
「ずっとよ。それより一三子さん。なぜ、そんなに気分が悪くなったか分かる？」
微笑は消え、美夕は真っ直ぐに一三子を見つめる。
「それは・・・」
ありきたりの反論を口にしようとして、意味ありげな美夕の口調に引っ掛かる。
「何を知っているの？答えて、美夕。浅野槙雄の事件に関わりがあるというの？」
勢い込んで、詰問する。
美夕の口元が再びほほえむ。
「素敵よ、そういう一三子さん・・・それはね」
突然、美夕は鋭い視線を一三子の背後に飛ばし、スッと伸ばした右手の上に火球を作る。
「ふんっ！」
口中で鋭く気合いを入れ、火球を一三子の後ろの薮へと打ち込む。
「ばおっ！」
火球を飲み込んだ薮から粘っこい呻きとも吠え声ともつかぬ声が上がり、激しく草をかき分けて逃げ出す「もの」がいた。逃げ道は薮の中に真っ直ぐにあの道場の方角に向かっている。
「逃げたわ」チッと舌打ちする美夕。
「何なの。今の？」
展開が分からず、一三子はあの「もの」が逃げた方角と美夕とを見比べる。
「あれ？一三子さんが捜している人・・・って言うより、人だったもの、かな」
皮肉っぽい目で美夕は一三子に視線を戻す。
「何ですって！」
「いらっしゃい、一三子さん。なぜあんなに気分が悪くなったか教えてあげる」
詰め寄る一三子には答えず、美夕は先に立って雪の積もる山道を道場へ向かって歩き始める。
一三子は逆らうすべもなく、美夕のあとについてもと来た道を戻る。
体力が失せ、足が重くふらつく。
ふと、昔の記憶が蘇る。
竹薮と木々に覆われた冬の雪道を美夕の後について歩く自分。
あれは京都での常寂光寺への道を鎧の怪物のもとへと美夕と共に行った時だったか。
結局は美夕にいいように利用されたのだが。
「ここよ、ごらんなさい。さっきまで一三子さんはあの中にいたのよ」
立ち止った美夕の声に我に返り、その指し示す方角を見る。
そこにあったはずの道場の山門はなかった。
そのかわり道場のあった二百坪の敷地一杯に、よじれた木々や草が絡み合い溶け合って大地に横たわる巨大な篭を作っていた。
全体的にはその篭は先ほどまで見えていた道場のシルエットに近かった。
篭の道路側に面した前方に大きな黒い口が開き、それが山門の位置であることに一三子は思い当たった。
気が付くと、植物群の異変はその篭を中心としてその周辺部にも広く及んでいた。
一三子と美夕の立つ道路の周辺の植物群にも、奇怪な形に縮れ、鮮やかな色に変色しているものがあった。
冬なのに青々とした葉を拡げ、その葉脈が血管のように真紅な草もあった。
「何なの、あれ！神魔？」
その余りに異様な景観と、この土地全域に漂うおぞましい心理的圧力に堪えかね、一三子は後づさった。
「今度は見えるんだね。そう、あれは神魔の巣。さっき一三子さんが見えなかったのは奴が張り巡らせた精神的結界のため」
さっきとは別人の厳しい目を巨大な篭の方へ向けたまま、美夕は一三子に語りかける。
「だけど、一三子さんの意識下の霊力までは騙せなかった。それが、吐き気の原因」
風はなかった。しかし、篭全体に大きなうねりが走った。
同時に周辺の変形した植物群もゆらゆらと蠢き始めた。
雪の大地に亀裂が走り、美夕達の方へと向かってきた。
「いけない！逃げよう。一三子さん」
美夕の腕が一三子の腰を抱き、軽々と後ろに跳躍する。
「奴は一三子さんも狙っている」
周囲に紅い大気が拡がり、一三子は自分が美夕の黄昏色の世界に引き込まれるのが分かった。
先程の景色がトンネルの向こうへと遠ざかるようにすぼまって消える直前、地面に走る亀裂から赤い蚯蚓の塊のようなものが湧き出して来るのが見え、捩れ合った植物の篭の口を押し開いて灰色の巨大な蛆虫状の蠢く塊の頭部が現われた。その頭が牙のある口を百合の花のように四つに開いた時、視界がさえぎられた。
美夕は一三子を、ねじくれた異形の樹々の立ち並ぶ黄昏の森の大地に下ろした。
あいかわらず、華奢な身体からは想像もつかない強靱な腕力だった。
「あぶなかったね」
一本の樹の枝に腰を下ろし、美夕は一三子に語りかける。
「あいつは何なの？浅野槙雄はどうなったの？」
だるさが急激に増し、立っているのもやっとであったが、気丈に一三子は美夕を見上げて質問を浴びせた。
「あいつらは一三子さんが普通の人間じゃないって気が付いたみたい。それに、一三子さんってきれいだもの。だからあいつらは一三子さんを同化しようとして、あそこの中で気力と体力を吸収していたの」
美夕は枝から軽々と飛び降り、一三子の正面にたたずむ。
「立っているのが、やっとの筈よ。もうお休みなさい、一三子さん。あなたにぴったりのおしゃれな旅館に部屋を用意してあるの。一三子さんはまだここの人間じゃないから、この森には長くはいられないの」
美夕の右手が静かに持ち上がり、一三子の眼前で漂うような動きを見せる。
同時に、紅い大気が薄れ始める。
「お待ち」
一三子が思わず伸ばした腕から逃げるように、ほほえみを浮かべた美夕の姿は消えていった。
気が付くと、一三子は鎌倉市内の瀟洒なホテルの前に立っていた。
まどろんでいるのか、目覚めているのか、あいまいな知覚だった。
夕方のオレンジ色に染まった白い外壁のそのホテルは女性専用として名の知れたＬで、レストランの地中海料理が有名なことが、これだけは明瞭な意識に脈絡もなく浮かんだ。
ドアを開けフロントへと進み、自分の名前で予約が入っているのを確認し、チェックインする自分をはっきりと意識しながら、その感覚が自分のものではない非現実さを覚える。
部屋に入り、用意された寝巻に機械的に着替えベッドに潜り込むと、先程まで自分をとらえていたあいまいな知覚が去り、静かで暖かい洋室に一人で横たわっている実感が襲ってくる。
同時に、逃れがたい睡魔が一三子を微動もせぬ深い眠りへと引きずり込んだ。
第三章・悪夢
夢の中にいるという意識はあった。
一三子は中学生の頃に飼っていた白い仔猫ミュウに再会していた。
ミュウは箱の中にいた。
昨日の夕方発病したミュウを一三子は一晩中見守り続け、今日、朝一番で母が病院に連れていくという約束だった。
しかし、今時間が迫り、一三子はミュウを残して登校しなければならなかった。
一晩を経たミュウは呼吸も浅く、かってフワフワだった毛皮もつやを失い、口や尻の周りが汚れ、不潔なかたまりに変貌していた。すでに腐敗を予感させる甘ったるい匂いさえ漂わせていた。
今日は学校を休んでついていたいとの希望は拒まれ、離れる間際、一三子は箱の中で丸くなっているミュウの背をそっと撫でた。
ベットリとした手触りが、一三子を不吉な予感に震えさせた。
その時、それまで啼き声さえあげなかったミュウが目を開き、一三子と直接に目を合わせた。訴えるような弱々しい金色の瞳だった。
そのまま口を開き、顎の先が震えた。
啼いて一三子を呼んでいるつもりらしい。
声は聞こえない。
喉の奥から唾が粘って泡のはじける音がかすかに聞こえた。
一三子はせかされて、箱から離されていった。
その箱の輪郭は燐光を放ちながら闇の中に遠ざかってゆき、金色の瞳だけが一三子をいつまでも追い続けていた。
闇の中に浮かんだ金色の瞳が美夕の瞳に変貌した。
冷たいほほえみを浮かべた美夕の顔が触れそうに自分を見下ろしている。
それだけではなかった。
純白の敷き布団の上に、一三子は全裸で横たわっていた。その身体をやはり一糸まとわぬ美夕が抱擁し、さきほどから愛撫を続けていた。
見回さなくても周りの様子は分かった。
大きな和室に敷かれた布団に一三子は寝かされている。
元は立派な屋敷であった今は見捨てられた廃屋だった。
埃の積もった床の、枕に近いところに鳥篭が置いてあるのが見える。鳥篭の床には細長い棒の破片を盛り上げたようなものがやはり埃に覆われている。小鳥の死骸であることが分かった。
床の上、壁、天井を樹木の根のようなものが這い、からみついている。
黴臭い匂いが鼻を刺激する。よどんだ冷気が肌を刺す。
そんな荒廃のただ中で美夕の抱擁はとろけるほどの快楽をもたらし、一三子は自ら進んで美夕に身体を開きその手を受け入れている。
一三子は愛撫を続ける美夕の背に腕を回し、抱き寄せ、その唇に接吻した。
なめらかな肌、暖かい身体、暖かい唇だった。この冷気の底、美夕の肌のぬくみをむさぼるように、一三子は華奢な少女の身体を抱きしめ、その舌をしゃぶった。
美夕の金色の瞳が悪戯っぽく一三子を見つめ、身体をずり上げ、白い喉元を一三子の口元に近付ける。その喉を一三子は大きく口を開いてくわえこむ。
歯は細い牙と化し、自分でもどうやったか分からないながら、やすやすと美夕の喉に沈み、血管を貫き、一三子の口腔内は少女の血で満たされる。
喉を鳴らしてその血を飲み続ける一三子の頭を、美夕の両腕がやさしく抱きかかえ、髪を撫でる。
夢の中のその情景を目撃するもう一人の自分が身の震えるような嫌悪感に襲われ、現実に眠る自分の身体が金縛りにあっていることを、一三子は同時に意識していた。
美夕との痴態に酔う自分が味わっている淫蕩な官能も、悲鳴を上げ続ける嫌悪感もすべて同じ一三子のものだった。
心臓の鼓動のような低い響きがこの部屋を満たしていた。
血を飲み続ける一三子を美夕は静かに押し戻し、シーツの上に押さえ付ける。
壁や天井に絡み付き覆っていた樹木の根が膨れ上がり、部屋の鼓動に合わせて脈動していた。その節ごとに葡萄の房状に膨れ上がった結節のいくつかが破れ、黒い血が滴り落ち始める。すぐにその流れは水道の蛇口の水のような流れとなって、天井の至る所から何十本もの血のロープとなって、床へと降り注ぐ。
そのロープの間を、いつ篭から出たのか白骨の小鳥が狂ったように飛び回っている。
血はシーツを赤黒く染め、一三子の上に馬乗りになった美夕の身体にも降り注ぐ。
髪を濡らした血は、更に額を伝って美夕の目ににじみ、そこから赤い涙となって頬を伝い落ちる。
美夕は笑いながら両手を碗にして天井からの血を一杯に受け、溜まった血を一三子の口へとあてがい、流し込む。
一三子は雛鳥のようにその血を飲み尽くし、さらに美夕の血まみれの掌を舐める。
美夕はゆっくりと身を後退させ、両手で一三子の膝を大きく押し開き、両肘で開いた膝を抱え、その間に中腰になってかまえる。
残忍な笑いが美夕の顔を歪める。
部屋を満たす鼓動の音は、今や耳を聾せんばかりに響き続ける。
赤黒いスポンジのように血膨れた敷布団は生暖かい巨大な臓物と化し、一三子の身体を飲み込み始める。
美夕の股間からは成人の腕ほどの大きさの男根が反り返り、樹木の根のような血管が絡み付き脈動している。
そのアズキ色にテラテラと光る握りこぶし大の先端部を、期待にうち震える一三子の陰裂にあてがう。
一三子は両腕を延ばして美夕の腰に手を回し、みずから誘う。
美夕の腰に力がこもり、めりめりと先端が没入し始める。
一三子は獣のように跳ね起きた。
さっきまでの太鼓のような鼓動の音が嘘のように、部屋は静寂に包まれている。
ただ自分の心臓だけが破れんばかりに激しく鼓動し続けている。
寝巻の下の身体が、汗まみれな事に気づく。その全身がおぞましい記憶に震え続けている。
閉めたカーテンの隙間から冬の日の夜明けが近いことを示す、あわい薄明に下が染まり始めた空が見える。
そこは寝る前と少しも変わらぬホテルの一室だった。
いや。
ベッドの枕元に窓からのかすかな明かりが人間の影を浮かび出しているのに気づき、一三子は息を飲み、毛布を抱きかかえるように身を堅くした。
「一三子さん。大丈夫？」
その影が動き、気遣うような甘やかな少女の声がかかる。
「美夕？おまえ美夕ね！」
影はホッとしたような溜息をついた。
「よかった・・・一三子さんの悲鳴が外まで聞こえたの。私、間に合ったみたい」
腕を延ばし、影はルームランプをつける。
和服風の白い服に赤い帯を前で締めた美夕の姿が、その光りの中に浮かび上がる。
「悲鳴？」
意外な美夕の言葉に、一三子は問直す。いくらホテルの壁が防音だとしても、この静かな時間だ。一三子は急に俗っぽい心配に襲われる。
「声じゃないの。心の悲鳴」
美夕は首をかしげてほほえんだ。ついで眉を寄せ懐中からハンカチを取り出し、腰をかがめてそのハンカチを一三子の額に当てる。
「すごい汗。よっぽどひどい夢を見させられたのね」
美夕はやさしげに一三子の額の汗をぬぐい始める。
ハンカチから甘やかな少女の香りがふわりと漂い、一三子の鼻腔をくすぐる。
「ありがとう、美夕。もういい」
喉の汗をぬぐい始めた美夕の手を、掌で押さえて止め、一三子は礼を言う。
掌の下の美夕の手の、ひんやりとした体温に一三子は安堵を覚えた。
「もう起きてシャワーをあびるから、いい」
ベッドから身を起こし、スリッパを突っかける。
「それより美夕。今の言葉、どう言う意味？夢を見させられたって」
バスルームに向かう途中、立ち止り一三子は尋ねた。
「あいつらの攻撃よ。シャワーの後で話すわ」
妙に物静かで落ち着いた美夕の物腰に気圧されるように、一三子は胸騒ぎはそのままにバスルームに入った。
熱いシャワーは汗と共に、今となってはバカバカしいほどの脈絡もないあの悪夢への恐怖感を流してくれる。
明晰になった意識で、一三子は昨日からのことを反芻した。
やはり、神魔がからんでいた。それも怪獣のように巨大な。
あきらかに美夕はその神魔を知っていた。
「あいつら」
そう美夕は奴を呼んでいた。
「あれ？一三子さんが捜している人・・・って言うより、人だったもの、かな」
そうも言っていた。
浅野槙雄の事を言っているのだろうか。ではあの時、茂みから聞こえた獣じみた声は？
全ては美夕がつかんでいる。
一三子はシャワーのコックを締め、濡れた肌を拭きあげると、手早くバスタオルを身に巻き付けた。
バスルームのドアの開く音に、ルームチェアに腰を下ろし、テーブル上の一三子の装身具を弄んでいた美夕は振り向いた。
「一三子さん、きのうは夕食とらなかったね。ここの魚料理は旨味しいのに」
「ふ〜ん、食べたことあるの？おまえ。それより私のネックレスで遊ばないで」
一三子は美夕の手から小さなハートのネックレスを取り上げる。
「シルバーね、それ。魔除け？」
「おまえに効果がなくて残念だけどね」
ふと気が付いて美夕の耳に手を延ばす。
「おまえこそ、中学生の筈なのにピアスなんかして、この不良」
美夕の顔がふと曇る。
「これは、お母さんの。別れる前にもらったたった一つの形見・・・」
一三子は口をつぐみ、顔をそむける。
泊まる予定などなかったので着替えなどないが、前日寝る前にルーム内のクリーン・サービス・シューに入れておいた下着は、きれいに洗濯されて戻ってきていた。
バスタオルを外して美夕の前に裸身を曝すことには抵抗があったが、そんな場合ではない。
背中を向けて着替える自分に美夕が視線を注いでいるのを意識する。
シャワーでは念入りに洗い流したものの、起きたときに股間が自らの分泌した粘液でべとついていたことが、美夕に気付かれたかも知れない。
はるか昔、自宅に泊めた傷付いた美夕に狂ったように凌辱された、いまわしい記憶が蘇る。
あの時、美夕は肩を引き裂かれて息も絶え絶えだった。美夕をそんな目に合わせる神魔がいたなんて。何て名前だっただろうか。確か美夕が口にしたはずだったが。
セーターとスカートまで着たところで、ようやく一三子は美夕へと向き直った。
美夕は穏やかなほほえみを浮かべて、一三子の視線を受けとめる。
「きれい、一三子さん」
「おかげさまでね」
バックからヘアブラシを出しながら、皮肉のつもりで答えた。
「あいつらが欲しがるのも、無理ないね」
同じ口調のまま発せられた言葉に、鏡の前で髪を梳き始めた一三子の手が凍り付く。
「あいつらって何？神魔は一匹じゃないの？」
「神魔は一匹だけ。だけど下僕達が囲んでいる」
「どんな神魔なの、今度の奴」
「羅喉・・・恐ろしい相手」
ー 羅喉 ー
その名前を確かに一三子は以前、美夕の口から聞いていた。
「そいつが、私も狙っていると言うの？」
「うん。それが終わったら一緒に来て。見せたいものがあるの」
「どこに？」
「このホテルの屋上」
上に向かう二人は途中で誰にも出会う事がなかった。
屋上へのドアの鍵は美夕の手の一振りで開く。
暖房の効いた屋内から一歩出ると、冷気が皮膚の露出部を刺す。
ホテルの屋上は純白の雪で覆われていた。
昨晩、一三子が寝ている間にまた降り積もったらしい。
「あそこよ、一三子さん」
美夕の指差した先は、ちょうど一三子の部屋の真上に位置していた。
雪が乱れ、その中央に何かがうずくまっている。
近づく前から、その形の異常さが一三子に不快感を呼び起こす。
怖れる気配もなく、美夕ははだしでそれに近づく。
「大丈夫よ、もう倒したから」
それはうつ伏せに、横たわっている。
全裸の人間、に近い形の何かだった。というより人間の残骸と言うべきだろうか。
ボディービルのような逞しい筋肉が盛り上がった全身が腫瘍と結節に覆われ、膿み爛れ、何かの業病の果てのごとく荒廃していた。爪は鉤のように鋭く伸び真黒だった。
それだけではない。あちこちの結節が裂け、そこから蚯蚓のような触手が束になって生えていた。更に溶けかけた全身を樹木の根のようなものが這い、からみついている。
それの回りにはドロリとした褐色の体液が拡がり、何とも言えない生臭い匂いが漂う。
うつ伏せの横顔に、一三子は見覚えのある輪郭を見た。
不快感を押さえながら、近くにころがっていた物干し竿を身体の下に突き入れ、それを仰向けにひっくり返した。
やはり、それは浅野槙雄の成れの果てだった。
更にその顔をよく見直して、一三子は息を飲んだ。
目が蜻蛉のような複眼になっていた。崩れた口から鼠のような歯が覗いていた。
あわてて目をそらした先の腹部を見て、一三子は悲鳴を上げそうになった。
化け物の股間からは成人の腕ほどの大きさの男根が反り返り、樹木の根のような黒い血管が絡み付きいている。
悪夢の最後に一三子が見たものだった。
「こいつは、きのうあの巣で一三子さんを見て、ずっとついてきたの。一三子さんを欲しかったみたい。そして、夢を飛ばして、夢の中で一三子さんを犯そうとしていたの」
かたわらの美夕の言葉に一三子は身震いした。
「間に合ってよかった。夢の中で犯されて快楽に自分を見失って、一三子さんもこいつらの一部になるところだった」
一三子は震える肩を自分でかきいだいた。
「助けて、くれたの？」
ようやく、言葉が形をなした。
「うん。そんなのやだもん」
穏やかに美夕は一三子にほほえむと、口をキッと結び、右手を開いて浅野槙雄だったものに向けた。
掌に包まれるように生まれた丸い炎は、見る見る膨らんで三十センチ程に達すると手を離れ、化物の死骸へと漂うように流れる。ぶつかるやいなや、炎は死骸を被い尽くし、収縮して消えると、もはやそこには常軌を逸したものの痕跡すら残らなかった。
美夕の手が、震えを押さえるようにそっと一三子の肩に置かれる。
「一三子さん、これからどうするの。依頼された人捜しの相手はもう消えちゃったよ」
美夕のからかうような口調に、振り向いた一三子はきつい視線で応ずる。
「見届けるわ、最後まで。 美夕！あの神魔のことを話しなさい」
美夕の口元がほころび、小粒の歯がこぼれる。
「さすがは一三子さん、素敵よ。何でも教えてあげる。でもね、条件があるの」
言葉を切って後ろで手を組み、顔を突き出して、いたずらっぽい表情で一三子の顔を覗き込む。
「何なの」
美夕のペースにはまっていく自分が腹立たしい。
「今日一日、私とデートして欲しいの」
ホテルの部屋に戻って、一三子は出発の準備をしていた。
あっけにとられるような美夕の望みだった。
何を考えているのか、さっぱり分からない。
現実にここから数キロと離れていないところで、あんな怪獣のような神魔がいるというのに、まるで子供のような事を言い出したその真意が分からなかった。
小さな肩掛けバッグ一つだけの身だった。すぐに部屋を空けると一階のレストランへと向かう。
バイキングで、昨夜の夕食を抜いた空腹の分を埋めるべく、大目の朝食をとる。
さすがに名の通ったホテルだけあって、パンやバターも香ばしく、ベーコンも具合よくカリッと揚がり、サラダにかけたドレッシングまで吟味されており、ここが女性達のあこがれの話題となっている事も、うなづけられる。
名物の地中海料理の夕食を食べられなかったのは残念だったが、それは次の機会に譲ることにする。
来ようと思えば、いつだって来ることの出来る所であった。
ふと一三子は、もはや人間の生き血にしか味覚をおぼえず、こう言った食事を楽しめない美夕に憐れみを覚えた。
その美夕がこのホテルを選んでくれた・・・
一瞬後には、美夕に対してそんな気持をいだいた自分が腹立たしくなった。
その為に、自分ならもっと安い旅館を選んだのに、思わぬ出費になってしまった。
浅野槙雄の会社から依頼金を受け取るのはもはや絶望的だった。
証拠の写真すら撮るチャンスがなかった。
第四章・散策
フロントでチェックアウトしようとすると、意外にも一三子の会計は別人の振り込みになっていた。
振込人の名前を確認すると「黄昏美夕」とあった。
ホテルから出たところで、美夕が待ち受けていた。
「美夕、おまえ」
一三子は言葉を飲み込んだ。
美夕はアイボリーのハイネックの上にＶネックのセーターを重ね、ウールのグレーのスカートに、ふくらはぎまでのソフトブーツに身を包んで、嬉しそうに笑いかけた。
セーターの色は燃えるような赤で、そこだけが一三子のファッションと異なっている。
「素敵でしょう。並んで歩くとまるで姉妹みたいって、みんな思うね」
セーターの色の照り返しだけではなく、明らかに美夕は頬を赤らめていた。
「何のつもり」
押し殺した声だった。
「だからデートって言ったでしょ。今日一日付き合って呉れなけりゃ、羅喉の事も教えてあげない。それより、朝御飯おいしかった？」
従うしかなかった。仏頂面で一三子は答える。
「おかげさまでね。生血しか飲めないおまえが可愛そうな程ね」
言葉に含まれた棘を美夕は軽く受け流す。
「味は分かるんだ。何の身体の足しにもならないんだけど」
美夕は一三子を従えて、雪で人通りの少ない鎌倉の街を小町通り、若宮大路と気ままに散策した。
一三子もやがて、かたくなな態度を解いた。
だてに経験を重ねてはいない。この相手には感情的な反発は何の役にも立たない。
実際、いろいろの店や見どころでの美夕の話はたいそう面白く、また時に見せる子供じみたはしゃぎぶりもほほえましかった。
それが美夕の老獪さなのか、地を見せているのか、意識には昇ったが、もはやそれも気にならない。
年下の女友達と付き合う自分を演じるつもりが、何のこだわりもなく美夕と会話をやり取りしているのに気が付く。
もう正午になろうとする頃、若宮大路のアクセサリー店の通りに面したウィンドウの向こうに、一三子がしているのと似た銀のネックレスを見付けた美夕は、買って欲しいと一三子にねだった。
「欲しいの？」
「うん」
高価なものではなかった。
が、自分のと似たネックレスをつけて、この後も一緒に歩き回る美夕の姿が脳裏に浮かぶ。
「じゃあね、私のをあげる。それでいいでしょ」
「え？」
丸い目を見開いて、美夕は長身の一三子の顔を見上げる。
「いらないならいいわよ」
そっけなく一三子は応ずる。
「ううん、ちょうだい。一三子さんの」
子供じみたはにかみと喜びの表情を浮かべた美夕に、両腕を後ろに回してジョイントを外しながら、さらにそっけなく一三子は応ずる。
「じゅあ、後ろ向いて。つけてあげるから」
「うん」
何のためらいもなく美夕は背中を見せ、長くたらした赤いリボンを巻いたお下げを左手で支え、無防備な細いうなじを一三子にさらす。
一三子はハイネックの後ろでネックレスのジョイントを嵌めてやり、つ、と両指を美夕の頚のまわりにからめる。
冬の若宮大路に人通りは少ない。
美夕の頚は一三子の両手で締めてまだ余りが出るほど細い。
美夕はじっと同じ姿でたたずんでいる。ゴクリと、両手の中で喉が動く。
二秒、三秒、そっと一三子は美夕の頚から手を離す。
ゆっくりと美夕は振り返る。一三子は静かに美夕を見おろす。
探り合う二人の視線がしばし絡み合う。
美夕がほほえむ。
「ありがとう、一三子さん。すてきなネックレス」
「気に入った？」
「うん。あのね、そのかわり私もあげるわ。私が死んだらこのピアス、一三子さんにあげるわ」
指で自分の耳朶を軽くつまんで、美夕はささやく。
「すてきね。約束よ」
美夕と同じく、一三子もささやき声となっている。
互いに瞳を真っ直ぐに見つめ合う。
「だから、一三子さんもこの前の約束、忘れないでね」
「この前の約束？」
不審げに一三子の眉が歪む。
クスッと美夕は顔を崩し、明るく一三子をうながす。
「さっ、お昼にしよっ。昨日の晩御飯の替わりにうんとおいしいものおごるよ」
老舗の鰻屋Ａで、うな重を食べながら一三子は釈然としなかった。
正面には美夕が座り、一三子の食べるさまを嬉しそうに眺めている。
当然というか、目の前の自分の分にはほとんど箸を付けていない。
「美夕、ちょっと聞くけど。ホテルのこと」
「あら、お金のことなら心配しなくていいのよ。私が選んだところだし、実家にはたくさんお金があるから」
「そんな事、言ってるんじゃないの」
キモ吸いを一口飲んで喉を潤す。
「予約が入った時間、きのうの午前中じゃない。どういう事？」
ニヤリと笑いが美夕の頬に浮かぶ。
「さすがね、一三子さん。プロだわ」
「私がきのうの午後に鎌倉に来ることも、羅喉の巣で力を抜かれて、鎌倉に留まらなければならないことも、全部分かっていたわけね」
美夕は机に頬杖を付き、うなづいた。
「じゃ、私がすることもその前から知ってたのね。もしかしたら、今度の調査が始まったときから私を見ていたんじゃないの。おまえは私の自宅も事務所も知ってるんでしょ」
美夕の前には自分にはプライバシーはない。それが分かっても不思議に怒りはない。
美夕は瞳を輝かせて、一三子の追及に応じた。
「本当言うとね、浅野槙雄の調査依頼も私が手を回したの。放っとけば今度もやつらが手を回して情報をカモフラージュするところだった」
「やっぱりね。そうじゃないかと思ってたけど・・・そろそろ全部話して呉れてもいいんじゃない？」
頬杖をはずし、美夕はコクっとうなずく。
「もう、御飯いい？場所を変えましょ」
一三子がうなづくと、美夕は伝票をもって先に立ち上がった。
鶴岡八幡宮は人の少ない今の時期、広々とした空間が佗びしい。
夏には一面に青々とした蓮の葉におおわれる源氏池も、今は黒ずんだ水面のそこここから実の落ちた花托がシャワーヘッドのように突き出していた。
幼稚園前の池のほとりの椅子に並んで座って、二人は源氏池の中央の旗上弁材天社の方を眺めていた。
社の回りを囲む、シーズンにはこれも流れるような葉で被われる柳も、今は樹の幹から細い枝が突き出している姿を曝していた。
「おしゃれな喫茶店があってね」
美夕が語り始めた。
「一三子さんと一緒にチーズケーキ食べたかったなあ」
チラと美夕へ目をやったきり、一三子は口を挟まなかった。
「もうだめね。みんな話さなくちゃ」
風こそ吹いてなかったが、冬の池のほとりは寒く、一三子の息は白かった。
が、語り始めた美夕の口から漏れる息には何の色も付いていない。
「あれは羅喉。私が狩るべき最後の一匹の神魔」
驚き、身体ごと振り向いた一三子の視線を頬に受けながら、美夕は話を続ける。
「羅喉は・・・」
羅喉は闇の世界でも最下等の存在だった。
自分一人だけでは生きて行くことも出来ず、眠り続ける強大な神魔の身体に寄生してわずかな生気をすする、卑しい出来損ないだった。
吸血姫の代がわりの時、美夕が逃れた際の闇の裂け目から現世へと這い出た羅喉は、この鎌倉の地の生物を自分の身体へと吸収し同化していった。
土中の細菌、カビ類、植物、蚯蚓や昆虫類と同化を続け、鎌倉の山に生息する蛇、鼠といった小動物から、猫、犬までもときおり襲うようになった。
それはあくまでもゆっくりと進行した動きで、羅喉は地中で細々と成長していった。
その動きが変わったのは、最初の人間の犠牲者・黒木竜男を同化した時からだった。
羅喉には知性がない。ただ生き続ける事しか知らない白痴の神魔だった。
その能力だけは強大だった。しかし使うべく知性を欠いたそれはまだ眠っているに等しかった。
同化した生物の餓えを満たしてやることで、羅喉は生物達の泡立つ命の奔流をみずからのものとして吸収した。
初めて同化した人間の餓えは、それまでの生物とは異なっていた。
人間の餓えは欲望だった。
心の表に現われている欲望も、裏に秘すべく欲望も全て餓えとして羅喉は叶え始めた。
「羅喉の能力って？」
「そう、何でも出来る、ってことかな」
「何でも？」
「言葉通りの意味よ、何でも・・・」
そして美夕が羅喉の存在に気付いたとき、それは途方も無い存在と化していた。
夥しい人間の成れの果てと雑多な生物群のよじり合わさった、それ自体一種の共同社会とも言える、生き物のかたまりだった。
自らの欲望を叶えるためにも次々と人間をたくみに引きづり込み、その新たに同化した人間の欲望がさらに加わり、羅喉の餓えはさらに肥大していった。
人間を同化するときには邪魔な自我を失わせる必要があった。
恐怖、宗教的法悦、それと性の快楽が主な手段として使われた。
「浅野槙雄の場合は？」
「もっと沢山の人間を集めるために、経済の中心になる企業の人間として選ばれたのよ。そのうち何食わない顔をして、元の浅野槙雄として社会に戻るつもりだったはず」
「あいつらは下僕？身体はどうなっているの？」
「言ったでしょ、何でも出来るって。もともと持っていた自分の欲望の下僕で、同時に羅喉の下僕。羅喉と一体に溶け合ってその身を守り、分離して全く元通りの人間の姿にもなれるし、取り込んだ別の生物の部分や機能を好き放題に増殖できるの。きたならしい混ぜもの」
口調に含まれる激しい嫌悪感に、一三子は思い付きを口にした。
「相手が望むままの夢をかなえさせる、いつわりの生命、か。それって、誰かに似てない？」
美夕は沈黙した。横顔を見ると、唇が固く引き締められている。
「嘘だらけの夢を人に上げることで、その命の上澄みをあさる、本当はひ弱なバケモノじゃない。一人だけじゃ、生きてゆくことも出来ないくせに」
表情を固くした美夕に一三子はさらに語りかける。
「どうしたの、こう言うときはラヴァを呼んで甘えて、忘れたふりをするんじゃなかったの？」
ゆっくりと美夕は振り返り、こわばった顔で一三子を見つめる。
一三子は頬に強気の薄笑いを浮かべて美夕を見返す。
「一三子さん」
予期しなかったことに美夕の目から涙が溢れ、頬を伝う。
「助けて。ラヴァを助けて。ラヴァが・・・崩れて行く」
冷たい手が伸び、一三子の腕を取り、さらに身体ごと擦り寄ってきて、身体に手を回し、胸の位置から見上げながらすすり上げる。
一三子は柔らかい重みを支えつつ、以前にも似たような展開があった事をフと思い出す。
「お願い。もう、一三子さんしかいないの。一緒に来て」
一三子はうなずいた。何かを美夕がその裏で企んでいるかもしれない。が、しかし、美夕と行動を共にする以外、道はなかった。
第五章・神魔羅喉
黄昏の森に入るや、美夕は見慣れた着物風の服に赤い帯の姿へと変じた。
その襟元に一三子のネックレスのチェーンが光る。
「一三子さん、向こうに出たら結界を張って。陀羅尼も有効よ」
美夕は先程とはうって変わった狩人の顔になっていた。
独鈷杵をバックから出し構えた一三子も、強大な悪霊の除霊に立ち向かうときの緊張が高まる。
今回は自分が戦うわけではなく、あくまでも美夕の戦いを見届ける事に徹するとの約束であったが、それでも自分の身は自分で守らなければならない。
「大丈夫よ、美夕。だけど、戦いの前に聞いておきたいことがあるの」
「うん？」
「今度の最後の神魔を闇に帰して、ラヴァを助けたら、おまえはどうするの。ラヴァもはぐれ神魔じゃないの」
一瞬、美夕の顔が曇る。
「ラヴァは帰さない。それに羅喉も闇に帰さない。何も残らないまで焼尽くす」
毅然とした声だった。
「それで、おまえは」
「わたしは」言い掛けて、美夕は一三子を目を細めて見上げた。
「わからない」
一三子は美夕の肩を掴み、言い聞かせる。
「でも、おまえは吸血姫。私はおまえを追いかけ続けるわよ」
「素敵ね。つかまえてね、わたしを」
「だから、勝ちなさい。羅喉に」
美夕はほほえみ、うなずいた。
首を巡らし、眼前の紅い大気の満ちた空間をキッと見据える。
「いくわ！」
眼前の紅い大気にポッカリ黒い穴が空き、みるみる拡がって、あの山中の広場の正面の情景になる。
しかし、それは夜の情景だった。黄昏の森に入ったときにはまだ二時頃だったはずだ。
中天に満月が昇り、昨日より更に嵩が増した雪におおわれた大地や樹々を輝くように照らし出す。
羅喉の巣は目の前に黒々と聳えていた。
正面の巨大な裂け目から生暖かい空気が漏れ出ているのが、白い湯気として見える。
「奴はこの一帯の刻を動かした。私達が来るのを待ち構えていたわ」
美夕は、はだしで一三子の前の雪原に立つ。
時間を移動させる、と。
結界を張りつつ、一三子は羅喉の予想を越えた力に恐怖した。
「言ったでしょう、神とも魔物とも言われた族、それが神魔。これは奴にとって都合のいい場を作るために張られた刻の結界」
その時、巣の裂け目から四つの人影がゆらめきながら現われた。
一三子は彼らが黒木竜男と高弟達であることに気付いた。
が、巣の影から抜け、月光の直射に照らされた彼らの姿に一三子は息を飲んだ。
彼らの姿は、全身が腫瘍と結節に覆われ膿み爛れ、業病の果てのごとく荒廃していた。それどころか、手足や頭の配置自体が著しくバランスを崩し、下半身はお互いの身体が溶け合っているかのようにさえ見えた。
「見なさい。あれがあいつらの本当の姿。融合と増殖を繰り返した挙げ句、命自身が汚れて崩れた偽りの生命」
美夕がささやく。
「ほおお、おまえは吸血姫の娘っ子か。浅野が消されたようだが、おまえの仕業だったか」
先頭の黒木が美夕の姿を認め、露骨な傲慢さで呼びかけた。昨日の一三子を応対したときの柔和さは微塵もない。
「しばらくぶりだのお、一ケ月前か、何十年ぶりかにおまえ達二人で又わしらに挑んできて、さっさとおまえ一人で逃げ出したのは。あれから東京でウロチョロしておったか」
一ケ月前。その頃から美夕は浅野槙雄の調査依頼を一三子のところに持ち込むよう、工作を始めたのだろう。
「そちらのお嬢さんは昨日来たようだが、それがおまえの助っ人か？浅野がずいぶん執心しておったが、返り討ちに遭うとはのう」
美夕は無言のまま男達を見つめていた。
「あの神魔も無謀よ。われらの皮膚にあんな爪程度では傷もつけられないのに向かってきおって」高弟の一人がせせら笑う。
「んん？おまえを逃がすためにわしらに捕まったおまえの愛しい神魔は、わしらのところにまだおるぞ。おまえもこちらへ来たらどうだ」
「返して！」
美夕の凛とした声が冷えきった空気の中に響く。
「ラヴァは私のものよ。返しなさい！」
下卑た笑い声の合唱が応える。
「あいかわらず、気が強いのお。本当は、わしらの肌が懐かしいのではないのか」
高弟達も人間の発声器官からのものとは思えぬ濁った声で嘲笑に加わる。
四人の淫らな視線が粘っこく美夕を舐める。
「なにしろわしらがおまえの最初の男だったからのお。あの神魔と媾合わったことはないのか」
「いやいや黒木様、わしらで男の味を覚えてから、あの神魔と媾合わい放題だったかもしれませんぞ」
「しかし気の強い娘っ子でした。皆でさんざん弄んでも意識をなくしませんでしたし、そのあと肩を突き刺してゆっくり同化しようと放って置いたら、自分の肉を引き千切って逃げましたからなあ」
「それからは、あの神魔とやり放題か。あんな大男のを飲み込んで腹は裂けぬか？」
「いえいえ、私共で道を通じてやりましたので。それに吸血姫の再生力ならたとえ裂けても」
どっと沸き起こる哄笑に、一三子は身を震わせた。
「美夕、おまえあの時・・・あいつらに・・・」
梅雨の竹林の中、肩を血まみれにして自分を呼び寄せた美夕の姿と、その夜の美夕の狂ったような痴態とを、一三子は恐怖の中で想い出していた。
眼前の美夕の後ろ姿が小刻みに震え、指が白くなるほどきつく握りしめられているのが月の光のもとでさえはっきり見える。
「およしっ！」
叫びと同時に、美夕の両手が弾かれたように開き、両掌から高速で打ち出された火球が真下の雪原を打ち、炎が円となって拡がる。
いつのまに近づいていたのか、雪を割って現われた赤い蚯蚓状の触手の群れが、炎にまといつかれ、のたうち回りながら縮れてゆく。
炎の円は黒木達の足元を舐め、彼らの姿は笑い声を残してゆらめきながら地に吸い込まれて消えていった。
「一三子さん、あの時はごめんね。悪かったって思ってる」
前を向いたまま、美夕は後ろ姿で語りかけた。
「美夕・・・」
「来る！」
炎に包まれたねじくれた植物群とおそらくは生きた動物をも編み込んだ巣が、前面の穴から後ろに向かって大きく亀裂が出来、内部から弾けるように裂けた。
吹き上げる巣の残骸と雪煙の中から全長二十メートル直径八メートルはありそうな灰色の蛆が身を反り返して起立する。
ゆっくりと鎌首をもたげた状態に身を戻すと、頭部の口を大きく四つに開く。
顎の先端には巨大な牙が一本ずつ生え、粘液をしたたらせる。
白い口中の粘膜がまくれ、現われた巨大な眼球が美夕を見据える。
頚部にはぐるりと夥しい黒いイボが密生し、その上から生えたやはり黒い触手の群れが鞭のようにざわめく。
その下につながる不健康に脂太りした灰色の胴体の表面を、一面に真黒な樹木の根のようなものが覆っている。根の節ごとに葡萄の房状に膨れ上がった結節が収縮を繰り返す。
根と根の間の半透明の灰色の肌の上を赤く丸い大小の水泡が散らばる。
皮膚の下に折れ曲がった管や臓器じみたものが透けて見え、それらが蠕動する。
体表のそこここに肌とは色の違う不定形の突起が見えた。
それらの突起に目を凝らした一三子は気が付いて息を飲んだ。
さまざまな姿勢で化け物の皮膚に半分身体を埋めて貼り付いた人間達の姿だった。
例外なく、その口に化け物の体表から伸びた白い管が差し込まれている。
その内の一人に目が移ったとき、一三子は嫌悪感のあまり嘔吐しそうになった。
女性だった。やはり口に白い管を銜え、うつろな表情をしていた。
腹部は化け物の体表と融合してあたり一面に拡がっていた。その上をマッシュルームの群生のように灰色に透き通った球体がひしめき合い、それぞれの球体の中であるいは蛙のような、魚と蜥蜴の合の子のような、またはイボだらけの人間の胎児のようなものが揺れていた。
変形した腹部の下に見える陰裂には大人の腕ほどの太さの鉛色の縞のある肉の柱が埋め込まれ、結合部周辺は褐色に染まり、黄ばんだ汚水の流れがそこから伸びる脚の内腿から化け物の体表にしみを付けていた。
「ああやって、羅喉は取り込んだ女達に、下僕を生ませているの。とりこまれた生物はやがてもっと深くまで吸い込まれて、溶けてゆく。気を付けて！」
気配に振り返った一三子は後ろの土中から飛び出した怪物に独鈷杵を構えるや印を結び、鋭い声と共に、気をぶつける。
蟻と人間の合の子は一三子につかみかかろうとした姿のまま触手を振るわせて硬直し、崩れ落ちる。
見る見るその死体は液化が始まる。
「すごおい！これなら一三子さん、大丈夫ね。ザコはまかせるわ」
明るく鋭い美夕の声、しかし一三子はそれどころではなかった。
気が付くと雪の草原のあちこちにユラユラと蠢く異形の者達がいる。
「お待ち、美夕！こんな話じゃ・・・」
「ほおおっ」
ふいに聞き覚えのある声が羅喉の方角から巨大に轟く。
「ただの女ではないと思っておったが、こんな技を使うとはのお」
羅喉の頚の下のあたりの赤い水泡が変形し、差し渡し一メートルはある巨大な黒木の顔になっていた。見るうちに肌の色も顔中を覆った腫瘍の形も先程見た黒木の顔の不気味な複製へと変じていった。
その周囲に散らばる大小三つの水泡も三人の高弟の容貌を写し始める。
一人が一三子に野卑な声を投げ掛ける。
「吸血姫の娘っ子を飲み込んだら、次はおまえをいただくとするか。たっぷりと孕ませてくれるわ」
「そうはいかないわ！おまえ達はここで消えるの。醜い出来損ない共！」
たっ！と美夕は虚空へと飛び上がった。その両手に火球が燃え上がる。
羅喉の真上を飛び越えざま右手の赤い火球をその背に打ち込む。
火球は黒い縞のある背にぶつかるが、砕け散って消え、何らダメージを与えない。
身震いするや羅喉はその巨大な体躯からは想像も出来なかった素早さで、垂直に飛び上がる。
頚部の触手群が風を切って着地した美夕に振り下ろされる。
ひらりと真横に身を移して避ける美夕。勢い余った触手が木々を薙ぎ払うのを横目にしつつ、左手の火球を体勢を建て直しきらぬ羅喉の口へと放つ。
弧を描き、唸りを上げて火球は羅喉の口内の目を直撃する。
「ぐぼおおぉっ！」「ひいいぃぃぃ！」「ぐうっ！」「がっ！」
もはや人間の声ではない吠え声が黒木達の巨大な四つの口から発せられる。
「前の私とは違うのよ。黒木！あなたはとうの昔に死んでいたのよ。偽りの生を今日絶ってあげる」
紅い炎のゆらめきが美夕の全身を包む。
目を潰され崩れた羅喉の頭部が体中に巻き込まれ、黒木の泡立つような声が轟く。
「やりおったな、美夕！だが、おまえはどうなのだ。おまえこそ死すら死すべき偽りの生そのものではないか。嘘だらけのガラクタの夢と呆けた永遠の生命を人に与える偽りの屍ではないか」
「おまえ・・・黒木？羅喉？」
たすかなたじろぎが美夕に生まれる。
「わしらは同じ日に生まれた。おまえこそあの洗礼の日に死んでいたのではないか？おまえとわしとは同族ではないのか？」
黒木の声に嘲笑が混じる。
「おだまり！」
叫ぶと同時に美夕は宙に舞う。
地を這いひそやかに接近してきた黒い触手群が一斉に飛び掛かったが、それらは空しく交差し合う。
羅喉は宙を舞う美夕へと跳躍する。
崩れ内側に巻き込まれた頭部が、いきなり手の平を開くように拡がる。巨大な蜘蛛の巣状に変形した口が宙に拡がり美夕に迫る。
右手に小さな青白く輝く火球をともしたまま、美夕は大きく腕を振るい、肉の網を切り裂き飛び出す。
そのまま羅喉の背の上を高速で擦れ違いざま、伸ばした手の先の青い火球で長々と羅喉の背を剣のように切り裂く。
やり過ごした瞬間、美夕はのけぞり、後ろ向きに火球をたったいま切り裂いた羅喉の傷口に打ち込む。
膨大なエネルギーを秘めた青い火球は化け物の体内で更に多数の小火球に炸裂し、内側から羅喉の身を抉る。
「ぼおおおお！」
津波のような吠え声が羅喉の口から轟く。
身の後部四分の一ほどが内部で点滅する炎の光を放ちながら千切れ落ちる。
ちぎれた部分から組織の残骸を振りまきながら、羅喉は林の木々を薙払って遁走する。
美夕はすかさず、その後を追う。
とり残された一三子は羅喉の下僕達を振り払いつつ、美夕のあとを追った。
並みの人間相手ならともかく、一三子にとって下僕達はたいして強力な相手ではなかった。陀羅尼を唱えている限り近づくことも出来ず、気を飛ばせば一撃で液化する、もろい存在だった。
ただ、数が多かった。倒しても後から後から湧き出てくる。
一三子は彼らを避け、あるいは消し飛ばしながらながらも美夕の消えた先へと急いだ。
気になる予感があった。羅喉の逃げた先は美夕の実家のある方角だった。
あるいは羅喉は初めから企んで、そちらの方向に美夕を誘導したのではないのか？
月明かりだけの暗い山中の道を一三子は急いだ。
雪交じりの足元の不確かな上り道は、冷気も手伝って一三子から体力を奪っていった。
突然目の前の薙払われた木々の間に、先程、羅喉から千切れ落ちた五メートル程の肉塊が現われた。
それを迂回しなければならない。いやでもそちらに目がゆく。
本体から切り離されたそれは、凍てつく冷気の中で湯気を立てながら見てる間にも形が崩れてゆく。
水母のような半透明な塊が、次々と肉塊から剥がれ落ち、大地の上で液化しながらそれ自体が蠢いていた。
半透明な塊は一つずつが人間の形をしていた。中には犬や猫の形をした比較的小さな塊もあった。
塊の中を樹根のような真紅の血管が走り、その血管はさらに外に伸びて他の塊同士へとつながっていた。
羅喉はおそらく中心部の回りに吸収した生物を一個の細胞として巻き付け、その身体を肥大させていったのであろう。
後ろから迫る下僕達の気配に、一三子は先を急いだ。
冬空にオリオンが輝く。
灰色の雪の大地に黄昏家の屋敷が幻のようにそびえている。
「羅喉！何のつもり、ここまで私をおびき出して」
屋敷の前で美夕は中空に向かって叫ぶ。
しん、と静まり返った空気の中、動くものとてない。
どこに身をひそめたのか羅喉のあの巨体はかき消すように見えない。
いや。
美夕は身構えて屋敷を睨み付ける。
から、と、屋根瓦が滑り落ちる。
半身になった美夕の両手に、ぽぅと火球が生まれ、冷たく緊張した顔を照らし出す。
と、突如屋敷は内側から膨張して張り裂け、破片を周囲に吹き飛ばす。
美夕は飛来する破片を身軽に避けつつ、その場に立ち続ける。
もうもうたる埃の奥から黒い塊がいきなり突進してくる。
「無駄よ！」
冷たく微笑み美夕は火球の輝く右手を突き出す。
が、
「ラヴァ！」
埃の雲から現われた灰色の塊の中央に美夕は一ケ月前、身を挺して自分を逃がした自らの下僕の姿を認め、一瞬凍り付く。
その途端、横薙に払われた黒い触手が美夕の腹を打ちすえる。
苦痛の呻きを上げて美夕は弾き飛ばされ、飛ばされた先の竹に背を打って地面の上に倒れ伏す。
すかさず伸びた触手が両腕ごと美夕の胴に巻き付き、中空に持ち上げ、その身を本体の方へと引き寄せる。
締め付ける触手に美夕は歯を食いしばり、近づいてくる羅喉の姿を見つめる。
薄らいでゆく埃の中、美夕の屋敷の残骸の上に羅喉はその生白い身体をそびえ立てていた。
腹部正面、黒木の巨大な顔の真下の水泡を破って突き出し、十字架に掛けられた姿勢で両腕と腰から下を羅喉の身体に埋められたラヴァの姿が迫ってくる。
全身が濡れ、まだ身体のあちこちから粘液がしたたり落ちている。
それまで身体のどこかに飲み込んでいたものを、たった今、体表まで押し出してきたものと見える。
破れた水泡の内部から何本もの赤い管が伸び、うねりながらラヴァの仮面の下に潜り込んでいる。
羅喉はラヴァの正面の空中の手を伸ばせば届く近さまで、自由を奪われた美夕の身体を引き寄せ、ぶら下げた。
「卑怯者！」
黒木の顔をキッと見上げての美夕の絶叫に、捕えられたラヴァのうつ向いた顔が持ち上がり、美夕を認める。
ふいにラヴァの肩に胴に激しい震えが走った。
腕や腰を羅喉の体内から引き抜こうとあがく。が、鳥餅に捕えられたように、はずれない。
「ラヴァを離しなさい！私さえ捕まえればラヴァには用はないでしょ」
気丈に美夕は、自分を見据える黒木に言い放つ。
「気の強い娘だ。この神魔の大きな生気は我々のこやしになる。これからたっぷりと時間を掛けて生気を汲み尽くしてくれるわ。それより美夕、自分の事を心配してはどうだ？」
黒木と、その回りの体表に浮かんだ三人の男達の顔が淫蕩に歪む。
美夕の身体は黒木の巨大な顔の前にまで引き上げられる。
「いつかのように、たっぷりと愉しませてもらうぞ、美夕。そちらのお嬢さんも見ているがいい」
黒木は横目でようやくこの場所まで追い付いた一三子に呼びかけた。
一三子は崩れた屋敷の堀を背に、急速に数が増えだした下僕達へと結界を張り気を飛ばして応戦していた。その息は既に荒く次第に限界が見え始めていた。
「おけっ！」
黒木が低い声で叫ぶと下僕達は一三子を中心とする円を描いてその回り一面で動きを止めた。
後から後から沸いてくる下僕達もこの静かにざわめく群れへと加わり、一三子をとりかこむ。もはやこの土地一面に密集した彼らを抜けるすべはない。
「瀬 一三子さん、あなたも普通の人間ではないようだが、美夕の後で我々の仲間に加わっていただこう。我々と一体になれば、今の世で、それ以上は望めない永遠の快楽を味わわせてやろう。それまで、大人しくしておれば、手は出さぬ。こやつらの好きにさせたらどうなるか分からぬぞ」
昆虫のような者、イモリを思わせる者、人間の胴体に犬の首の乗った者、黴の塊の中から触手を生やす者、わけの分からない雑多な生物の混ぜ者たちが月明かりの下に生臭い匂いと耳障りな声を上げながら、いまにも飛び掛からんばかりの姿勢で隙間なくゆらゆら揺れていた。
さらにその後ろに屋敷の残骸を踏みしだいて羅喉の巨大な身体がそびえている。
静かにざわめく輪の中心で一三子はようやく荒い息を整えつつ、自分の回りをおおい尽くす異形の群れを見回した。
口の中がカラカラになり、疲労が重苦しく一三子を包む。
ゆっくりと恐怖が膨れあがってくる。
独鈷杵を握りしめた手が肌を刺す冷気の中で汗ばむ。
第六章・凌辱
黒木は一三子から美夕へと視線を戻す。
羅喉の頚の回りの黒い触手が数本、空中に吊るされ、もがき続ける美夕へと伸びる。
触手は美夕の肌の上を這い回り、衣服を毟りとる。
むき出しになった色白の美夕の腹、胸、腿が黒い触手に締めつけられ、くびれる。
それでもあがき続ける美夕の姿に、四人の腫瘍まみれの男達の顔が淫らに歪む。
固い表情で美夕は黒木達の顔を凝視する。
「いつまでそんな強がりを続けられるかのう。もう頬は真っ赤ではないか」
せせら笑いながらそう言い終わると、巨大な黒木の顔の真ん中に、上から下まで一本の切れ目が走る。切れ目から夥しい粘液がしたたり落ちる。
切れ目から顔は左右へに中身が裏返るように押し拡がる。
ひろがった白い内壁の表面が泡立つように蠢く。
その表面一面にイソギンチャクのような半透明な指ほどの太さの触手が密生している。
黒い触手は美夕の身体を背中の方から開いたばかりの内壁に押し付ける。
みるみる白い触手の絨毯は粘液音をたてながらうようよと美夕を捕える。美夕の身体は絡み付く触手の分泌する粘液に濡れ始め、月の光にてらてらと輝く。
役目を代わった黒い触手ははいましめを解き、ずるずると美夕の身体から離れる。
美夕の頭の上の触手の群れがざわめき、元の大きさに戻った黒木の頭がその中から突き出てくる。
「どうじゃ、気持のいい寝床じゃろうが。おまえを孕ませることは出来ぬが、同化させることなら出来る。わしらと溶け合って永遠の生命を謳歌しようぞ」
「無駄よ、こんなことをしても。私はおまえたちには取り込まれない」
標本箱の蝶のように手足を大きく拡げられ、自由を奪われながらも、美夕は毅然と言い放つ。先程まで締めつけられていた跡が全身に赤い帯になっている。
「それでこそ姫さまじゃ。では、いつまでもつか試させてもらうぞ」
美夕の両腋の下の触手をかきわけて二本の腕が現われる。黒木の頭の位置からは考えられない場所からの出現だった。
膿をしたたらせた両手は、美夕の小振りな両の乳房を鷲掴みにし、ねちっこく揉み始める。
新たに周辺の触手の群れの中から三人の男達の頭が浮かび上がってくる。
一人の首はそのまま蛇のように伸び続け、美夕の腹の上にまで達する。
「ほほおぉ、かわいそうに。こんなに赤い跡を付けて」
首はそう言って笑うと、胸、腹、腿と触手に締めつけられた赤い跡に舌を這わせ、舐め進む。
もう一人はもくもくと美夕の足の趾を口に含み、その一本一本に舌をからめる。
最後の一人は拡げられた足の間から見上げ、美夕の幼い性器を指で弄び、舌でねぶり回す。
彼らは軟体動物のように首と手を移動しながら、あるいは美夕の身体を持ち上げながらその未成熟な少女の餌食を味わう。
喉、鎖骨、腋窩、肩甲骨、手の指、乳房、背中、脇腹、臍・・・かれらの爛れた指と唇と舌の愛撫の触れないところはどこもなかった。
食いしばった美夕の口から、押し殺した吐息が漏れる。
「どおれ姫さまの御両親にも、この姿を見てもらおうかの」
美夕の耳朶に舌を這わせていた黒木が、笑いながら叫ぶ。
ずる、と羅喉が身の下の破片をきしませながら身体の向きをずらす。
はっと美夕が目を見開き、悲鳴を上げる。
「やめて！」
屋敷の残骸の上にそこだけ凍り付いた一部屋の大きさの透き通った立方体が残っている。
凍り付いた時間の空気がその表面にガラスのように月光を反射させる。
その天井近くに逆さまに和服姿の男女が透けて見える。
「それでは美夕、見事な花嫁ぶりを御両親に見てもらおうか」
あらためて美夕は激しくもがく。
四人の男は嘲笑しながらそんな美夕を覗き込む。
二本の崩れた腕が現われ美夕の両腕を触手の海の中に押さえ付ける。
その持ち主らしい男の頭は移動し、大きくあらわになった美夕の腋の下を舐め始める。
「匂いの薄い娘じゃ。幼な妻とはそそりますなあ」
別の二本の腕が美夕の両膝を掴み、外側へと押し広げる。
ガラスの中の両親は微動もせず、冷気の中、身体を大きく拡げさせられた美夕と正面から対している。
「いやあっ！やめてえぇ！！」
「わめけ、わめけ。そのうち、たっぷりとあえぎ声をしぼり出させてやるわ。おい、婿殿にも見せてやれ」
「はっ」
美夕の股間で、触手の群れが陰裂や肛門をなぶるさまを愉しんでいた男はうなずくと、両腕を長く長く下へ伸ばした。
その手は彼らの真下で半身を埋めていたラヴァの頭を掴むと、大きくのけ反らせ、ついでラヴァの身体を埋めた崩れた赤い水泡ごと、羅喉の体表上を移動させて全身をずり上げる。
大きく拡げられた美夕の踝の高さにラヴァの顔が来て、その位置で両手が押さえつける。
美夕は胸の谷の間から、真下から逆さの向きで見上げる白いラヴァの仮面を見下ろす。
赤い瞳と金色の瞳とが一直線に結ばれる。
「いや・・・いや、いやあっ」
むせびつつ、美夕の身体が震え始める。
「では、まず儂からいただくか」
美夕とラヴァの視線の間に触手の群れをかき分けて黒々とした肉の棒が割って入る。
直径は五センチ長さは三十センチ、大きく反り返り、根本から太い血管が網状に走り、膿を含んだ大小の疣が散らばっている。頂上部は二股に分れ、それぞれの亀頭はキノコの傘状に開いている。
全身を脈動しつつ、巨大な陽物は触手の群れの分泌する粘液で濡れた美夕のつつましい陰裂にその頭部をあてがう。
先程まで乳房を揉みしだいていた黒木の両手は、まだくびれも目立たぬ美夕の腰骨を鷲づかみにする。
「見ないで！ラヴァ。お願い、見ないでぇ！」
美夕の悲鳴が一三子の耳まで突き刺さる。
頭部を両側から押さえ付けられたラヴァの仮面の顔は微動だにしない。
「ふんっ！」
黒木の口から気合いが漏れる。
陽物は弓なりにしない、狭い陰裂に押し入ろうと力がこもり、震えが走る。
二股に分れた亀頭は蠢きながら、固く引き締まった肉襞を押し開いてゆく。
美夕はきつく頭をのけ反らせ、歯を食いしばる。
ふいにズボッと陽物は根本まで飲み込まれる。
耳をつんざく美夕の悲鳴に、一三子は思わず顔を伏せ目を固く閉じる。
引き裂かれた美夕の股間から、糸のように血が腿を伝い、その下に蠢く白い触手の群れを赤く染めながら拡がり始める。
「きついのお、まるっきりの生娘ではないか。どうやら婿殿とは一度も媾合わってはおらんようじゃのお」
美夕の体内に収まった自分を確認するように黒木の手が美夕の下腹部をなで回す。
「ほほお、それは次が愉しみですな。黒木様のは蛇のを合わせておいでですから、私は今度は猫のを借りましょう」
蛇の首を伸ばして一部始終を見つめていた男が言う。
「あれは肉の棘が出るからきつかろうなあ。おまえは」
「私はかぶと虫を」
「あれは時間が掛かり過ぎる、次の俺にも早くまわせ」
「よいよい、時間はたっぷりある。しかし一度目は早目にまわし合わねばのう」
黒木は高弟達から自らの陽物に刺し貫かれた美夕へと目を戻した。
美夕の口は水面で空気を求める金魚のように、震えながら何度も開閉を繰り返す。
目尻から涙が伝い落ちる。
「おうおう、そんなによかったか。それでは、もっとよくしてやろうかの」
黒木は再び美夕の腰骨を両手で押さえ、挿入していた陽物を動かし始める。
新たに上げ始めた美夕の悲鳴を男達は笑いながら聞き流す。
始めはゆっくりと、やがて激しく。美夕の小さな腰は機械に巻き込まれたように突き動かされる。
誰のとも分からぬ両手が美夕の小さな乳房を覆い尽くし、揉みしだく。
別の男の手が悲鳴を上げる美夕の顎を押し開き、その口の中へと苔が生え崩れた潰瘍が散らばる長い舌を差し入れる。
腿を伝う血は激しい動きに飛び散り、直下のラヴァの仮面に肩にと降りかかる。
やがて動きが硬直して止まり黒木の顔がのけ反り、陽物が深々と美夕を貫いて震える。
全身を震わせた痙攣の直後、陽物を飲み込んだままの美夕の陰裂からブクブクと黄ばんだ精液が吹き出し始める。
黒木が陽物を引き抜くと、精液は美夕の血に赤く染まった触手の絨毯の上を軟体動物のように粘っこくしたたり落ちて行く。
黒木から解放された美夕は力なく触手にからまれてぶら下がる。
だが、その休息はほんのひと時だった。
新たな男の全身が美夕の股間の、血と精液まみれの触手の間から現われ、美夕の身体の上におおい被さる。
チラリと見えたその陽物はゴカイのような赤とピンクの縞のテラテラと脂ぎったものだった。その両側にうようよ蠢く突起が一列に並び、その陽物自体が蛇のようにうねっていた。
距離があるはずなのに、一三子の目に美夕の姿が間近に見える。
男が深々と腰を沈めたとき、男の肩口から見える美夕の顔は激しく歪む。
男の全身がうねり、美夕を揉みしだく。
一三子は自分の腹の中で、蛇がのたうつ悪寒に襲われる。
両手で独鈷杵を握り締め、寒いはずなのに、全身から汗がにじみ出る。
美夕はもはや悲鳴も上げず、口を半開きに何かを呟き続ける。
その揺れる視線は、ただただガラスの奥の動かぬ母へと向けられている。
入れ替わりたち替わり、男達はさまざまな性器、さまざまに変形した身体で美夕を輪姦し続ける。
異臭が立ちこめ刺すような冷気のただ中、オリオンの輝く夜空の下、月光を浴びそびえ立つ巨大な羅喉の胸部に身を張り付けた美夕の姿は、教会の聖堂の天井の天使の像のように見える。
その直下で美夕の血と男達の精液を浴びつつ、十字架のキリストのような姿で張り付けられたラヴァの物言わぬ仮面が美夕を仰ぎ見る。
おこなわれている事のおぞましさと次は自分の番だと知りながら、一三子は「受難の天使」との言葉が頭の中で繰り返す。
崩れた男達の手に弄ばれながら、美夕は母のみを見つめ、呟き続ける。
一三子の耳に聞こえるはずがない美夕の言葉が雨だれのようにこだまする。
「・・・おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん、おかあさん・・・」
雨だれの呟きはいつ果てるともなく、続く。
そんな美夕を黒木は弄びながら面白そうに見つめていた。
ようやく、男達が一回りし終えた。
美夕は触手にまとわれて力なくぶら下がり、頭を垂らし荒く長い息をしていた。
全身が男達の身体の腫瘍や融合した何か異種の生物の器官から吹き出した膿汁や不潔な粘液で汚れ果てていた。
股間からはまだ、溢れた精液が血の糸を引きながらしたたっている。
次は再び黒木の順だった。
男達が期待を込めて黒木を見つめる。
黒木は美夕の顎を掴んで持ち上げる。
「どうじゃ、いいかげん我を張らずにわしらに同化せんか。おまえさえその気になれば、もっとやさしく扱ってやるし、そのような血を流す痛みもなくなるのじゃぞ。新鮮な人間の血も欲しいだけ飲めるようにしてやる」
意識を失っていたかに見えた美夕は、昂然と頭をもたげ、黒木の顔をキッと見つめる。
「無駄よ！いくら私を犯しても、私はおまえなんかに同化しない。黒木、私の相手はおまえなんかじゃない。羅喉！聞いているんでしょ。こんな偽りの身体の中に隠れてないで出てらっしゃい！！」
「ほほお、気の強いことを。美夕、おまえの心の支えは何かな？使命か？それとも」
黒木は笑い始める。笑いながら居並ぶ高弟達の方を振り返る。
「吸血姫を愉しむのもよいが、そろそろ腹が減らぬか？先ほども身体の後ろをこの娘に吹き飛ばされて、体力を回復せねばならぬ」
皆の答えを待たず、黒木は再び美夕を振り返る。
「美夕、おまえもわしらの相伴をせい」
口元に凶暴な笑いを貼り付かせ、黒木は美夕の顎を鷲づかみにする。
美夕の頭の上の触手の束の中から、一本の腕ほどの太さの白い管が伸びてくる。
一三子はそれが羅喉の体表に埋め込まれた人間達の口に差し入れられていた白い管である事に気が付いた。
美夕の顔に激しい恐怖の表情が浮かんだ。
「何をする気？およし、私はおまえたちのとる汚れた餌など受け付けない」
「身体が受け付けるかどうかには、興味はないな。それに」
つかんだ美夕の顔に顔を近付け黒木はニヤリと口を歪めた。
「汚れた餌かどうかは、これからおまえが決めることだ」
白い管はそれ自身が自由に動き回れた。その黒ずんだ先端部が、黒木に押さえ付けられた美夕の小さな口元をまさぐる。
唇を引き締め歯を食いしばって抵抗する美夕をあざ笑うように、管はやすやすと唇の隙間に潜り込み歯を押し開いて喉の奥へと侵入する。
柔らかそうに見えるが何度も歯を食いしばっても噛み切れない強靱な組織だった。
ついに先端部が胃の中にまで届く。
黒木が手を離すと美夕は顔を左右に振って管をもぎ離そうとする。
そのありさまを満足そうに眺めて、黒木は笑う。
「無駄だ、そう簡単には取れぬ。それより餌の方を見てはどうだ？」
黒木が視線を促す。
羅喉の再生した頭部が百合の花のように開く。中央から美夕の口に差し込まれたのとよく似た、それより遥に太い管が象の鼻のように伸びだしてくる。
その先端部が真っ直ぐ美夕の両親を封じたガラスの立方体へと伸びる。
引き裂かれるように美夕の両眼が見開かれる。
叫び声はしかし、口腔内でその形なりに膨れた管にさえぎられて漏れ聞こえない。
ただ、くぐもったうめきがわずかに鼻腔を抜ける。
第七章・ラヴァ
管の先端部はガラス化した刻の空間の壁に貼り付く。
神とも言われ魔物とも言われた神魔、刻すら動かす羅喉の力が集中し始める。
ずる、と管の先端は内側に裏返るようにガラスの空間へとめり込む。
そのまま管本体が透明な聖域へと侵入する。
ゆらゆらとその先端部が逆さに凍り付いた美夕の両親に近づく。
美夕は身体をよじってもがき、声にならない叫びをあげ続ける。
ひたり、と管の先端の開口部が母の頭部に貼り付く。
見る間に赤い色がその周辺ににじみ始める。
白い管は更に身を震わせてより深く身を沈める。
美夕は張り裂けんばかりに目を見開き、その光景を目に焼き付ける。
母は微動だにせず、その位置に逆さに立ち続ける。
がその頭のあった位置は、既に真紅の液体が頭の形に満ちている。
羅喉の管状の口吻は目の前の肉も骨も噛み砕き、更に母の身体を喰い進む。
蠕動する管の中を白い壁を透かせて黒紫色に見える液体が、口から本体へと送り出されて来る。
ストローでジュースを吸うように、羅喉は摺り砕かれた母の身をむさぼる。
やがて、その身の表皮に貼り付けられた人間達の口に差し込まれた白い管が蠕動し始め、その根本から同じ色の液体が送り出され始める。
美夕の口にねじ込まれた管にも、その中を黒紫色の液体が伝い降りてくる。
触手に押さえ付けられた美夕の腕に肩に胴に足に力がこもり、ぶるぶると震える。
その形相は般若のように変わり、必死で歯を食いしばろうと力む。
だが、口内で膨れ硬化した管は潰れる気配もない。
ついに、
どくっ、どくっ、どくっと管を伝った液体は美夕の震える口を経て体内へと送り込まれる。
「ぐうっ！」
不意に美夕がいましめられた身体を折り曲げてうめく。
破裂したように、その口と白い管との間から、真紅の液体が吹き出す。
液体には肉のかけらも交じり、美夕の胸や腹の上を流れ落ちたあとのそこここに濡れた赤い綿のように引っ掛かる。
さらに新しい液体が絶えることなく脈動する管を通って美夕の体内に流し込まれる。
繰り返し繰り返し、美夕は嘔吐を繰り返し、むせかえる。
黒木は舌舐りを浮かべてそのさまを見つめている。どうやら羅喉の身体の奥にひそんだ先程の水母のようなその本体が、同じように管を通じて血をすすっているらしい。
黒木は腕を伸ばして美夕の頭を後ろの壁に押し付ける。美夕の顔は口だけでは足りず、その鼻からも血がしたたっている。
「見てみい、美夕。おまえが頼っていた母の姿を」
美夕の涙まみれの目に、眼前の光景が飛び込む。そこには既に父母の姿はなく、二人の人間の形にガラスの中にくり抜かれた空間には真紅の液体が満ち、その中を腸のように白い管がうねり、動き回っている。
一三子は既に先程から雪の上にしゃがみこみ、指を折り曲げた両手で顔を覆っていた。
身は寒さだけでない震えに襲われていた。
その耳を、口をふさがれて聞こえない筈の美夕の悲鳴がつんざく。
あああああああああああああああああああああーーーーっっ
悲鳴が尾を引いて消えたとき、美夕の全身から力が抜け落ちた。
だらしなく開かれた口から、溢れた血汁が垂れ落ちる。
「もったいないのう。こんなにこぼしおって。うん？うまかったろう、母の血は」
黒木は崩れた顔を近付け、口を開くと長い舌を伸ばして美夕の顎や胸を濡らす血汁を舐める。
美夕はガラスのような瞳で虚空を見上げたまま、表情も変えない。
羅喉はもう美夕の両親を貪り尽くし、その口吻を体内に戻した。
黒木は美夕の顎をつかんで左右へと揺り動かす。
美夕の頭は何の抵抗もなく、その動きに応ずる。
「ようやく率直になりおった。それでは姫様に御褒美を差し上げよう」
黒木は美夕の身体から離れる。
と、美夕の頭上の触手の絨毯がざわめきそのあいだから別の男の頭が浮かび上がってくる。
青みがかった銀髪に、やはり色白の肌。彫りの深い顔だちに赤い瞳の青年が美夕を見下ろす。
右目の上と左目の下に入れ墨のような長い青の筋が浮かぶ。
赤い爪が生えた純白の両手が現われ、美夕の両頬をそっと包み、静かに上に向ける。
美夕のガラスの瞳が青年の顔に焦点を結ぶ。
甘やかなほほえみが美夕の頬に浮かぶ。
美夕の両腕が上に伸び、青年の頬を包む。もはや触手の群れは美夕の動きを妨げようとはしない。
不自由な唇を動かして、美夕はその顔に囁きかける。
「ラヴァ」
一三子の耳にも聞こえるはずのないその囁きがひろがる。
しかし一三子は喰い入るように、その美夕の真下の羅喉の胸部を見つめていた。
上から流れ落ちてくる汚物を全身で受けとめて仮面の下僕が、腰から下と腕の先を羅喉の体内に埋めて、上半身を十字架に掛けられたように突き出していた。
仮面の間に何本もの蠢く赤い管が潜り込んでいる。頭は仰向けに押さえ付けられたまま、真上で繰り広げられる魔宴を見とり続けていた。
「いけないひとね。そこにいたなんて」
甘く囁きながら、美夕は青年の頬をなで回す。
「もう神魔は、みんな帰っちゃった。私達ふたありだけよ」
赤い爪を持つ白い手は美夕の身体の上を撫でながら滑り落ち、小振りな乳房を柔らかく包む。
軽いあえぎが一三子の耳の中で弾ける。
一三子は自分の状況も構わず叫ぼうとしていた。が、悪夢の中で助けを求めるかのように、声はかすれて形にならない。
青年の顔は下降し、美夕の喉から肩へと唇を這わす。
美夕の幼い声があえぎの中で震える。
「ラヴァの顔も全部もとのまま。もう離さない。私だけの」
美夕の股間の触手の群れがざわめき、銀白色のつややかな陽物が鎌首をもたげる。
人間の性器に形は似ていた。太さはビール瓶ほどもあり、縦に一本黒い溝が走り、その溝の中に不規則な間隔で鋼のような輝きの球がめりこんでいた。
陽物はためらうことなく、美夕の傷つき充血した陰裂へと先端部をあてがい、脈打ちながらその身を埋めていった。
美夕も足をひろげ、その挿入を自ら迎え入れる。膝を曲げ腰を後ろに突き出し、さらなる深みへの進入を促す。
収縮と膨張とを波のように繰り返し、陽物は美夕の最深部まで達し、張り裂けんばかりに美夕の内部一杯にふくれあがる。
ゆっくりといつくしむように、陽物は美夕の腰ごと円を描き始める。
美夕の小さな腰も触手のしとねの上で波に揺られるように穏やかにうねる。
乳房を包んだ手が、ゆっくりと揉み上げる。
小さな桜色の乳首が親指と人差指とでつままれ、軽くよじられる。
美夕は首をのけ反らして、長いあえぎをもらす。
冷気の中、美夕の吐息が白く曇る。
その口からよだれが顎を伝い、したたり落ちる。
やがて美夕は自分から腰を使い始める。
それまでの円運動に加えて前後運動が加わり、極限まで拡げられた美夕の陰裂に、ねっとりとした粘液にまみれた陽物がくねりながら出入りする。
その三十センチも離れていない真下から仮面の赤い瞳が見上げ続けていた。
虚ろに見上げた美夕の瞳に満月が映る。
明らかな悦楽の表情が、その惚けた顔に浮かぶ。
開いた口から覗くピンクの舌が、その口に深々と差し入れられた白い管を舐め回す。
手足の先の触手につかまれている部分が、じわじわと羅喉に同化し始める。
触手の先端部が美夕の皮膚にもぐりこみ始める。
痛みもなく、美夕はリズミカルな淫楽に身を任せ続ける。
美夕を貼り付けた触手の絨毯を囲む外側の羅喉の固い皮膚がゆっくりと左右から閉まり始めた。
声を上げるものもない偽りの夜の空間の中、美夕のあえぎだけが絶頂を目指すよう、短く切れ切れになり始める。
あえぎに乗って美夕の呟き続ける声が、一三子の耳に漂う。
「・・・ラヴァ、もう二人だけ、いつまでも二人だけ、ラヴァだけ、二人だけ・・・」
美夕の目から涙が溢れ、顎を伝たう。
その涙が、真下の仮面にしたたり落ちる。
「グオオッ！」
ふいに、押し潰された吼え声が沸き起こる。
仮面の下僕は渾身の力を込めて右腕を羅喉の胴から引き抜く。
油断していたのであろうか、おびただしい千切れた触手を食い込ませたまま自由となった右手は空を舞う。
その爪は一瞬で自分の腹部と左手を切断し、上半身のみの姿で真上に飛び上がり、美夕の身体を味わっていた青年の顔を二つに切り裂く。
ラヴァは柔らかい触手を一撃で切断し美夕を解放し、左肩に抱き上げ、先のない左腕でかかえる。
さらに右腕を柔らかい触手の絨毯に突っ込み、内部から縦横に羅喉の身体を切り裂く。
「ばおおおおぉ！」
羅喉の口が全開になり、汽笛のような吼え声を放つ。その首の回りの黒い触手が鞭のようにラヴァを襲う。
すばやく身をかわし、腰と左腕の切断面から青い光を散らしながら、美夕を片腕抱きにしたラヴァは羅喉から飛び離れ、離れた地面へと背中から落ちる。
切り裂かれた触手の絨毯は大きく綻び、その内側から水母状の塊がいくつも溢れ落ち始める。
二つに割られた青年の顔は笑みを浮かべて逃げ延びたラヴァ達を見つめ、次いで崩れ始める。
羅喉の全身が大きく蠕動し、ぐらりと切り裂かれたところからその上部が大地に滑り落ちる。牙の生えた四つの顎がでたらめに開閉し、黒い触手がもつれ合ってはためく。
雪の上に横たわったラヴァの上半身の上に抱きかかえられていた美夕は、腕を支えにゆっくりと身を起こす。赤い爪の右手と先を失った左腕とがその美夕の動きをやさしくうながす。
焦点の合わない美夕の目に、白い仮面が写る。
「・・・らぶぁ、らぶぁ？」
ス、と、その瞳に金色の光が宿る。
「ラヴァ・・・ラヴァ！」
絶叫し首に抱きつく美夕を押しとどめ、ラヴァは右腕をかかげ、美夕の背後の羅喉をピタリと指差す。
美夕は振り返り、頭部を失い切り口から蒸気を吹き上げてのたうつ羅喉を見据える。
唇を噛みしめ、ふらつく腰に力を込めて立ち上がり、雪の大地に足を踏み締め、仁王立ちに身構える。
「羅喉おおおおおおーーっ！」
両手を前に突き出し、鋼の絶叫が美夕の口から放たれる。
紅蓮の炎が両手の間に生まれ、炎の龍となってのたうつ羅喉の頚の切り口に流れ込む。
歯を食いしばり、般若の形相と化した美夕はとどめることなく真紅の奔流を、全身を蠕動して荒れ狂う羅喉の体内へと放出する。
のたうつ羅喉の全身のあちこちに、内側から破裂した大きな裂け目が生じ、大量の半透明の水母と蒸気が吹き出す。
羅喉の全身は崩れ落ち、泡立ちのたうつ池の中、もはや小刻みに震えながらその中心核の回りから、まとわり付けた生物の残骸の水母達がずり落ち続けていた。
白い玉子状の中心核は美夕の炎に渦状に包まれ、燃え上がる。
亀裂が入り、柔らかく殼を突き破って中から夥しい赤い粘液と共に人間大の青白い蛆虫が一匹、もがきながら這い出てくる。
知性のない白痴の神魔、羅喉。
そのいじけた姿は先程までの巨大な姿と形はよく似ていた。
羅喉は炎を浴びせ続ける美夕へと首を伸ばす。
炎に包まれながらその身体を上へと伸ばす。
伸ばしながら姿が変わって行く。
二本の足を開いて直立し、両手を前に突き出し、膨らんだ頭部の左からおさげのような触手を垂らし、そのシルエットは少女の姿を形取り・・・
「いらっしゃい、永遠の命と、永遠のしあわせをあげる」
その口から虚ろな響きがこだまする。
「消えろおぉっ！」
絶叫と共に美夕の両手から青白い火炎がほとんど直線状に、偽りの少女を直撃する。
その身体のあちこちが裂け、炎を吹き出し、少女は崩れ落ち、燃えながら液化が始まる。
最後の一滴が燃え尽きる。美夕はその場にしゃがみ込む。
わななく腕で身体を回し、後ろに横たわるラヴァに向き直る。
切断された腹部と、左手の切り口はあくまで漆黒に染まり、その中で青い星の様なまたたきが一面に散らばる。小さな青い光はそれぞれが点滅を繰り返す。
「ラヴァ」震える美夕の呼びかけにラヴァは首をめぐらし、美夕へと顔を向ける。
その動きで仮面がずれ、千切れた赤い触手と共に剥がれ落ちる。
先程羅喉の体表に現われたのと同じ顔が、赤い瞳で美夕を見つめる。
「ラヴァあ！」
にじり寄った美夕は、その首に縋り付く。
偽りの夜の刻は羅喉の消滅と共に消え去った。午後の弱々しい陽射しの中、羅喉の下僕共はことごとく崩れ落ち、雪の原のあちこちに不潔に泡立つ水たまりと化していた。
一三子はしゃがんでいた場所から立ち上がり、うずくまる美夕の方へとあるきだす。
冷たい風が、身を縮ませる。
屋敷の瓦礫の傍らにかって羅喉の身体だった赤い大きな池が広がっている。
池の表面を水母のような人の形をした塊が一面に覆う。
傍らを通り過ぎる時、池の縁近くの半透明な塊に目が向く。
ほとんど凹凸を失った顔に、かすかに黒木の面影を残す。もはや自力では動けず、透けて見える眼球だけが、一三子を追う。一三子は目をそらし、美夕の元へと急ぐ。
ラヴァを抱きかかえる美夕の後ろに立つ。
汚物のこびり付いた美夕の裸身を、ラヴァの右手は静かにぬぐう。
美夕はラヴァに縋り付いたまま、しゃくり上げる。
「こんなの嘘、ラヴァは狩りが終わってもいつまでも一緒なの。こんな傷、何でもない。こんなの嘘」
美夕の呟きが一三子の耳にも聞こえる。
ラヴァがゆっくりとかぶりを振る。苦しげな声で語りかける。
「お別れです、美夕」
「やめて！そんな事ない。今、助けてあげる。一三子さん霊媒師でしょ！ラヴァを助けて。何でもするっ。ラヴァを助けてっ！」
振り返り、目を見開いて自分に哀願をする美夕を一三子は喉を詰まらせ見おろす。
「美夕・・・」
ラヴァの赤い爪の生えた華奢な手がそっと美夕の細い顎をつかみ、自分の顔へと向ける。
「なに、ラヴァ」
震える仔猫の瞳と赤い瞳とが交わる。
「美夕」
ラヴァは美夕の唇を自らの唇へと近付ける。
「だめ、ラヴァ、わたし汚れている・・・」
ラヴァにつかまれた顎がかすかに、いやいやをする。
「美夕、汚れても、あなたは美しい」
そう語りかけるとラヴァは美夕に接吻した。
長い睫毛を伏せ、美夕もその接吻にこたえる。
静かな刻が流れる。
伏せられた美夕の睫毛の間から、涙がつたい落ちる。
ラヴァの長い指が、むき出しの幼い美夕の背中を撫で続ける。
その手に、青い星のまたたきが散らばり始める。
手だけではなかった。美夕への長い接吻を与えるその顔にも、身体中にもまたたきはその強さを増しながら広がっていた。
「ラヴァ？」
ようやく唇を離した美夕は、ラヴァのこの変化に怯えの声を上げる。
「ラヴァ！だめ。いっちゃだめぇ！」
ラヴァは穏やかに美夕にほほえみ掛ける。
「美夕、私の・・・」
それが最後だった。
全身を青い星のまたたきが激しく点滅したかと思うと、美夕の腕の中には何も残らなかった。
白い仮面のみが、雪の上に落ちていた。
美夕の震える両手が、それを拾い上げる。
その顔を見つめたまま、美夕はじっとしゃがみ込んでいる。
濡れた白い肩が冬の風を受け、後ろ姿を見せている。
ネックレスの銀のチェーンが、その細い首によじれて貼り付いている。
一三子は自分の寒さもかまわず、焦げ茶のセーターを脱ぎ、そっと美夕の背に掛ける。
「美夕・・・」
「うそよ」美夕が呟く。
「こんなこと、みんな嘘よ。そうでしょ、一三子さん」
仮面を胸に抱きしめ、ゆっくりと立ち上がって美夕は振り返る。その口元はかすかに痙攣し、目は吊り上がっている。
「これは夢なんでしょ。目が覚めると私はラヴァの膝で寝ていて、鎌倉に帰ったらガラスの中でお母さんがいつまでも待っていて呉れるの」
美夕は屋敷の残骸と一三子とを慌ただしく見比べる。爆発しそうな笑いの発作を秘めた顔で。
「そして一三子さん、あなたは」
美夕は芝居じみて一三子を指差す。
「あなたは私をいつまでも追いかけてくれるの。いつまでも綺麗な私の一三子さん。そして私はみんなに綺麗なキレイな夢を配るの」
「やめて・・・」
「だから、これは夢、こんなのは夢、私は夢の吸血姫」
「やめて」
「だから一緒に目を覚そう。いつか一三子さんの中の私の血が目覚めたら二人でデートしましょ。私達いつまでも一緒なんだから」
「やめて！」
「どう、一三子さん。まだ血は欲しくない？喉は渇かない？そうだ、一三子さん、私の血を吸って。素敵な夢をちょうだい。ね、吸って、ねえったら」
「およしっ！」
美夕の頬が一三子の平手に激しい音を立てる。
顔を背け、頬を押さえ、口を半開きにし、それまでのはしゃぎぶりがウソのように黙りこくる。
「さっ、セーターを着なさい。その手足の傷と・・・身体の傷、手当てしてあげるから私の家に行きましょう。お風呂にも入って、今夜は泊めてあげるから」
一三子は美夕の両肩をつかんで促す。
「御両親とラヴァの事は、気の毒に思っている。でも、今は自分の心配をなさい」
「あは・・・」美夕の肩が笑いの発作に震え始める。
クスクス笑い始めながら、美夕が上目使いに一三子を見上げる。
「見て、私を」大きく両手を拡げ、粘液と膿汁と血にまみれた身体を一三子にさらす。
「これが私よ。全ての神魔を狩り終えたら、お母さんの凍った時間が溶けて、又会えるって信じて生きて来た私」
ヒステリックな笑いの間に切れ切れに言葉が続く。
「ガラクタみたいな嘘だらけの夢を人間に与えて、その代わりに血を啜って生き続けて来た私」
笑い声はとどまることを知らず、その間に吐き出される美夕の声はかんだかく一三子の耳を突き通す。
「そのあげく、あんな汚らわしい神魔に凌辱されて、ラヴァまで奪われた私。
あーははははははははははは、あはははは、あーははははは、
挙げ句の果てに手元に残ったのは、何の意味もない永遠の命だけ。
あははははははははははははははは、ああああああははははははは、あはっあはっあはっあはっ、あはははははははははははは、
見て、一三子さん、これが私よ！」
あはははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははははは
第八章・代替わり
刻が咆哮した。
狂笑し続ける美夕の動きがふいに凍り付いたように止まった。
笑い声を吐き出していた口は、開いたまま凍り付いた。
こわばった表情で美夕を見続けていた一三子の目に、茫然とした表情の美夕の顔が写った。
「は、ウッ！」
開いたままの口から小さな呻きが漏れるや、美夕は眉を寄せ、歯を食いしばり、両手で腹を押さえ付け、その場に崩れるようにしゃがみ込んだ。
「美夕！」
何が起こったのか全く分からなかったが、全く異質の事態が起こり始めたらしい気配に、一三子は雪を蹴立てて駆け寄った。
「どうしたの！しっかりおしっ！美夕」
雪の上に腹を抱え込むようにしゃがみ込んだ美夕の裸の身体は、凄まじい痙攣を起こしていた。
一三子が美夕の肩に手を差し伸べようとしたその瞬間、
「があっ！」
獣のような叫びを上げるや、美夕は弾かれたように、背を弓なりに曲げてのけ反り、仰向けに自らの身体を雪上に叩き付けた。
「み・・・」
一三子は、思わず後ずさりりした。
抱き起こそうとした美夕のその両手で押さえ付けられた腹が膨れ上がり、内側から沸き立つように蠕動している。
仰向けになったまま、美夕はさらにのけ反り、押し潰された悲鳴を絞り出す。
「どうしたの、美夕！しっかりして。早く家に帰ろう！」
事態が全く把握できないまま、それでも美夕を抱き起こそうとした一三子は、痙攣するその顔を見て驚愕した。
美夕の顔が変わっている。
先程までは、狂ったように笑いこけていたとはいえ、それは十三歳の少女の顔だった。
今の美夕の顔は明かに成長していた。
それも見ているうちに。
胸が膨らみ、身長も伸びてゆく。
突然、回りの風景が変わっていることに一三子は気が付いた。
夕方に差しかかろうとしていた雪の広場が、紅い大気が満ち、ねじくれた異形の樹々の立ち並ぶ、黄昏の森に一変していた。
樹々の間を白い靄が漂う。
だが、いつもの森とは様子が違う。
美夕と一三子を中心に樹々の間に、白い靄の奥に密やかにざわめく奇怪な影の群れがあった。
一三子は独鈷杵を構えてすばやく立ち上がる。
いつのまにそこにいたのか、もがき回る美夕を見下ろして、枝のざわめく樹木のような巨大な影が立っている。
見上げた位置に鈍い赤光を放つ、大きな円があり、まるで目のように見える。
回りを見回すと、奇怪な影の群れの中に一三子は見覚えのある姿をいくつか見付ける。
あれは羅魘、傀儡女とその連れの人形、その他、美夕と関わり合った何回かの事件の中で見かけた神魔達。
「代替わりの時が来たのだ。美夕」
巨大な影から重々しく冷たい声が響く。
「美夕、おまえの時間はもう終わっている。最後の神魔を狩り終え、凍った刻が動きだした。身体が、朽ち果てる前に監視者の引き継ぎをしてもらう」
ばりっ！肉が引き裂ける音がし、美夕の絶叫が紅い大気をつんざく。
膨れ上がり蠕動する美夕の白い腹が裂け、蛙状の怪物の頭が突き出す。さらにその脇から刺だらけの蔦植物状の触手が涌き出す。
「長ね！あなた。美夕はどうなっているの！」
巨大な影に向かって一三子は叫ぶ。
「美夕は羅喉の子を産む。その中から新たな監視者が選ばれる」
事もなげに長は言い放つ。
「何ですって！」
女性は誕生時に最初から四十万個の原始卵胞をその卵巣内に秘めて産まれる。
思春期を迎えるとその一粒ずつが成熟を始め、月に一つずつが排卵される。
それは妊娠しないかぎり閉経を迎えるまで途切れることなく続く、女のさだめだった。
四十万個のほとんどは途中で発育を中止するが、それでも生涯に渡って排卵される成熟卵子の数は膨大なものになる。
美夕は初潮を迎える以前に刻が封じられ、全ての卵子は成熟を待って美夕の胎内で眠り続けていた。
今、凍った刻が流れ出し、加速された時間の中、美夕の胎内の卵子は次々と熟し、排卵され始めた。
それを生殖器内を充たし、溢れ、待ち受けていた羅喉の精液は片端から受精させていったのだ。
哺乳類、爬虫類、昆虫、植物、菌類、人間、環形動物・・・でたらめな生物達と羅喉の遺伝子の汚らわしい合の子が美夕の卵子を襲い、悪夢のような異形の胎児達がつぎつぎに成長し、美夕の腹を引き裂いて湧き出してきた。
自らの血の池の中で絶叫し、もがき続ける美夕から生まれ出た闇の子達は互いにあるいは喰い合い、あるいは吸収・融合を始めた。
美夕の背中が破れ、そこから這い出した牙の生えた蚯蚓が、美夕の腹から腸を引き摺り出して貪り喰らう。
樹木の根とも血管ともしれないものがうねりながら美夕を中心として紅い大地に広がり、羅喉の成れの果ての泡立ち淀んだ池に一端が接するや音を立てて飲み込み始める。
紅い大地に根を下ろした樹状の神魔が成長を始め、美夕の身体を貫いたまま、仰向けに全身を宙に持ち上げて行く。
既に成人の顔に変じた美夕はもはや叫びもせず、口をゆっくり開閉させながら、自分の子供らのなすがままにまかせている。
柔らかい腟壁を尖った硬い脚で押し開きながら、犬ほどもある虫の頭が這い出してくる。ぶよぶよとした腹部がそれに続いて現われる。
軟体動物の痕跡を残す神魔が身体のあちこちから出芽し、ボトボトと新しい個体を美夕の身体から地面へと振り落とす。
うようよと這い回る彼らを、待ち受けていた黒光りする蛭が貪る。
後から後から湧き出す闇の子達に美夕の皮膚は内側から次々と破れる。
だが、加速された時間の中、吸血姫の強靱な回復力は見る見るその傷口を回復してゆく。動植物性の神魔に喰われ続け、菌性の神魔にむしばまれ続ける内臓も見る見る新鮮な姿に回復する。
美夕には死すら許されない。
回復したばかりの身体もしかし、新たな牙の、根の、触手の餌食となる。
その闇の子達は更に喰い合い、融合し合い、強靱な姿へと変じてゆく。
おぞましい殺戮を中心に、白い靄の渦巻く紅い大気の中、神魔達は丸くとりまいて微動もせず見守る。
静寂の中、美夕の身体が裂け、闇の子達が貪り合う音だけが低く漂う。
「見よ。ああやって、最後には勝ち残った最強の子供が選ばれる。それが次の監視者になる」
長が一三子に語りかける。
「あんな」ゴクリと唾を飲み込む。
「あんな奴が監視者に・・・」
「監視者は吸血姫の血を引く者でなければならぬ」
身体を貫かれ、宙吊りになった美夕の仰向けになった顔が一三子の方を向いている。
汚れ果て、長く垂れた髪に白いものが交じり、萎びた皮膚にシミが浮き始めている。
すでに腐敗を予感させる甘ったるい匂いさえ漂よって来る。
それでも新たな闇の子達は生まれ続け、その顔は大きく小さく揺れ続ける。
変わり果てた美夕が、その目を一三子に向けている。
一三子もその瞳を直視する
弱々しい金色の瞳だった。
そのまま口を開き、顎の先が震える。
声は聞こえない。
唇がゆっくり動いている。
一三子は美夕の瞳を直視し続ける。
ざわめきの中、一三子の目に耳に言葉が浮かぶ。
た す け て
「助けて上げることは、出来ないの？」
一三子は長に縋り付く。冷たいごつごつした堅い感触。
「無駄だ。それに美夕の身体はもうじき崩れ落ちる。本来あるべき姿にな」
冷たく重々しい声。
「それでも」
一三子は両手をこぶしにして長の身体を叩く。その瞳は美夕を見つめ続ける。
「助けてあげて。せめて、もうやめさせて！」
低い笑い声がゆっくりと地の底からのように響く。
回りを囲んだ神魔達が自分を見つめていることに、一三子は気付く。
長の赤い目が自分を見据えている。
含み笑いが止み、長が語りかける。
「美夕を助けて欲しい。それがおまえの望みか？」
有無を言わさぬ語調だった。一三子はゆっくりうなずく。
「ただ一つだけ、すべがあるぞ」
長と神魔達の視線が物質化して一三子の全身を貫く。
「不死の女よ」
黄昏の森に重なり合った空間の黄昏の残光が雪を紅く染め上げる。
どこからが紅い空間で、どこからが冬の雪原かの区別も定かではない。
雪面の乱れも羅喉の崩れた池もない。
掃き清めたようななだらかな雪がひろがっている。
その雪の上に、美夕は幼く華奢な身体を横たえている。
一糸纏わぬその身体にシミひとつも汚れもない。
脇に腰を下ろした一三子は、左腕でそっと美夕を抱き上げる。
美夕の頭をハイネックのセーター越しに一三子の心臓の上の乳房が柔らかく受ける。
つややかな栗色の髪が一三子の腕を流れる。
美夕がゆっくりと目を開く。
茶色の瞳が穏やかに見下ろす一三子の顔を見上げる。
「一三子さん」
一三子はうなずく。空いた右手で美夕の小さな左手を握る。
「ごめんね、一三子さん」
・・・腕の一振りで羅喉の子達を消し去った後、美夕と一三子を残して、神魔を引き連れて立ち去る時、長は語った。
「我らも羅喉などには監視者を引き継がせるつもりはなかった」
「それじゃ・・・」
「これは、おまえへの礼だ。美夕の汚れと、年齢とは元に戻した」
樹の枝のような腕を伸ばして倒れ伏す美夕を指し示す。
「ただ、刻の流れだけはどうすることもできぬ」・・・
「いいのよ」
一三子は首を静かに振って美夕に答える。
「私が選んだことだもの」
一三子の首に美夕の右腕が伸び、身を起こし、抱きつく。
一三子もその軽い身体を抱きしめる。
「ごめんね」
「いいの」
一三子の右手に包まれた美夕の左手が、海岸の砂のようにサラサラと指の間から逃げて行く。
しなやかに伸びるその足も、爪先から空間へと白い靄となって溶け込んで行く。
「一三子さん」
つ、と、身を離し一三子の顔を間近に見つめる。甘やかな少女の吐息が鼻をくすぐる。
「うん？」
「約束、覚えていてくれたんだ」
「約束？」
不審げな一三子の表情に美夕は弱々しくほほえむ。
「いいの。ねっ、一三子さん、笑って」
「笑う？」
「一三子さんの笑い顔って、私見たことないの。笑って、一三子さん」
美夕の足は既に膝から先が消えていた。左手も今では肘の先はなく、一三子の右手はすでに美夕の背に移っていた。
一三子は再び美夕をきつく抱きしめる。
「だめ、出来ない。美夕」
美夕は抱擁をする一三子の頬に、頬擦りをする。
「それじゃ、最後のお願い。一三子さん」
一三子は腕を弛め、美夕の顔を見つめる。
そのやるせない表情に、美夕はほほえみかける。
「私の血を吸って。私、一三子さんの最初の糧となりたい」
一瞬、一三子の顔がこわばる。二人の視線が交差する。
ゆっくりうなずくと一三子は唇を美夕の喉元に沈める。
しばし二人は動きを止める。
一三子は唇を離し、美夕の頭を左の乳に押し付けるようにかかえ直す。
右手の指で美夕の髪を梳く。
美夕は目をつむって一三子の手を受ける。その喉から血の糸が伝う。
「美夕、最後に教えて」
胸の中で、こくんと小さく美夕がうなずく。
「きのうホテルに送ってくれる前に、この森で、私はまだここの人間じゃないからって言ったわね。まだ、って」
再び美夕はうなずく。
「私を、だましたのね」
そっと美夕の顔を持ち上げる。
見上げる美夕の茶色の瞳を、やるせないほほえみをたたえた一三子の金色の瞳が迎える。
美夕の口元に笑みが浮かぶ。
「悪い子」
一三子はもう一度、きつく美夕をかきいだく。もう腰から下は消え失せている。
「本当に悪い子」
美夕は静かに目をつむり、その口がかすかに動く。
「ごめんね」
ささやきが一三子の耳に伝わった時、すっと腕の中で美夕の姿は消えた。
白い靄が、かきいだいたままの形の一三子の腕の間から、流れだす。
靄は黄昏の森の紅い大気に漂う白い靄へと迎え入れられるように溶け込んで行く。
ねじくれた樹々は消え、紅い大気は薄れ、一三子は只一人、雪の原に腰をおろしたままに残される。
濃紫に染まった空の下、黄昏の残光が雪を燃えるように染め上げていた。
終 章・黄昏の森
どこからとも知れない光に紅く照らされた大気を背景に、ねじくれた異形の樹々は黒々としたシルエットを浮かべていた。
樹々の隙間を満たす紅い大気は、永劫の静寂を伴ってその色を瀬 一三子の瞳に映す。
この黄昏色の森の中、動くものといえば樹々の間を漂う白い靄のみだった。
一三子は樹々の一本の太い枝に腰を下ろし、幹にその背をもたせ掛け、うっすらと瞳を開き、聞こえるはずのない声に耳を澄ませる。
白い靄のひとむれが、一三子の頬をなでて過ぎ行く。
ほの甘く、くすぐったい香り。
一三子の頬に微笑みが浮かぶ。
髪を撫で、そっと耳朶に触れる。
紅いピアスが黄昏色の光を燃えるような点に映し、輝く。
腰を下ろした枝の先に吊るした銀のネックレスが一三子の動きに揺れ、ちらちらと光を瞬かせる。
一三子はいつも思い出す。
ひろがる雪の中、つややかな髪と華奢な身体を一三子の腕に預け、茶色の瞳で一三子を見つめ続けた少女を。
請われるままに、少女の細い喉に唇を当て、その喉を一三子は口を開いてくわえこむ。
歯は細い牙と化し、教わりもしないのにやすやすと少女の喉に沈み、血管を貫き、一三子の口腔内は少女の血で満たされる。
一三子はいつも思い出す。
口に溢れた美夕の血が、甘く、そして熱かった事を。
冷たい手で抱きしめたその身体が暖かかった事を。
最後にその瞳を閉じる瞬間、美夕が確かにほほえんだ事を。
その、ほほえみだけが一三子の心の救いとなっていることを。
黄昏の森は吸血姫の森。
紅い大気の中、白い靄をまとい、吸血姫はいつも一人。
了
中休み
ここまでお読みいただいてありがとうございます。
作品「夜の仔猫」は「黄昏の森」と二つで一つの世界が物語られるべく構成になっております。
もともとは同人誌サークル「チェリー・ブラッサム」さんからの依頼により、執筆されたものです。
最初、同人誌「春画」（1992年2月9日発行）に「夜の仔猫」が掲載され、その続編という形で「黄昏の森」を執筆したのですが、書きたい事を全て盛り込んで書き進めた結果、制限枚数を大幅に越えてしまい、おまけに主催者さんの予想以上に残酷になってしまったので予定していた本に掲載不能となってしまいました。
（チェリー・ブラッサムの藤原結実様、当時は御迷惑をお掛けして申し訳ありませんでした）
その為、急遽、別の短い続編を書く必要に迫られて書いたのが、次のページからの「夜明けの森」です。
これは同人誌「伽」（1992年12月30日発行）に掲載されました。
（また作品「黄昏の森」も藤原結実様の御厚意で単発のコピー誌として1993年1月15日に発行して戴きました）
執筆のきっかけは、以上のような慌ただしいものがあったのですが、いざ書いてみるとこちらの物語世界も結構気に入ってしまいました。
「夜の仔猫」のもう一つの結末として楽しんでいただければ、幸いです。
夜の仔猫・二 夜明けの森
あっけない最後だった。
闇を逃れた最後のはぐれ神魔・羅吽は人間世界の片隅で監視者どころか人間の目をも避けるがごときささやかな生活を営んでいた。
抵抗らしい抵抗すらせず、宿主であった老人・黒木の身体から引きずりだされ、蛆虫のようないじましい姿を美夕の生み出した炎で炙られ、闇へと通じる虚空の六角の門の向こうへと吸い込まれていった。
あまりにも弱々しい存在であったがゆえに、かえって最後まで美夕の探索の手から逃れてこれたのだった。
冬の深夜の地方都市の袋小路で起こった小さな活劇は幕を閉じ、ポリバケツの列を倒して雪の路面に倒れ伏した黒木のしなびた死体は不幸な行き倒れとしか見えない。
「終わったのね」
素足でアスファルトの上に積もった雪を踏みしめ、美夕は大きく吐息をつく。
後ろに控えた黒衣の下僕は、無言の仮面でうなづく。
美夕は後ろをふりかえり、腕を下僕の肩へと差し伸ばしながら語りかける。
「ラヴァ、鎌倉へ帰ります」
凛とした声にラヴァは大きく右腕を拡げ、美夕の小さな姿を黒衣の中に抱きかかえる。
これまで何千回行なってきたしぐさであったろうか。
冷たくしなやかな腕が首に巻き付き、美夕の小さな顔が仮面の間近に迫る。
薄い衣の下の華奢な身体が太い腕へと身を預ける。
甘やかな少女の吐息が仮面の鼻腔をくすぐる。
みるみる周囲に紅い大気が広がり、ねじくれた異形の樹々の立ち並ぶ森が姿を現す。
黄昏色の紅い大気に満ちた森の静寂を歩む中、腕の中のやわらかな重みはものを語ろうともしない。
ただ、その心臓の早まる鼓動が、何度も唾を飲み込むゴクリと鳴るのどの震えが、肌を通して伝わってくる。
やがて紅い大気が左右に分かれ、満月と降るような星空のもと、雪の降り積もった灰色の大地に屋敷の姿が黒々とあらわれる。
美夕はラヴァから滑りおりる。
一旦立ち止り、弾む息を整える小さな後ろ姿を、ラヴァは見守る。
意を決して少女は黒い屋敷へと歩き始める。
玄関のドアを両手で押し開き、窓からの満月の光にぼうっと輪郭を浮き上がらせた暗い屋敷内を、つぎつぎにドアを襖を開きながら進む。
足並みが早まる。
ほどなく大きなドアの前に辿り着く。
両手で胸を押さえ、しばし少女は立ちすくむ。
後ろを振り返り、ラヴァが控えているさまを、すがる目で確認する。
ひたむきな視線に捕えられた下僕は小さくうなづく。
ゆっくりと美夕は顔を戻し、両手をドアのノブに掛け、一呼吸置き、静かに引き開ける。
冷たくガラス状に凍り付いた時間の中、和服姿の男女が天井に逆さに立ち尽くしている。
茫然とその姿を見上げ、やがて美夕はひたり、と、両手を顔を全身をガラスの表に貼り付ける。
そのまま、力なくガラスに沿って崩れ落ちる。
大きく痙攣する息が美夕の口から漏れ始める。
その肩へとラヴァは手を伸ばしかける。
「ラヴァ」
背中を見せたまま放たれた静かな言葉に、その手は虚空でとまる。
「こうかもしれないって、思ってはいたの」
片手を床につき、身に力を込めて美夕は立ち上がる。
その背をガラスにあずけ、美夕はラヴァと正面から向き合う。
震える息とうるんだ目で、美夕は遥かに大きなラヴァのもの言わぬ仮面を見上げる。
二分、三分、刻が過ぎて行く。
美夕の口は、まるで水面の金魚のように、何度も大きく空気を飲みくだし、苦しげに吐きだす。
「長っ！」
ふいに美夕は周囲の空間に向かって絶叫する。
「聞いているんでしょ。出てらっしゃい！」
叫びは荒れた屋敷の中に虚ろに吸い込まれる。
「もう終わりよ。私はラヴァを帰したりしない。どこまで私から奪いつくせば気が済むの。出て来てっ！」
叫び続けても答えるものはいない。静かな冷たい空気が淀んでいるだけで、その空気を乱すものが現われるきざしはない。
「出てきて、お願い。出てきて・・・おさ、姿を見せて。お願い」
既に叫びは絶え、哀願の呟きが漏れる。あふれる涙は震える口元のきわを伝い、おとがいにしずくを結んだ後、着物の襟へとしたたり落ちる。
しん、とした闇の中、美夕の呼びかけに答えるものはいない。
ゆっくりと美夕はその場に崩れ落ちる。
床の上で両のこぶしを握り締め、うなじを天井に向けて額をこぶしへと押し付ける。
「お願い・・・おねがい」
ささやき声となった美夕のもとにラヴァは音もなくひざまづき、震える小さな肩ごと美夕の上半身をかかえ上げて自分の膝の上に抱きとめる。
まるで仔猫をあやすように、その背を静かに撫で始める。
美夕の吐息の音が断続的に大きくなったと思うや、ついに号泣の声が上がる。
どれぐらいの時間がたったろうか。
しゃくり上げる声がようやく収まってきていた。
「ありがとう、ラヴァ」
冷たい美夕の手が、その背を撫でるラヴァの腕を押さえる。
「あなたは闇に帰さない。これから私と一緒に、この屋敷で暮らしましょう。あなたがいなくなったら私、生きていたくない」
美夕はおもてを上げ、見つめるラヴァの赤い瞳を、泣きつかれて赤い目が見つめる。
「お母さんには会いたい。だけど、あなたがいないとだめなの。いや？ラヴァ。わたしが嫌い？下僕となったことを恨んではいない？」
ラヴァの動きが凍り付く。腿の上に両手を置き、ま近に見上げる美夕の顔を凝視する。
「もうラヴァは自由なのよ。解放してあげる。あなたの本当の気持を聞かせて。あなたが私の狩らなければならない最後の神魔なら・・・私を殺して！」
小さな両手で広いラヴァの両肩を掴み、揺さぶりながら美夕は掻き口説く。
「あなたのしたいようにしていいの。お願い、選んで。選べないなら私を今、殺して」
思いつめた瞳で、もの言わぬ仮面を凝視し、美夕は言葉を切る。
何分の刻がたったろうか。
ラヴァの赤い爪の生えた両手が持ち上がり、美夕の両頬をそっと包む。
両親指が目尻に浮いた涙をぬぐい取り、そのまま頬のふくらみを手の平で圧する。
小さな薄桃色の唇が軽く開き、小粒な歯が奥に覗く。
ラヴァの両手は美夕の頬を撫でおろし、細い首を滑り、肩を経て、背中へと腕を回して行った。
そのまま静かに小さな身体を我が身へとかかえ込む。
「ラヴァ・・・ラヴァあっ」
喜びに震える声を上げて、美夕はラヴァの首を掻きいだく。
静かな生活が始まった。
もはや神魔を狩ることもない。
常人には見えない封印をされた屋敷にも毎日朝は訪れ、雨戸を開け、掃除をし、書物を読み、あるいは散策し時を過ごす。
荒れた屋敷も少しずつの手入れで、生活の匂いが漂いだす。
時に訪れる喉の渇きに近郊の町を訪れては、昼、夜を問うこともなく好みの若者を見付けては、その血を啜る。
その後ろには黒衣の下僕がつき従う。
張り合いのない、毎日が過ぎていった。
闇からの長の訪れを予感させるきざしは全くなく、彼らはとうの昔に忘れ去られているかのようだった。
美夕はもはや髪を頭の左に結い上げることもなくなり、長く垂らした髪を揺らしながら、日々を静かに営なむ。
「これでいいの、私は監視者として神魔達が眠り続けるのを見守っているのが定めなのだもの」
いつか静かな夜、広い和風の居間で美夕はラヴァにもたれかかり、自分に言い聞かせるように呟いたこともある。ラヴァは何も語らず美夕の小さな肩に手を重ねる。
しかし、時に美夕はラヴァを遠ざけ、ドアを開けはなったガラスの部屋の前に座り込んだまま、溜息をつき果てしなく時を過ごす。
ガラスのおもてに頬を寄せ、手の平でその冷たい面をなで回す。
あるいは額をガラスの面に預けたまま、いつ止むとも知れぬすすり泣きを続ける。
姿を隠しながらラヴァはそんな美夕を見続けていた。
季節は巡り、いつか木々の先々に春の兆しが芽を見せ始めていた。
瀬 一三子は東京Ｓ区のマンションの小さな一室で暮らしていた。
暮らしの糧は多民族都市新宿シティーの片隅のいかがわしいビル群の中にかまえた事務所で、占い、除霊、行方不明者捜しのなりわいを一人で営んで得ていた。
高度にシステム化された社会とは言え、闇を怖れ、霊魂の世界に救いを求める人々の絶えることはなく、一人で暮らして行く分には何の不足もない収入は得られる。
このマンションにいつの頃から一三子がいたのか知るものはいない。
人間の移動の激しいこの一帯、それを知るよしもない。
古くからこの街に住む者の中には一三子のこの街での経歴の長さと、その若々しい外観との差に奇異の念を持つものもいたが、彼らも一三子が人工的な体組織活性法を施しているものだと、みずからを納得させていた。
絶えることのない仕事の合間の今日、一三子は絹の長袖のブラウスとウールの上物のロングスカートで、落ち着いた休日を過ごしていた。
オイル・ヒータで暖ためられた室内は、まだ寒い屋外とは別天地の居心地のよさを与えていた。
夕食後の片付けが終わり、コーヒーを入れて、好きなブルースをかけ、ソファーでくつろいでいると、来客を告げる静かな電子音が鳴った。
飲みかけのコーヒーを口に含み、手元のコンソールに触れるとスクリーンに玄関に立つ来訪者の画像が映る。
思わず一三子はむせ返りそうになる。
カップをソーサーに置くのももどかしく、ソファーから立ち上がり、玄関へと急ぐ。
慌ただしく開いたドアの向こうに、髪をおろし、桔梗の柄の和服姿の美夕が立っている。
「美夕っ！」
茫然とした一三子の表情へと、美夕ははにかんだ微笑みを返す。
「こんにちは、一三子さん」
「どうしたの。とにかく中に入りなさい」
促されて美夕は草履を脱ぎ、白い足袋の足でカーペットに上がる。
リビングの大きなガラステーブルを前にしたソファーに案内され、大人しく腰を下ろす。テーブルには飲み掛けのコーヒーカップが乗っている。
「何か飲む？コーヒー？、ミルク？それとも」
一三子は唇の端を歪め、切り揃えた髪を軽く持ち上げてしなやかな頚をさらす。
「血？」
美夕も釣られて笑う。
「おいしそう。だけどコーヒーがいいわ」
皮肉っぽい笑いを浮かべ、一三子はキッチンへ向かう。
ちょうど多目に作っておいたポットのコーヒーを新しいカップに注ぎながら、一三子はリビングへと声を掛ける。
「どうしたの、今日は。私はおまえの敵のはずでしょ」
「一三子さんに、とても会いたくなったの」
「へえ」
パレットにカップとミルクと砂糖の容器を載せて一三子がリビングに戻ってくる。
美夕は礼を言って目の前に置かれたカップを取り、一口含む。
一三子は立ったまま、美夕の様子を見つめる。
「おいし」
「でしょ、たっぷり毒を入れといたから」
「すてき」
美夕と一三子は視線を絡ませ合う。
どちらからともなく、微笑がこぼれる。
一三子はソファーの美夕の右隣に腰を下ろす。
「一三子さんって、いつも元気なのね」
「そおよお、いつまでも若くて元気な一三子さんよ。誰かさんのおかげでね」
「どおして？」
「うん？」
「どおして、そんなに生き生きしていられるの」
「しょうがないじゃない。生きているんだから」
美夕はコーヒーの黒い水面に目を落とす。
一三子は眉を寄せ、首をかしげる。
「どうしたの、美夕。いつもの憎たらしいほど自信のあるおまえじゃないじゃない」
「うん」
美夕は視線を一三子へと移す。
「ねっ、一三子さんの生きがいって何？」
一三子の唇の端が痙攣したように持ち上がる。
「おまえを倒すことよ」
ソファーの背に乗せた左腕をずらし、美夕の左肩をしっかりと左手で掴む。
間近から毅然と見つめる一三子の顔を美夕は怖れる様子もなく見上げる。
「それで、私を倒したら、そのあと一三子さんはどうするの？」
一三子が息を飲む音が聞こえた。
沈黙が続いた。
「美夕」
沈黙を破ったのは一三子の方だった。
「何があったの？」
美夕は上目使いのまま語る。
「神魔狩りが終わったの」
言葉の意味がゆっくりと一三子の中に広がる。
「終わったの？」
我知らず問いの言葉は囁き声となる。
こく、と美夕はうなづく。
美夕の肩をつかんだ一三子の手から力が抜ける。
美夕と顔を見合わせたまま、一三子は大きく溜息をつく。
「おめでと」
右手でそっと美夕のおとがいを持ち上げる。
「それで？」
「だから私、一三子さんに会いたくて・・・来たの」
「なぜ？」
「分からないの。どうしたらいいのか」
一三子は美夕から手を離し、横向きにソファーに身をもたれかける。
「話してごらんなさい」
小さくうなずくと、美夕は語り始める。
時おり、一三子はカップに手を延ばすと黙ってコーヒーを口に含む。
「お母さんに会いたいの。会いたいのに・・・でも、だめなの」
いつか美夕は泣きじゃくり、すすりあげていた。
腿の上で両手を堅く握り締め、下を向いた顔から涙がそのこぶしの周りの着物に点々としみを作っていた。
ふいに一三子は鼻をならす。
「いい気なものね」
美夕は茫然と顔を上げる。
「甘えんぼ。それで私のところに泣き付きに来たの？私が慰めてあげるとでも思っていたの？なめるんじゃないわよ」
「最後の最後でおまえはガキよ。使命を果たし終わって、いつまでもダラダラと甘い生活を続けるつもりだったの？いつまでも。そのうち、やさしい誰かがおまえを助けに来てくれるとでも思っているんでしょう！自分で選ぶことも出来ずに」
「それで今はどうなの。はぐれ神魔を戻し終わったおまえは、只の吸血女じゃない。相変らず調子のいいことを言って、弱虫のキレイな子にガラクタみたいな夢をあげて、血を啜っているんでしょう」
美夕の口はわななくように震え、一三子を見つめる。
「違う、私は夢を望んだ者にしか与えて・・・」
「ふざけないで！いいかげんにおし。このウソツキ。おまえは自分より弱い者しか相手にしないんでしょ。優越感一杯でせせら笑いながら、うまいこと言って人間をひっかける魔物じゃない。私は何よ！いつ私が永遠の命やら、幻の幸せなんか望んだというの。小さくて抵抗出来なかった子供だった私を、おまえはただ餓えていたから襲ったんじゃない。ただの欲望に溺れたケダモノよ。自分で自分を騙しているだけでしょ！」
美夕は口をつぐむ。
「おまえは卑怯者よ。性にも関心があるくせに、自分の体温が低くて生身の男の子や女の子と身体を重ねる事が出来ないからって、事情を知っている私の自由を奪ってこの部屋で犯したわね。色キチガイ。おおかた、あのラヴァともやりまくっているんでしょ」
「そんな！」
美夕の声が怒りで鋭くなる。
「私はラヴァとは一度も身を重ねていない。取り消して、一三子さん！」
「へえっ」
一三子はせせら笑う。
「じゃあ、おまえはもっと卑怯者よ。おまえは自分から身を投げ出そうとは決してしない。いつも安全な高いところにいて、下の方から餌食がおまえの方に這いずって来るのを待つだけ。本当は一緒になりたいくせに怖くて絶対に自分から挑むことはしない。鼻持ちならないガキよ。自分の気持すら偽り続けて。こんな奴に私は・・・」
腕をきつく組み、感情が高ぶり言葉を失って睨み付ける一三子の視線を避けるように、美夕は視線を落とす。
どれほどの時間がたったろうか、ようやく美夕は囁く。
「ごめんなさい、一三子さん。あなたを犯したこと、悪かったって思っている。あの時、つらい事があったの」
ホッと息の漏れる音が聞こえ、美夕は顔を上げる。
やるせない顔で一三子が見つめていた。その口元に弱い笑いが浮かぶ。
「いいわよ。おまえ、初潮もまだの子供だったってこと忘れていた」
一三子は立ち上がり腕を伸ばし、美夕の腋の下に手を差し入れて立ち上がらせる。
「いくら言っても、仕方がないわよ。おまえ成長しないんだもの。どうしていいかわからなかったんでしょう？誰にも相談出来なかったんでしょう？だから、私のところに来たんでしょう？」
怯えた瞳がかすかにうなずく。
「今のおまえは抜け殻よ。あんなに遠いところにいたのに・・・おいで、慰めてあげる」
一三子は美夕の手を取り、ベッドルームにうながす。
「懐かしいでしょう、おまえが私を最初に抱いたベッドよ」
その言葉におずおずと見上げた一三子の顔が皮肉っぽく歪んでいるのを見て、初めて美夕はほほえみを浮かべる。
「ごめんね」
ささやくような声だった。
一三子は掛け布団を剥ぎ、シーツの面をあらわし、美夕を腰掛けさせその隣に身を接して座る。
「どお、美夕。大人の女を一対一で相手する自信、ある？身体の自由を奪わないで。本当はおまえ、性が怖いんでしょ」
美夕は、はにかむ。
「そのことは言わないで、一三子さん。私、本当は一三子さんにあったかく抱いて欲しかったの。性行為は・・・いいの」
「犯されながら私がどんなに悔しかったか教えてやりたいのになぁ」
微笑みを浮かべたまま、一三子は軽い美夕の身体を大きな縫いぐるみであるかのようにかかえて、ベッドの上に仰向けになる。美夕はかかえられたまま一三子の上に顔を向き合って横たわる。
おずおずと手を伸ばして一三子の身体を抱く。すべすべした絹のブラウスを通して、しなやかで弾力のある一三子の身体のぬくみが伝わる。
「あったかあい」
さらにその顔を一三子の髪に埋め深く息を吸う。
「一三子さんのかおり、大好き」
一三子は美夕の背に手を回し、チラとベッドサイドの棚に目を走らせる。紫の布の上で独鈷杵が鈍い光を放つ。
美夕の肩幅は一三子より丸々ひとまわりも小さい。
やわらかな重みを全身で受ける。服地を通して冷たい異様な体温が伝わって来る。
一三子の手は美夕の尖った少女の肩甲骨を、その下の肋骨の並びを一本ずつまさぐる。
「おまえ、かわいそう。こんな冷たい肌じゃ、気に入った子とも肌を触れ合う事も出来ないものね。ごめん、きつい事言って」
「ううん。ねっ、一三子さん。これからも時々来てもいい？」
「ええ、いつでもおいで。おまえって・・・迷子の仔猫みたい。怯えて、頼りなくて、甘えんぼで、わがままで」
「一三子さん、私がきらいなのに・・・」
「ええ、大っ嫌い」
つややかな美夕のロングヘアーに一三子は指を掻き入れて梳く。
髪は指の股を流れ、ひやりと濡れたような感触を残す。
「私、前から考えていたの。おまえがラヴァを闇に帰して、凍った時間が流れだしたら、おまえは人間の時間の中で、それぞれの年齢の体験をしていって大人の女の心になってゆくのかなって」
美夕は一三子の頭のきわの枕に乗せていた頭を持ち上げ、語る一三子の横顔を見つめる。
「私のこと、そんな事まで考えていたの？」
「いやでも思いだすの、おまえの事。そして、おまえは私の歳を追い越してゆくの。私はそんなおまえを今の姿のまま見送るのよ」
言葉を切り、一三子は美夕の視線を避け、首を横に向ける。
美夕からは白い喉の盛り上がりしか見えない。その喉が長い溜息に震える。
「一三子さん、かわいそう。泣いてるの？」
一瞬、一三子の全身が硬化する。その気配に美夕も身をすくめる。
ゆっくりと、溶けるように一三子が力を抜く。
再び首を回して、一三子は美夕を見つめる。そのつやのない瞳に美夕は言葉を失う。
「ううん、泣いてなんかいない・・・ねっ、美夕。私の血を飲んでもいいわよ。血を吸われるのって、とっても気持いいんでしょう」
「えっ」
美夕は丸い目を見開く。
「いいの？」
「いいのよ。でも変な夢なんかは呉れないで。ゆっくり、お吸い」
そう言うと一三子は顔を横向け、片手で髪を撫で上げ、はりのある首筋をさらす。
ゴクと美夕の喉が鳴る。
おずおずと唇を近付きかけ、ふと止まる。
「どうしたの、美夕。遠慮？」
一三子は緊張を秘めた声で、横目で美夕の様子を眺める。
「このブラウス、シルクでしょう。血が流れて汚れるかもしれない」
「なんだ」
軽く鼻を鳴らし、一三子は手探りでボタンを外して大きく前をはだける。
美夕もブラウスの襟を一三子の肩の後ろへとたくし込む。
「一三子さんの胸って、お母さんより大きいね」
うっとりと美夕は呟く。
「ばか」
一三子のからかいの口調に、美夕は含み笑いをし、再び一三子の身体を抱きかかえ、静かにその喉に唇を寄せる。
ひんやりとした柔らかい唇が喉に触れ、大きく開いてくわえ込み、その真ん中をひらひらと舌が舐める。すっ、と顎が閉じ、かすかな痛みが首に走る。
肌の上を舌が何度も這い、美夕の喉がゆっくりと鳴る。
蠱惑的な震えが、一三子の全身を走る。
美夕は赤ん坊が母親の乳房をふくむように、目をつむり、血を飲む。
一三子の右手がゆっくりとベッドサイドの棚に伸びる。
音も立てずに独鈷杵を取り出す。
左手は無心に血を啜る美夕の左の肩甲骨の下あたりを撫でる。
美夕の鼻から息継ぎのあえぎが聞こえる。
美夕の背中の上で、高々と一三子の両手が独鈷杵を下向きにかまえる。
ゴクリと一三子の喉が鳴る。
「美夕、私の血、おいしい？」
震える声で一三子は声をかける。
目をつむったまま美夕は、こくんと軽くうなずく。
「そお、よかった・・・ネッ！」
一三子は思いきりの力で独鈷杵を美夕の左の肩甲骨の下に突き立てる。
「ぎゃああぁっ！」
弾かれたように美夕は絶叫してのけ反る。口一杯の一三子の血が噴水のようにあたりに振りまかれる。
一三子は手を弛めず、力任せに横に転がり美夕の上になる。
背中に独鈷杵を突き立てた美夕の胸の上に自分の体重を預け、全身を折り曲げて、さらにさらにと美夕の肋骨の間へと独鈷杵を突き入れる。
「死ねええ！吸血鬼！魔物おっ！！」
歯を食いしばり、髪からは浴びた血飛沫をしたたらせ、般若の形相で一三子は美夕の身体を押さえ込む。
「ああああああああああああーーーっ！」
絶叫しながら美夕は、血でぬるぬる滑る手で一三子をもぎ離そうとあがく。
「おまえの為に私は・・・私がどんな思いでこれまで生きて来たか、おまえなんかに分かるもんか！なにがかわいそうだ。ばかやろお！死んじまえっ、このバケモノっ！」
「んああああっ！」
美夕は両腕を一三子の肩に回し、吸血姫の怪力を込める。
ボギッ！と鈍い音がして一三子の腕の骨が折れる。
悲鳴を上げ、ひるんだ一三子を床へと蹴り落とし、美夕はよろよろとベッドの上に立ち上がる。
激しくせき込むと、霧のように血しぶきが口から吹き出す。
腕を回して背中から独鈷杵を引き抜く。
えぐり抜かれる痛みに、奥歯が音を立てるほどに歯を食いしばる。
床ではうめきながら腕をおさえ、一三子が身を起こす。
「どおして・・・どおして、一三子さん。信じていたのに」
悲痛な声でうめき、血のしたたる独鈷杵を右手にぶら下げ、ベッドから降り、震える足で一三子へと近づく。
返り血で上半身を紅く染め、一三子は壁に背を預けて立ち上がる。
「殺しなさい、美夕」
昂然とおもてを上げ、一三子は痛みのあまりしゃがれた声で、それでも目は輝かせながら言い放つ。
「今、私を殺しておかないと、後悔するわよ・・・バケモノ。自分の姿を見てごらん」
一三子は顎で、壁に貼られた大きな姿見を示す。
美夕は鏡に写った自分の姿を見た。
振り乱した長髪が顔に掛かり、その口から顎、胸にかけて血まみれにそまっていた。両手も血まみれだった。
「それが、おまえよ。血をむさぼるだけの甘ったれのバケモノ」
美夕の手から独鈷杵が落ちる。
傷は心臓までは達していなかった。が、背中からの出血は着物を伝い、裾までを真紅に染め上げていた。
「私はおまえを絶対に許さない。必ず追い詰めて倒す！」
血走った一三子の凝視を避け、美夕は大きくあえぎながら、室内に紅の森への門を開く。
その中へとふらつく足で逃げ込む。次の瞬間、門は閉じる。
その耳に一三子の言葉が木霊する。
「私を殺しなさい！」
傷はラヴァの念入りな手当てと、吸血姫の回復力で二日、床についただけで完治した。
一三子への報復を計ろうというラヴァを気配で察し、美夕はきつくそれを禁じた。その事以外では美夕は口をきかずにじっと二日間、床についていた。
回復への休息の間ずっと、枕元にはラヴァが侍っていた。
眠る時以外は、目を見開いて横になり続ける。時に枕元のラヴァを長々と見つめ、また目をそむける。その表情からは何も読み取れない。
二日目の夕方、黄昏の光が斜めに差す頃、美夕は身を起こし、ラヴァが運んできた椀一杯の新鮮な血液を飲み下した。
飲み終えた後、美夕は枕元の盆から手鏡を取り、自分の顔を写す。
青褪めた顔に唇だけが血を含んで赤い。
口を開き、指で唇をまくり上げて口中を写す。
血まみれの口膣内にやはり血まみれの舌が震え、オレンジ色に染まった歯と歯茎の間を血が彩っている。それは魚の腹を開いたさまを連想させる。
手鏡を盆に戻すと、美夕は立ち上がり、枕元のラヴァに湯に入りたいと告げる。
ま新しい純白の寝巻を用意して風呂場に臨み、ラヴァが準備した新しい湯で丹念に身を清める。
白い寝巻を隙なく身に付けた後、鏡に向かい、髪を頭の左にきつく結い上げ、垂らした髪は新しい真紅のリボンを巻いてまとめる。
寝室に戻り、ふすまを開ける前に、美夕は一瞬ためらう。
チラと付き従うラヴァへと目を走らせ、そこで待つよう告げる。
先程まで寝ていた布団から、掛け布団を剥ぎ、足元に畳む。
敷き布団の上を撫でて皺を伸ばす。
今までの枕を取り除き、新しい枕を二つ出し、頭のところに並べる。
その枕の前方の敷き布団の上に美夕は正座する。
もう一度身を整え、息を落ち着ける。
「来て、ラヴァ」
ふすまの外で待っていたラヴァに、凛とした声で呼びかける。
ラヴァは音も立てずに、部屋に入ってくる。
「ここに座って」
美夕は敷き布団の自分の目の前の位置を指し示す。
座って対峙しても、やはりラヴァの体躯は見上げるほど大きい。
金色の瞳と赤い瞳が一直線に結ばれる。
ゴクリと美夕の喉が鳴る。
「ラヴァ、決めたの。明日の朝この家を出ます。私はあなたを闇に帰します」
ラヴァの身体にかすかな動揺が走る。
「だけど、ラヴァ。あなたも私を同時に闇に送って。闇の中で一緒に永遠に眠りましょう。監視者の私が消えて、最後のはぐれ神魔のあなたが闇に帰れば、長もお母さん達の凍った時間を解くでしょう。それぐらいしか、私はお母さんにしてあげられない」
ラヴァの手が膝の上できつく握られる。
「私と一緒に眠るのは、いや？今ならまだ間に合うの。逃げて。だけど、逃げる前には私を殺して。あなたが最初に私の前に現われたときにするつもりだったように」
沈黙。
ゆっくりとラヴァはかぶりを振る。
黄昏の光の中で、その黒い姿は彫像のように浮かび上がる。
美夕は語ろうとして言葉に詰まる。唾を飲み込み、最後の言葉を語る。
「今夜は私達がこの世にある最後の夜。ラヴァ、私の身体を・・・あなたの思い通りにして」
美夕はおとがいを上げ、目をつむる。
正座したその全身が小刻みに震えている。
と、ラヴァの巨体が姿勢を崩し、美夕へとにじり寄る。
赤い爪の生えた白い両手が、美夕の首に触れる。
その瞬間、美夕は電気に触れたようにビクッと震える。
両手はそのままためらいがちに寝巻の両衿を押し開きながら桃の皮を剥ぐように裸身をあらわにしてゆく。
腰紐が解かれ裾を広げられ、腕から袖を外され、美夕は正座したまま一糸纏わぬ姿となる。色白の肌がぬめやかに黄昏の色へと染まる。
それもすぐ、両腋の下に手を入れられ、そろりと寝床へと横たわらされる。
すでに頬は紅潮し、その顔を小さな両手がしっかり覆う。
ラヴァは膝を浮かせて美夕の身体の上にのし掛かり、細い手首を掴んで両側に開き、顔をあらわにする。
深い呼吸に美夕の胸は大きく上下する。
白い手はその全身を滑らかに撫で回す。
小振りな乳房を優しく包み、ゆっくりと揉みあげる。
既に美夕の呼吸は切れ切れのあえぎに変わっている。
これまで何十年に渡って衣の上から抱きかかえ、知り尽くしている美夕の身体つき。暗闇の中で触れてもそれが美夕だと分かる、その身体の隅々へとラヴァは指を這わせる。
ラヴァの左手が、美夕のあえぎを洩らすぷっくりとした唇に指を這わせ、そっと押し開いて指を静かに滑り込ませる。
美夕の小さい両手が、ラヴァのその手を包み、ピンクの舌が白い指を舐める。
乳房を揉み続けていた右手は、腹を滑り下り、へそを撫で、その下のぴたりと合わさった腿の付け根へと割り込む。
きつく閉まった内腿の左右へと柔らかく力を加えると、おずおずと足が開き始める。
まだまばらにしか体毛の生えていない、つつましい性器が顔を現わす。
しかし、すでにそれはしっとりと蜜を含んでいた。
指を溝に這わせると、美夕の口は舐めていた指に思わず軽く歯をたてる。
小さく勃起した核を探し当てると、親指でぬめぬめとなぶる。
そのまま、人差し指を開きかけた薔薇の莟のような膣口にあてがい、ゆっくりと奥へと埋めてゆく。
ラヴァの指をくわえたままの美夕の口から、呻きが漏れる。
親指と人差し指とは競い合って、身体の内外から美夕の秘肉をこねくる。
もはや美夕の口はラヴァの指を舐めることも出来ず、切れ切れのあえぎを洩らすだけとなる。
ほのかなぬくみが美夕の体内に生まれ、ラヴァの指を暖める。
ラヴァは美夕の口と膣とから指を抜取り、両手で大きく美夕の膝を開かせる。
真紅に充血した肉襞は溢れる蜜で充分に潤っている。
黒い衣の下から銀白色の人間の腕ほどもある陽物が身をもたげる。
形は人間の性器に似ているが、縦に一本黒い溝が走り、その溝の中に不規則な間隔で鋼のような輝きを持つ球がめり込んでいる。
ラヴァは美夕の開かれた体の上にのしかかる。
陽物の先端部が小さく口をあけた美夕の陰裂にあてがわれる。
美夕は息を飲み、閉じていた目を薄く開く。
赤い瞳が真上から静かにその顔を見おろす。
その両手が、がっしりと美夕の小さな両肩を掴む。
美夕がこくりと小さくうなずく。細い両腕が延び、ラヴァの背中に回される。
ラヴァの腰に力がこもる。
陽物はかすかにしない、かたく引き締まった肉襞を押し開こうと、震えが走る。
美夕は大きく口を開き、のけぞる。
ふいにどこかが裂け、ずるりと陽物が陥没したように飲み込まれる。
高い悲鳴が短く、美夕の口から放たれる。
ラヴァは顔を下ろし、震える美夕の頬に白い仮面で何度も頬擦りをする。
やがて、ゆっくりと腰を動かし始める。
美夕の口は苦痛に歪む。が、自ら膝を曲げ、上からのし掛かるラヴァの腰に足を絡ませ、締める。
陽物は脈打ち、収縮と膨張を繰り返して美夕の内部一杯に満ちる。
ラヴァの腰の動きは、いつくしむように円を描き、しとねの上で美夕の腰は臼のように穏やかにうねる。
もはや美夕の表情から苦痛は薄まり、ラヴァに動きに身を任せきった、安らかな恥じらいに悦楽の表情が加わり始める。
ラヴァの背中に回した美夕の手の爪に、我知らず力がこもり始める。
もはや日は落ち、灰色の闇に沈んだ冷え冷えとした空気の中、ラヴァに組み敷かれた、美夕の吐息が白く曇る。
闇全体が耳をすましているようなひっそりとした空気の底で美夕のあえぎは短く切れ切れになってゆき、やがて「くうぅー」と高い呻きを一声あげると、その全身が硬直しラヴァの体の下で弓なりに反る。
同時にラヴァも硬直し、腰のあたりが脈動する。
しばし余韻の震えに身を任せてから、ラヴァは身をほどく。
最後まで背中に絡みついていた美夕の腕が、未練を残しながら離されてゆく。
しとねの上に大きく体を開いて横たわる美夕は、虚ろな瞳で大きく息継ぎをしている。
どこからともない赤っぽい光が、汗に濡れた美夕の肌を闇の中にみずみずしく浮き上がらせる。
静かに美夕を見つめるラヴァの赤い瞳が輝く。
まだ息の乱れの戻らない美夕へと手を延ばすと、そろりとうつ伏せに向きを変える。
ゆっくりと美夕の尻を持ち上げ、両膝で支えさせる。
かすかな血と泡立つ粘液につややかに濡れた肉襞が、ぱっくりとその充血した内壁を開く。
膝立ちしたラヴァは後ろから、まだくびれも目立たぬ美夕の腰骨を鷲掴みにする。
まだ先程からの姿勢を崩さない陽物の先端を、ひくひくと動く美夕の開いた膣口にあてがう。
そのまま美夕の腰を引き寄せざま、自らの腰を突き進める。
何の抵抗もなく、巨大な陽物は美夕の体内に飲み込まれる。
突っ伏した美夕の口から短い悲鳴が漏れる。
ラヴァ・西洋神魔ラルヴァは、人間の淫欲をも司り、古代からその淫靡でおぞましい手口は民衆から怖れられてきた。
ラルヴァの餌食になった女達は、想像を絶する果てしない悦楽の末にその心を失い、廃人と化し、あるいは発狂した。
今、ラヴァは数十年の間、自らの宝物であった少女の花を、その人間とは全く異質の底知れぬ体力をもって散らし始めた。
美夕からの拒絶は全くなかった。軽い美夕の身体はまるで縫いぐるみのようにラヴァの求めるがままに弄ばれた。
それでも透き通った美夕の瞳は、魔宴のさなかラヴァの姿を追い続けた。
すでに夜半を過ぎていた。
さまざまな考えられる限りの体位、淫虐の古代ローマ時代以降すたれたおぞましい悦楽のすべ、および人間の想像を越えた技が、果てることなく繰り広げられた。
もはや、美夕の体力そのものが消耗しきっていた。
すさまじい疲労と、それでも後から後から突き上げてくる悦楽に、美夕の瞳は虚ろに宙を舞っていた。
いつの間にか失神しては、いつの間にか揺り起こされ、新たな悦楽の波に溺れていた。
最後に失神する直前に屋敷の外がかすかに明らみ、小鳥の啼き声を聞いた気がした。
「美夕の小鳥・・・」脈絡もなくそんな言葉が浮かび、美夕の意識は闇に落ちた。
闇の静かなざわめきの中、最後に誰かが長い口づけをしたような気がした。
朝の光が障子を貫く。
美夕は光の中で目覚めた。
光はこの屋敷で暮らすようになって以来の、常人の目を遮るための結界を越えてきたくすんだものではなかった。素通しのすがすがしい光だった。
身を起こすと腰の後ろに、鈍い痛みが淀む。
寝巻は昨夜の物とは違う、真新しい物だった。
布団やシーツも別のものに変わっている。
そっと手を股間に伸ばすと、拭われたようにさらさらとした肌の手触りだった。
ただ、性器にはうずきが残る。
美夕は頬を赤らめる。
ゆっくりと立ち上がろうとするが、腰に力が入らない。
ようやく立ち上がり、部屋を見回す。
しんとして、誰の気配もない。
「ラヴァ？」
はにかみを浮かべた声で、美夕は自分の男の名を呼ぶ。
答えるものはいない。
「ラヴァ、どこなの？」
美夕は不安げに襖を開け、廊下に出る。
暗い廊下が続く。
「ラヴァ」
壁に手をおきながら、美夕はひたりひたりと廊下を歩む。
一本の紅い光の筋が廊下の闇に中に浮かんでいた。
両親が封じ込められていた部屋のドアの透き間から差す光の筋だった。
紅い？今は朝のはずだった。白い光でなくてはならない。
その光の筋が廊下の上に置かれた白いものを縦に横切って照らしている。
見覚えのある形だった。
よろよろと美夕は駆け寄る。
ラヴァの仮面だった。
美夕はひざまずき、主のない仮面を震える手で持ち上げ、息づかいも荒くそれを見つめる。
そして、ドアから漏れる縦に輝く紅い光の線へと目を向ける。
立ち上がり、仮面を左手で胸にかかえ、右手でドアの把手を掴み、思い切って引き開ける。
部屋は紅い光に満ちていた。
両親は畳の上に並んで横たわっている。
その奥の、外への障子が全開され、そこから紅い光が部屋へと流れ込んでくる。
野外は見慣れた鎌倉の山中の景色ではなかった。
遠くへ向かって、まるで谷底へと落ち込んでゆくように上下感・遠近感の狂った闇の次元が上下左右へと広がっていた。
凍り付いたような硬く尖った蔦が、果てしなく遠くまで宙に浮いて絡み合いながら続いている。蔦のそこここにさまざまな大きさの異形の存在が引っ掛かるように身を横たえる。
神魔の眠る闇。
闇は深い青色に沈み、遠くは漆黒となり、果てが見えぬ。
闇と光の世界の間に紅い大気の渦巻く黄昏色の空域が広がっている。
その空域が障子のすぐ外に接して漂い、更に後ろの青の闇から浮き上がっている。
紅い大気の中央に、白い靄をまとって枝のざわめく樹木のような巨大な黒い影が聳える。見上げた位置に鈍い赤光を放つ円がある。
「長かったな、美夕」
重々しい低音がどこからともなく響く。
「おさ・・・」
かすれた声で、美夕が呟く。胸元の仮面を抱きしめる。
「全てのはぐれ神魔は闇に戻った。約束どおり、凍った時間は解いた。両親も夕方までには目覚めよう」
「ラヴァは・・・ラヴァをどうしたの！」
わななきながら美夕は叫ぶ。
「あの神魔は自分から願って、闇に戻った。もうどこかで眠りについているはずだ」
長は枝のような腕を回して、後ろに広がる果てのない闇の次元を示す。
「どこで眠っているのか、もはや分からぬ。それに美夕、おぬしら吸血姫は闇にはゆけぬ。それが定めだ」
「うそよ・・・そんな。一緒に、抱き合って永遠に眠ろうって約束したのよ。返して！長が連れて行ったんでしょう。ラヴァは私のものよ！返して！」
美夕の叫びに低い笑い声が地の底から響いて答える。
「嘘ではない。それがあの男の望みだった。自分の時間を取り戻して幸せになれと言い残しておったぞ。それに、おまえにはこれからも監視者としての使命がある。この世に残って神魔を監視し続け、跡継ぎを産むという使命がな」
「いやよ！」
美夕が絶叫する。
「跡継ぎ？もうこんな想いをするのは私で最後よ。私で吸血姫はおしまいよ。私は跡継ぎなんか産まない」
「どうするつもりだ？両親と一緒に老いて死ぬのを待つか？それにもう手遅れだ」
言葉を切り、長は冷たく笑う。
「昨晩のうちにラヴァの精はおまえの胎内に満ちた。これからおまえが途切れていた成長を再開し、熟した卵子が最初に現わしたら、その瞬間に受精する。新たな吸血姫の刻が回り始める」
「いや・・・」
美夕は両腕を交差させ、自分の腹をきつく抱きしめる。
足がよろけ、畳の上に膝を落とす。
「いやあああぁ！」
「どうする？分かっておろうが、吸血姫は自分で自分の命を断つ事は出来ぬ。どんなに身体を傷つけても、必ず復活する。それとも孕んだ子を流すか？おまえとラヴァとの子だぞ」
低い笑いを残し、長の姿はゆらめき、紅い大気と深青の闇共々、その姿が薄れてゆく。
あとには、朝の光に照らされた畳の間に横たわり、静かな呼吸を続ける美夕の父母と、その間に中腰になり仮面を抱きしめて虚空を見上げる少女が一人残されていた。
エピローグ
もはや、語ることは多く残されてはいない。
鎌倉の屋敷の近所の口さがない人々の間では、昔から続いてきた資産家の黄昏家の一人娘の様子がおかしくなったとの噂話が立った。
子供の頃はたいそう愛らしい少女だったのに、突然に中学を中退してしまい、今ではときおり美しい母親に連れられ、虚ろなほほえみを浮かべて、付近を散策する姿が見られた。
なぜか手垢だらけの奇妙な仮面を肌身離さず持ち歩き、時にそれに向かって、なにごとかを呟く。
翌年になり、少女は成長し更に美しさを増すが、その頃から腹が膨らみ始めたのが目立ってきた。
それが更に近所の噂に尾鰭を付ける。
しかし、少女は大きな腹をかかえ、その長い栗色の髪を風になぶらせて、ほほえみを絶やすことなく歩み続ける。
いつの頃からか、髪を襟元で切り揃えた若い女が黄昏家に出入りするようになった。
少女の両親は、この女の来訪をたいそう歓迎していた。
少女の虚ろな瞳にも、その時にはかすかな生気が宿るようだった。
黄昏家を訪れた時は一日、女は少女と二人で何をするでもなく時を過ごすのが常であった。
時に女は少女の頭を胸に抱き、涙ぐむ。
「本当に、遠くに行ってしまったのね、美夕」
一三子は美夕に語りかける。
照り付ける夏の陽射しの元、縁側に並んで腰を下ろし、美夕は語りかける一三子をあどけない表情で見上げる。
そばには両親が揃って、二人の様子を眺めている。
一三子は両親に、美夕との最初の出会いを語り始める。
そう、それはこんな暑い夏の日。
むせるような真夏の陽射しの中、その少女は陽炎のように現われた。
了
同人サークル「瀬」
檸檬児
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2000-9-27