猫の丘の収穫祭
明日に万聖節が迫った今日は秋晴れの空がさわやかにどこまでも高く澄んでいました。
ドドール村の聖オプフェル教会では昼食の時間が終ったばかりです。
ドドール村は昔から猫の多い村でした。
シスター・リエがテラスで鉢植えに水をやっていると、世話している近所の猫達が集まってきました。
中世ヨーロッパでは猫は魔女の使い魔とされて、たくさん捕らえられて殺されたそうです。
猫の減少が鼠蚤を媒介とする黒死病の蔓延の一つの要因になったとも言われますが、猫からの復讐とも言えるでしょう。
そんな歴史を知ってはいましたが、シスター・リエは根っから猫が好きでした。猫達もそれが分かるのか、ドドール村に棲む猫達は家無しも家付きも問わずリエになついていました。
スカートの裾を何度か軽く叩かれた感触にリエが振り返ると、足元にしゃがんだ一匹が猫パンチで揺れる裾を叩いていました。
「なあに？ いたずらしちゃだめ」
振り返ったリエと目が合うと、立ち上り一声啼いてテラスから飛び降り、数歩進んで立ち止まり、振り返ってまたひと啼きし、リエを見詰めました。
集まっていた猫全員がこの猫に続いてテラスから飛び降りると庭のはずれに向かって歩き出し、皆が皆途中で立ち止まり振り返ってリエを見詰めました。
「なあに？ 何かあるの？」
リエはジョウロを置いてテラスから降り、猫達のもとに急ぎます。リエが追い付くと猫達は先導して庭のはずれへと歩き始めます。
庭を出ると小さな林を過ぎて急に木々のない小高い広場に出、そこには石造りの旧い遺跡があるのです。
周囲の深い森は悪霊が潜む恐ろしいところですが、カルクマン神父の言うことにはこの遺跡のある小高い丘は逆に最も安全なのだそうです。
リエ自身この遺跡を散歩するのが好きでした。ですから、リエは猫達に誘われるままにその後について行ったのです。
短い草に覆われた丘に立つ石の間を猫達はのんびり歩き回ったりしゃがみこんだりしています。
見上げるほどの遺跡の石にリエは静かに手を当てます。
かってはギリシャやエジプトの巨石文明の影響を受けたものと考えられていたこの遺跡ですが、実はその遥か昔の紀元前６千年頃に造られたものだと言うことが分かってきました。
リエや神父達の立場からは異教のものではありますが、この村育ちのリエにとってはむしろ自然物の一部という気持ちで子供の頃はこの遺跡の廻りで遊んでいたのです。
ここは古代の天文台とも未知の古代神の礼拝所とも、或いはかっての王族の墓地とも言われていますが、まだ定説はありません。
ただ周囲の深い森に潜む悪霊の世界と人間の世界との緩衝地帯として昔から知られ、この丘は悪霊達にとっても大切な場所らしく、ここでは彼らも人間に手を出すことはないのです。
そんな事情を知ってか知らずか猫達は石で造られた円陣の中の三々五々の場所にしゃがみ込んでくつろぎ始めました。
「あなた達の集会の場所なのね。私、招待されたのでしょうか」
リエは微笑んで猫達の姿を見回しました。
猫達が特別の場所に集まって、啼き交わすのでもなくじっと静かな姿勢のまま共にしばしの時を過し合うことを猫の集会と言いますが、なぜそういう形での集会をするのか、よく分かってはいません。
自分も集会の邪魔をせずにじっとしていなければいけないと、リエは思います。やるべき午後の作業は先ほどの水やりで一区切り付き、まだ次の作業までいささかの時間はありました。
寝床岩と子供の頃から呼んでいる円陣中央の岩に目が行った時、思わずリエは声を上げて笑いだしそうになり慌てて口を押えました。
リエに一番なついている茶縞の猫が寝床岩の上ですっかり眠りこけています。
そう言えば先ほどテラスにはこの子の双子の片割れの猫はいましたが、この子の姿は見えませんでした。やんちゃな悪戯っ子で、いつかも兄妹で教会のアレクシス神父の部屋に入り込んで椅子の上で眠りこけ、神父は追い出しもせずに気の毒にも自分の方がテラスに出て読書するはめになったことがありました。
寝床岩に近づき、日の当たるおもてに手を乗せると秋の日差しに石は中から暖たまっています。
子供の頃、この四角い岩の上に寝そべると、周りの列石が宮殿の柱のように見え、自分がお城のベッドに横たわるお姫様のような気になったものでした。
そよ風が暖かく眠る猫の柔毛を撫で、丸いお腹がゆっくりと上下しています。
「みんな集会しているのに、おまえだけ寝ているの？」
寝床岩に腰を下ろしたリエは、眠り続ける猫の姿を見詰めます。
教会ではカルクマン神父とアレクシス神父が語り合っています。Jack-o'-lantern のカボチャを持ったカルクマン神父が熱弁を振るいます。
「万聖節にしても元々は古代ケルト民族のドルイド教の祭りでした。彼らは10月31日を1年の終わりの日として秋の収穫を祝い新年と冬を迎える祭りをしました。この日の夜には死者の霊が家に帰るといわれています」
アレクシス神父は興味深げに頷き、言葉をはさみます。
「日本の国にも似た風習があると聞いています。彼らは『お盆』と呼んでいるそうですが、やはり死者の霊が家に帰ってくることを祝うそうです。その時には竹と紙で出来た提灯をともすそうです」
「ほう、それは面白い。世界中の旧い宗教に共通のものなのかも知れませんね。ハロウィンに話を戻しますと、キリスト教はケルト民族宣教の為に彼らの収穫祭を万聖節の前夜祭という形に吸収しました。ですからハロウィンはキリスト教らしからぬ異教の要素が多分に含まれています。バチカンはこれを矛盾とはしないようですけれど」
最後の言葉に思わずアレクシス神父は座っていた椅子から腰を浮かします。それをカルクマン神父は微笑し右手を上げて制します。
「あ、いや。バチカン批判をしたい訳ではありません。ただ身近にストーン・サークルのあるこの地で暮らしていると、どうしてもあれを造った人々のことに想いが行ってしまうのですよ。このJack-o'-lantern も元々は髑髏の変形です。ドルイド教の風習ですよ。祭りでは随分と血腥い儀式も行われたようです」
机におかれたJack-o'-lantern を見詰めてアレクシス神父が語ります。
「確かに我々は多くの異教と対立してきました。インカ帝国を滅ぼし、新教との対立で多くの罪もない人々を死に追いやりました。それが神の意志とは私にも思えません。過ちからは学ばねばならないと考えます・・・しかし」
「その新教が現れたのも我々が腐敗し、免罪符を売り、その金でサン・ピエトロ大聖堂を建立したのが切っ掛けでしたね。いや！ 繰り返しますがバチカン批判をする訳ではありません。私は我々の為に滅び、現在では残っていないものどものことを思うのです。ギリシャの山羊神パンを我々は欲望の悪魔バフォメットとして取り込み、貶めました。そのバフォメットの名前も対立するイスラム教の始祖マホメットを貶める為につけたものです。これらはまだ時代が新しいですから情報が残っていますが、ドルイド教となると歴史から殆ど消え去っているのです」
カルクマン神父は口をつぐんで窓を向きます。丘の列石群の頂上部分が木立の上からかすかに覗き見えます。
アレクシス神父もつられて窓に映る遺跡を見詰めます。
「やはり、土地の魔力のせいでしょうか。あの遺跡の存在によって我々自身の信仰がいつも試されているように思えてなりません」
アレクシス神父の言葉にカルクマン神父は軽く眉を上げます。
「我々の血の中のケルトの血が呼んでいるのかも知れませんね。イエス様の教えが広まってからまだ2000年しか経っていませんが、ドルイドはそれ以前の6000年間にわたって信仰されケルトの民の生活を取り仕切ってきたのですから」
ふいにカルクマン神父は悪戯っぽく微笑みます。
「ローマ人はケルトの民を見て、その金髪碧眼に驚いていました。ギリシャ、ローマ人は私のような黒い髪をしていたようです。アレクシス神父はケルトの血の方が濃いようですね。もしかしてご先祖様はドルイドの僧侶だったのではありませんか」
アレクシス神父は苦笑します。
「過去のことは分かりません。今の私はカソリックの神父であることを生きるのみです。それに・・・それこそカルクマン神父のご先祖様こそローマで執政官だったかも知れませんね。もしかしたらガリラヤの地でイエス様とお会いしたことがあるのではありませんか？」
二人の神父は顔を見合わせて笑い合います。
「これは一本取られました。そうですね。我々の教義には前世という考え方はありません。やはり私もこの土地の魔力に引かれているのかもしれませんね」
そう語るとカルクマン神父は窓に向かって胸の前で小さく十字を切ります。
秋の日差しは柔らかく、腰を下ろした寝床岩からその日差しを貯えたぬくみがスカート越しに伝わってきます。
目を細めた猫の寝顔を見詰めるうち、リエは子供の頃のようにこの岩の上に寝そべって、もっと近くから猫の寝顔を見てみたくなりました。
静かに岩の上に身を伸ばして横たわると背中から全身に暖かさが広がります。
リエが横たわる衣擦れに猫はわずかに耳を動かしましたが、そのまま眠り続けています。
見上げた空は高く、子供の時にここに寝そべって見上げた秋の空と何の変わりもありません。
周りに円形に立ち並ぶ巨石群はやはり王宮の柱を思わせます。
誰がこれらの石を運び、立て、さらにあんな上に乗せたのか。子供の頃の村の遊び仲間と交したたあいもない話のことも思いだしました。
静かな風に撫でられ、リエは自分がここで眠り込んでしまったことに気付きました。意識ははっきりしているのですが、身体が動きません。この同じ場所に横になったまま周りの風景を眺めている自分を夢見ているのです。悪い気持ちではありません。
ふと、この同じ光景から子供の時の忘れていた想い出をリエは鮮明に思いだします。
寝床岩の上に横になってまどろみ、気が付くと一緒に来ていたはずの遊び仲間の姿が一人も見えません。しんとした石柱群の中に独りぼっちになったと思った時に、自分が一人ではないことに気付きました。
あの時リエのそばに誰かがいたのです。
その時、リエは寝床岩の頭の側に誰かが立っている気配を感じました。
身体は眠ったまま動きません。金縛りではなく頭がぼんやりとし、首を廻らせる気が起きないのです。ただ不安感はありませんでした。
間近に立つ者の見おろす視線を眠るリエは感じます。微かに聞こえるその者の呼吸の音は、胸板の厚い男性のものと聞こえました。
隣で眠っていた縞猫が身を起こして、その者を見上げている気配がします。猫にも警戒の様子は見えません。見知らぬ者ではないのだと、リエは安堵します。
「カルクマン神父様？」
リエは夢うつつに呟きます。
突然、頭の側に立っていた男が息を飲み、緊張する気配がします。
同時にリエは足の向く先にもう一人の者が立っていることに気付きます。
寝床岩の頭の側の男と新たな者はリエを中心に佇んでいるのです。
眠っているリエに二人の間の緊張が伝わります。
リエの頭の側にいた縞猫が岩から飛び降りて遠ざかってゆく足音が聞こえました。
数秒だったでしょうか。
ふいに頭の側に立っていた男の気配が消えました。空気中に溶けるように消え去ったのです。
同時に足元に立っていた者がリエの横に歩み寄ってきました。草を踏む足取りがいかにも軽く、衣擦れの音も少女のもののようです。
頭の横でその者は岩のおもてに片肘をのせてしゃがみ込みました。
「お久しぶり、リエ。起きなさい」
頭にかかっていたモヤが晴れたようにリエは目を開きました。スミレ色の大きな瞳の少女が自分の顔を覗きこんでいます。
香木のような典雅なかおりがかすかに鼻をくすぐります。
リエは寝床岩から身を起こします。
カーテンを開いたように記憶が戻ります。
子供の頃、この石柱の丘に遊び仲間と一緒に来た時、寝床岩に横になって気が付いた時に独りぼっちになっていたことを。その時、自分のそばに見知らぬ人がいたことを。
この瞳とこの黒いおかっぱの髪とこの香り、そして名前をその時にはっきりとリエは覚えていたのです。
でも、彼女は全くあの時と同じままの姿です。リエはもうこんなに成長したと言うのに。
「フローライトさん・・・」
つぶやいやリエの言葉に少女は微笑み、語りかけます。
「覚えていてくれたのね、リエ。約束通り迎えにきたわ」
「あの丘は悪霊達にとってはどんな意味があるのでしょう」
教会では窓辺でのアレクシス神父達の会話が続いています。
「そう、その為にはまず悪霊とは何かから考えるべきです」
カルクマン神父は続けます。
「あれらはキリスト教流布以前からここに存在した者共です。どの宗教でもそうですが、深く民衆に信仰された古い宗教を習合する時、古い神々を新しい神の下位のものとして位置づけます。北欧のエッダにおいても古い信仰の神々や英雄は新しい信仰の元では妖精や巨人に姿を変えました。この森の悪霊達も元から下位の者もいるとは思いますが古い信仰の中では神として崇められていた者もいるのではないでしょうか」
「そういった高位の悪霊が祀られているのがあの丘の列石なのですか。かっては神として」
「祀ったのかも知れません。或いは恐れて封印したのかも知れません。異教においての神とは我々の神のように正しく善なる者とは限りません。古代ケルトの民にとって祀る場ではなく避け遠ざけるべき忌み地だったのかもしれません」
カルクマン神父の話は熱を帯びます。
「確かにあの丘では悪霊達の跳梁も認められません。しかし我々人間の村人や旅人にあの丘で何らかの被害が生じたとの記録もありません」
「記録が全てを語っているとは限りません。実際には被害が出ていても人々の記憶から消えれば、あるいは消されれば被害は存在しなかったことになる。違いますか」
カルクマン神父の言葉にアレクシス神父は思わず言葉に詰まります。
その時、背後のテーブルの方から物音が聞こえ二人は同時に振り向きました。
どこから入り込んだのか２匹の子猫がテーブルに乗り、置かれたJack-o'-lantern を舐めています。
「こらっ」
アレクシス神父はテーブルに近寄り猫達を追い出します。
彼らは隣の部屋のカーテンだけだった窓から外へと飛び出してゆきました。
「うっかり窓が開きっぱなしでした。シスター・リエの猫好きも考えものですね。猫達もすっかり自分の家だと思っているようです。それにしても猫がカボチャを舐めるなんて。カボチャの顔を刳り貫いたナイフが魚でもさばいたものだったのでしょうか」
そう言ってアレクシス神父は椅子に腰を下ろします。
「猫には我々には見えないものが見えているのかもしれませんね。今夜は万聖節前夜祭です。何か霊的なものを感じたのかもしれません。そう言えばアレクシス神父が研究中のナコト写本ですが、あれも崩壊した○○僧院から黒猫がくわえて持ち出したと言うではありませんか」
カルクマン神父は窓辺に立ったまま話を続けます。
「猫は魔女の使い魔とも言われています。夜の集会に魔女は黒猫に導かれて煙突を抜け、箒に乗って空を飛ぶと・・・これは子供でも知っているお伽噺ですが、カソリックは余り猫を愛していないようです。もっともバチカン市街には野良猫が溢れておりましたが」
この言葉にアレクシス神父も笑い出します。ローマでの勉学の頃を思い出したようです。
「魔女と言えば、よその町や村では万聖節前夜祭と言うと住民が魔女や吸血鬼の扮装をしてお祭りをしますが、この村ではありませんね、さすがに」
机の上のJack-o'-lantern に目を戻し、アレクシス神父は今夜の前夜祭を思います。ドドール村の住人達は今夜は静かに家の中で祈って過すのです。
「そりゃ、活きのいい本物の悪霊達が周りの森にウヨウヨいますからな、冗談にならないでしょう。彼らは昔からずっとそうでした」
その言葉に、アレクシス神父はふと思い当たりました。
「カルクマン神父の血筋は代々この地で聖職者だったのでしょうか」
「いいえ、そんなことはありませんが・・・なぜですか」
「この教会の古い記録を調べていたのですが、19世紀、18世紀、飛んで16世紀の記録にカルクマンの名前がしるされていたのです。てっきりこちらの土地の古い家系のお方だとばかり思っておりました」
「研究熱心ですね、アレクシス神父。どこまで調べました？」
窓を向いていたカルクマン神父の目が細められます。
「どの記録も住民の大量失踪事件の際のこの教会の聖職者として、カルクマンの名前が載っていたのです。この村には他にもいろいろ奇妙なことが起こっていますが、その中でも比較的大きな出来事です」
「ほう」
カルクマン神父は窓を背にゆっくりと振り返りました。
「本当に素敵な娘になったわね、嬉しいわ。リエが私と同じ年頃になったらあの日と同じ収穫祭の日にここに迎えにくるって約束、覚えていてくれたのね」
岩から身を起こしたリエは笑顔で話かける少女・フローライトの姿をまじまじと見詰めました。
奇妙にぼんやりしていた頭が水晶のように澄んできました。かってこの場であった記憶が次々に溢れてきます。ふいにこの寝床岩への激しい恐怖が呼び覚まされ、リエは弾かれたように岩から飛び降ります。
「思い出したのね、リエ。でも本当に怖いのはこの岩じゃない」
フローライトはリエをいたましげに見詰めます。
足元を見詰めたリエの顔が見る見る蒼白になり、小さく悲鳴を上げていま飛び降りたばかりの寝床岩の上に飛び乗るや中央で立ちすくみ、両腕で胸を抱きしめます。
「そう、恐ろしいのは石の輪で封印されたこの円内の地面の方」
つぶやくとフローライトは身軽に寝床岩の上に飛び乗り、リエの隣に立ちます。
「わたしが付いているわ、リエ。落ち着かせてあげる、あの時みたいに」
そう囁くとフローライトは華奢な身体のどこにそんな力があるのか、リエをお姫様をかかえる王子のように抱き上げます。そして軽く身を屈めるや、一気に空高く舞い上がりました。
ごうと真上から吹き下ろす風と、見る見る下へと沈んでゆく風景に、リエは息を飲みます。
それは、あの時の想い出のそのままの再現でした。
ふわりと、ほとんど音もなく二人は列石の上に横に渡した大岩の上に舞い降りました。
「天使様って、わたしのことを呼んだわね、あの時は」
リエを岩の上に下ろしながらフローライトは楽しそうに囁きます。
リエは足元を確かめながら、今までいた寝床岩のある下の円い広場を見おろしました。
幼かったあの日、フローライトに抱かれて飛び上がった同じ岩から見た風景が広がっています。
いや・・・あの時は今とは違っていたのです。
遊び友達と一緒にここに来たのに一人ぼっちになってしまい、その時に出会ったフローライトにこの岩の上へと連れてこられたのでした。
「リエと一緒にここに来た小さな子供達の名前を覚えている？」
背後から語るフローライトの言葉をリエは固い表情で聞きます。
遊び友達だとずっと思い続けてきただけで、今日まで彼らの名前も顔も思い出せなかったことに初めて気付きます。なぜそのことを気にしなかったのでしょう。
それに、下の広場へのこの恐怖の思いは何なのでしょう。
「リエ、なぜあの日の後であなたが教会に預けらたのか、なぜシスターになったか覚えている？」
そうです。リエは気が付いたら教会で見習いシスターをしていたのです。確かリエはこのドドール村の生まれで両親に育てられたはずなのに、ある時期から教会にいたのです。
記憶が不鮮明なまま、そのことに疑問一つ持たずに今日まで来たことにリエは気付きました。
全ての原因は、この底の円形の空地にあったのでした。
ずっとここに散歩に来ることが好きだったのに、今は身の毛のよだつ恐怖が下の空地から吹き上げてきます。
パリパリとカサブタが剥がれるように偽りの記憶を覆っていた皮が破れ、真実の記憶が顔を現れしてきます。
自分は・・・生き残りだったのです。
今、リエの記憶は万聖節前夜祭のあの午後、家にあった一番上等のドレスを着せられて、あと４人の子供達と共に寝床岩の上に連れてこられた時の子供に戻っていました。
ハンスとハンナの双子兄妹、腕白なヨゼフと一番ちびっ子だったカールがあの日リエと共に大人達の手でここに連れてこられたのです。皆リエの遊び仲間でした。
寝床岩の上に連れてきた５人の子供を残し、村の大人達は列石の外に円陣を組んで立ち並んでいました。皆なにか祈りを口ずさんでいるようですが、リエには言葉は聞き取れませんでした。
皆、何を祈っているのでしょう。
いつも遊びにくる時のままの広場です。見上げると空想の宮殿の列柱が空に向かって立ち並んでいます。
秋のそよ風は気持ち良く顔を撫でます。リエは上等のドレスが嬉しくて堪りませんでした。これなら王子様が迎えにきてくれても、真っ先に自分をお姫様と思ってもらえるかも知れません。
その時にリエは見上げた列石の上に渡された大岩の上に腰を下ろした小さな人の姿に気付きました。
ほとんど白に近い薄ピンクのドレスを身に付けた少女のように見えました。彼女は寝床岩の上の子供達の姿を見おろしていたのです。
リエが他の子供達にそのことを伝えようとした時です。ヨゼフが地面に起きた異変に戸惑いの声を上げました。
寝床岩の周りの円い地面に池の表面のような波紋が広がっているのです。
見る間に地面が透き通ってゆきました。そして列石を境界に、地の底に向けて円柱状に真っ直ぐ落ち込んだ深い池が生まれました。寝床岩は池の中心の浮き島でした。寝床岩から身を乗り出して覗き込んだ池の水は澄み渡り青い色を濃くしながら底へと沈んでゆき最後には暗黒しか見えません。
目を凝らすと遥か深遠の地の底に、何かが蠢いているさまが微かに見えました。本来見える距離ではないはずです。
次の瞬間、一挙にそれは水面に姿を現しました。距離は何の意味も持たなかったのです。
円形の水面下一杯に膨れ上がり、馬鹿馬鹿しい程に巨大な水草の群れとも何千匹もの軟体動物の群体ともつかない姿をしたそれが蠢き、のたくり水面上に半透明の身体の一部を現します。
寝床岩の周りで水しぶきが上がり、前後からぬめぬめと輝く触腕が何十本も姿を表し、岩の中央で悲鳴を上げ立ちすくむ子供達に伸びてきました。
真っ先にちびっ子のカールが足を捕まれて水中に引きずり込まれました。
ハンスは妹のハンナを固く抱きしめ守ろうとしましたが、二人一緒に触腕に絡みつかれて一瞬で水中に姿を消しました。
ヨゼフはリエの前に立ち出鱈目な言葉を叫びながら両手を狂ったように振り回し、向かってくる触腕を払いのけようとしましたが、腕に触れた途端に空中に持ち上げられ、水中に引き込まれました。
一旦沈んだ４人の子供達は水面でもがいています。その身体の上に何本も何本もの触腕が次々と折り重なってゆきます。
「カール！ ハンス！ ハンナ！ ヨゼフ！」
一人残されたリエは仲間の名前を声を限りに叫びます。
水面でもがく子供達の目、口、鼻、耳に何本もの触腕が這い込んでいるさまが見えます。それらの触腕は見る間に先端から目の覚めるような真紅に輝いてゆきます。
列石の外に円陣を組んだ大人達は微動もせずに呪文を唱え続けています。その中にはリエの両親も、他の子供達の両親の姿もありました。
「お父さん、お母さん、助けて！」
リエは父母に向かって声を限りに叫びます。でも彼らは微動もしません。
寝床岩の周りの水面から何十本もの触腕が持ち上がり、鎌首をもたげます。
「助けて！ 誰か助けて！」
周りで揺らめく触腕の群れの中でリエは天に向かって叫びます。
その時です。
寝床岩上の間近に靴の踵の鳴る音と激しい風とが叩き付けられた途端、柔らかい腕に抱き留められ、次の瞬間リエは自分が抱かれたまま空高く舞い上がったことを知りました。
ふわりと、二人は列石の上に横に渡した大岩の上に舞い降りました。
「ふっ、悔しがっている」
リエを抱いたまま一息でここまでジャンプした少女は池に変わった広場を見おろし、彼女を岩の上に降ろしながら囁きます。
少女を見上げたリエは、それが先ほどこの岩の上から自分達を見ていた人物であることに気付きました。
「天使様！」
リエは少女に向かって呼びかけます。
「え？」
広場を見おろしていた少女は思わず振り返り、そして微笑みます。
「違うわ、わたしはそんな者じゃない。私の名はフローライト」
そしてフローライトと名乗った少女は再び広場を見おろします。
「あなたのお友達は気の毒だけでもう手遅れだわ。あなた・・・ええと」
「リエです。あの、助けてくださってありがとうございます」
「それじゃリエ、もうしばらくこの上にいるのよ。儀式はもうじき終るから」
「儀式・・・」
恐怖を抑え、フローライトの背中に隠れてしがみつきながら、リエは下の広場を見おろしました。
うねる触腕の群れは、今は青い水面一杯に大きな花のように静かに広がり波の動きに身を任せていました。４人の子供達の姿はもうどこにも見えません。
「ヨゼフ達は」
リエの声はそこで引きつります。
フローライトは黙って頭を左右に振っただけでした。
見詰めているとやがてそのものの中央部分が身を沈めたと見るや、全身が地の底へと沈んでゆきました。
後には深く青い水淵が残されその円形の水面は静かに波打っていましたが、水中で雲のように土色が広がり始め、波の動きが収まってゆき、波が静まった時にはもとの草混じりの広場に戻りました。
石柱の周りに立ち並んでいた大人達から一斉に力が抜ける様子が、この岩の上から見ていても分かりました。まるで魂がないように彼らはそのまま村へと歩き始めました。
「お父さん！ お母さん！」
歩み去る村人達の中の父母に向かってリエは叫びます。
「無駄よ、リエ。今のあの人達には分からない」
フローライトの手がリエの肩に置かれます。
「リエ、聞きなさい。もう村人達はあなたを覚えていない。あなたがこの村で生まれて育ったことも覚えていない。彼らは村に戻って目を覚まし、今までの生活を続けるわ。でも今日、ここで自分達がしたことも、自分達が見たものも全部覚えていないの」
「そんな！ お父さんやお母さんも私を忘れたの？」
フローライトはしがみつくリエを見おろします。
「可哀想だけど、そうよ。あなたは生贄として選ばれた子供なの。儀式が終った今、あなたは存在しないはずの子供なの。あなたのお父さんやお母さんにとって見たこともない他所の子供でしかないの」
「そんな！ 降ろして！ 会えば分かるわ。お母さん達のところに戻して」
「リエ」
フローライトは腰を落とし、リエの顔を正面から見詰めます。
「ギリシャ人はあの穴をタルタロスと呼んだわ。神々ですら恐れるこの世の裂け目よ。リエが見たのはこの石の輪の穴の底に封じられた古い邪神なの。死者の霊が蘇る収穫祭の何十年かに一度のこの日、あれは村の人々を呼び寄せてその最も優れた子供達を生贄にするの。村人達は自分が操られていることにも気付かずに子供達を連れてくるのよ。それが邪神がこの村に掛けた呪いなの。生贄が捧げられる限り、邪神が石の輪を越えて出てくることはないわ。あなた達村人はずっと昔から邪神に囲われた家畜だったのよ」
リエはフローライトの深いスミレ色の瞳を身じろぎもせず見詰めます。
「リエ。ありえないことだけれど、もしリエの両親が生贄に捧げた筈のあなたを自分の子供だと思い出したら、邪神は呪いの仕組みに気付いた両親を襲うわ」
リエの目は大きく開かれました。その口元が細かく震えています。
フローライトは立ち上り、リエを見おろします。リエはフローライトを見返します。
「フローライトさんは・・・誰なんですか。なぜ私を助けてくれたんですか。なぜ、そんな色々なことを知っているのですか」
震えるリエの口から問いの言葉が搾り出されます。
フローライトはリエから目をそらし、広大な森の方を眺めます。リエはフローライトの横顔を食い入るように見詰めます。
「わたしが人間じゃないってこと、気が付いているでしょう、リエ」
フローライトは腕を伸ばし森の一点を指さします。
「あの森の一番深い奥の誰も近づけない古い館にわたしは住んでいるの、ずっと長いこと一人で。あなた達の言葉で言えば悪霊よ」
「ウソです！ フローライトさんは悪霊なんかじゃありません」
リエは叫びます。その言葉にフローライトは振り向きます。
「あんなバケモノから私を助けてくれたんです。悪霊なんかじゃありません。フローライトさんは天使様です」
フローライトはしばし黙り込みます。
「いい子ね、リエ」
秋の午後の日差しがフローライトの瞳に反射します。
「でも本当のことを認めなさい。わたしは人の血を吸って生きているバケモノなのよ、あの邪神と同じ」
「吸血鬼・・・ウソです！ 信じません。フローライトさんは・・・」
「リエ、本当はね、さっきわたしがここに来たのは生贄の子を横取りしようとしたからなの。村からいなくなる子なら気に入った子をわたしが連れていこうって。わたしはそんなバケモノなの」
「連れていくって、私を・・・私の血を飲むんですか」
見る見る顔色が青ざめながら、リエは一歩も引こうとはしませんでした。
「ううん、違うの。わたしずっと一人で暮らしていたの。一緒に暮らしてくれる人が欲しかったのよ。リエみたいな子を仲間にしたかったの」
「フローライトさん・・・淋しかったんですか」
小さなリエの言葉にフローライトは微笑します。
「おかしいでしょう？ バケモノのくせに」
リエはフローライトの顔を見上げます。そして目を岩の下の広場に向けます。石の輪の周りにはもう人影はありません。木立の向こうには小さなドドール村の家々の屋根がほの見えます。
リエはフローライトの顔に目を戻します。
「行きます」
「え？」
リエの言葉にフローライトは思わず聞き直します。
「私、フローライトさんと一緒に行きます。私はもうお母さん達のところへは帰れません」
きっぱりと語るその言葉とは裏腹に、リエの両目からは涙が溢れ始めました。
「帰って私が娘だって気が付いたら、お母さん達は」
リエの震える小さな唇から、もう言葉は続きませんでした。
フローライトはリエの小さな肩に腕を回し抱き寄せました。
暖かく香木のような澄んだかおりのするフローライトの胸に顔を埋めるや、リエはすすり上げ始め、じきにそれは泣き声に変わりました。
「分かった、リエ」
泣き止んだリエの耳元でフローライトが囁きます。
「わたしのところにおいで。でも、リエはまだ小さいから私の館の生活にはとても耐えられない。私と同じ位に育ったら迎えに来るね。大丈夫、大きくなるまで村で暮らせるようにリエの記憶を隠してあげる。今日の悲しい想い出も血と一緒に隠してあげる」
フローライトの口がリエの耳元からのどへと下りてきます。その唇が開きリエののどをくわえたかと思うと、軽い痛みと共に痺れがその場所から広がります。
抱かれたフローライトの身体の動きは、自分の身体の中身が彼女の中へと飲み込まれてゆくことをリエに伝えました。それは気持ちの良さすら伴い、同時のリエは想い出が静かにカーテンの陰に隠れてゆくことを感じでいました。
「約束よ」
のどからフローライトの唇が離れ、最後にリエが聞いた彼女のこの言葉も忘却の波に飲まれました。
「私は両親を同時に森の悪霊に奪われた孤児として村の教会に引き取られました。村人も当時のシャルル神父様も私自身も誰もそのことを疑いませんでした。そして皆が偽りの記憶を持ったまま、私はシスターとしてあの教会で育てられたのですね」
岩の上で全ての記憶を取り戻したリエは語ります。
「村の皆はとても私によくしてくれました。いつも陽気で仲のいい粉屋のハインリヒ夫妻が私の本当の父母だったのですね。あのお二人も私に優しくしてくださいました。お互いに本当の親子と分からずに」
リエは言葉を切ります。
「フローライトさんに感謝すべきなのでしょうか。今の私には気持ちが混乱して分かりません」
「リエ、つらいことを想い出を見せてしまってごめんなさい。気持ちの整理はわたしの館に着いてからゆっくり治してね」
やるせない微笑を浮かべてフローライトは一歩リエに近づき手を差し出します。
伸ばされたその手からリエは身を引きます。
「どうしたの、リエ」
呆然とフローライトはリエの顔を見詰めます。その視線にリエはうつむきますが、やがて顔を上げフローライトを見詰めました。
「フローライトさん、私一緒に行けません」
「なぜ？ リエの部屋もドレスも用意してあるのよ。わたしはずっとリエが教会に引き取られてから今日まで遠くから見ていたのよ。こんな素敵な娘がわたしの仲間になるんだって今日を夢見て」
「そして、私も人を襲って血を飲むのでしょうか」
フローライトは表情を固くして立ち竦みます。両腕が胸の前で組まれ、そのスミレ色の瞳が色を濃く変えたようにリエには見えました。
リエはうつむきました。でも、すぐ顔を上げます。
「済みません、フローライトさん。私はあなたの厚意に甘えています。あなたの力には私はかないません。でも私はもう行けないのです。分かってください」
沈黙し腕組みしたフローライトのスミレ色の瞳から硬い視線がリエを射ます。リエは目を見開いてその瞳を見返します。
「私には人を襲えません。それに私は知ってしまいました、村が邪神の元にあることを。村人皆が家畜として何も知らないまま生かされていて何十年ごとに子供達があんな犠牲になっているなんて。知ってしまった以上、もう私には知らないふりをすることは出来ません。村の皆をこの土地から安全な土地へと移さなければいけません」
「・・・村人を助けたいの？ 邪神の意志にさからって」
フローライトが口を開きます。
「助けます。どんな手を使ってもきっと助けます！」
決意を語るリエを見詰めるフローライトの瞳の深い色は、広場に生まれた水の縦穴の深淵を連想させました。
「それにフローライトさん、あの時うそをつきましたね。この石の輪に森の悪霊達は近づけないはずです。まして悪霊ごときに邪神から生贄の子を横取りなんて出来る訳ありません。邪神が村人達をまやかしたように、フローライトさんも私の村でのあり方で村人達皆にまやかしを掛けました。両親が死んで孤児になったって。フローライトさんはいったい・・・」
リエの言葉にフローライトはちらと広場に目を向けます。その口から吐息が漏れます。笑いを含んだ吐息でした。組まれた腕がほどかれる様をリエは緊張して見詰めます。
「本当に・・・素敵な娘に育ったのね、リエ」
唄うようにフローライトは呟きました。
次の瞬間、リエはフローライトに抱き上げられていました。一瞬前には目の前に佇んでいたはずなのに。
何が起こったのか把握できず反射的に身をすくめたリエを抱いたまま、フローライトは岩から飛び降りました。
声を上げる間すらなく、二人は石の輪の外側の広場に降り立ちました。あんな高い石柱の上から飛び降りたのに、着地の衝撃は覚えませんでした。リエを抱いたままのフローライトの華奢な身体がショックを吸収したのです。
「行きなさい、リエ」
フローライトは腕からリエを降ろして広場に立たせ、語りかけます。
「・・・フローライトさん」
フローライトは石柱に背中を預け、言葉を続けます。
「あなたが信じることをしなさい、リエ。あなたを力づくで言うことをきかせたくないの。ありのままのあなたが好きよ。だから行きなさい、あなたが正しいと思うことを信じて」
「私を連れていかないのですか？」
「うん。無理に館に連れていったって、それはもう本当のリエじゃないもの」
フローライトは身体を回し石柱に肩を預けてリエに背中を見せます。
「でも気を付けてね。邪神は１体だけじゃない。森にはまだ他の邪神や強力な悪霊がいるから」
リエはフローライトの小さな背中を見詰めます。
「フローライトさん」
ややあってリエはフローライトの背中に声をかけます。
「なに？」
振り返ったフローライトの目に法衣の襟のホックを外し、首筋と肩を晒したリエの姿が映りました。
「私は子供の時にあなたと結んだ約束を破りました。この村で暮らせるようにたくさん気を使ってもらっていたのに、あなたの気持ちを裏切りました。償いをさせてください。私の血を好きなだけ飲んでください。今の私に出来ることはこれぐらいしか出来ません」
こわばったリエの言葉にフローライトは苦笑します。
「カソリックのシスターの言葉ではないわね、リエ。わたしはバケモノなのよ」
「あなたが悪霊なのかどうかは問題ではありません。このままでは私は村人の救済を口実にあなたと結んだ約束を破った偽善者になってしまいます」
「震えているわ、リエ。顔も真っ青よ。怖いんでしょう」
石柱から離れ、リエに身を寄せたフローライトは悪戯っぽく囁きます。
「怖いです。でも私の償いを受け取ってください」
そう語るとリエは目を閉じ横を向きました。
目の前に伸びる白いうなじをフローライトは見詰めます。つと顔が動き、その唇がリエののどをくわえました。
「主よ」
顔をしかめたリエの口から思わず声が漏れます。
一口、二口、三口、フローライトののどが動いてリエの血を飲み込みました。が、そこでフローライトの唇が離れ、その舌がリエののどに開いた傷口を舐めました。
「はい、おしまい。ごちそうさま」
フローライトはリエの耳元で囁きます。
目を開き当惑顔でフローライトを振り返ったリエに、フローライトは微笑みます。
「リエの気持ちは受け取ったわ。だからもう村に戻りなさい」
「フローライトさん・・・」
「行って」
微笑を消して横を向き、フローライトは固い表情で囁きます。
リエはその表情にたじろぎ、そしてその場から離れてゆきました。
フローライトは石柱に背を預けて去ってゆくリエの後ろ姿を見送ります。
ふと物音に首をめぐらします。背を預けた石柱の陰から縞猫が顔を出します。先程、寝床岩の上で昼寝をしていた猫です。
「ふられちゃいました、わたし」
語りかけたフローライトに猫は首をかしげただけです。
「教会に預けたのが失敗だったのかしら。でもシャルル神父がちゃんと躾けてくれたからあんな素敵な娘になったのね。感謝するべきなのでしょね」
縞猫は語るフローライトを見上げます。
「おまえ達はいいわね、リエに毎日一杯遊んでもらえて。さっ、ハンス。もうハンナのところに戻りなさい」
フローライトが腰を屈めて脇腹を軽く叩くと、縞猫は木立の陰に足早に立ち去ってゆきました。
動くものの姿にフローライトが顔をめぐらすと輪の内側の石柱のそばの叢でじゃれる猫達の姿を見つけます。
彼らは人間の髑髏を舐めていました。
この円形の広場にはかってここで生贄となった人間の身体だった残骸がそこかしこに埋まり、あるいは土の表に姿を現しているのですが、人間の目にはそれが見えません。猫達には人間には見えないそれらが見えるのです。
「カール、ヨゼフ。懐かしいの？」
無邪気に髑髏と戯れる猫達の姿にフローライトの口元がほころび、笑い出しました。
人の姿の消えた列柱の石の間にフローライトの笑い声が漂います。
リエは丘を駆け降り林を抜け教会へと足を早めます。
片手は首をしっかりと押えたままでした。血を吸われた傷口はフローライトが舌で舐めると塞がり、すっかり跡形もなくなっていましたし痛みもありません。でも、手で押えずにはいられなかったのです。
教会のドアが目の前に見えます。
経験豊かなカルクマン神父と研究熱心なアレクシス神父に全てを包み隠さず話そう、リエは繰り返しそう思いながら走り続けます。あの二人ならきっと村人を救済する手立てを見つけてくれる。
教会の窓からは明るく光が漏れています。
二人は今頃夕刻の祈りを上げているはずだ。よく論争し合う二人だけどいざという時には本当に心の底から頼りになる。
このドアさえ開ければ、穏やかで暖かい信仰に満ちた世界に戻れるのだ。
リエはノブに手を掛け大きくドアを開きました。
今は昔、ドドール村の小さな聖オプフェル教会には２人の神父さんと敬虔なシスター・リエとが暮らしていました。
若いアレクシス神父は聖典の研究と村を悩ます悪霊退治に、温厚なカルクマン神父は村人の悩みの相談はもちろん、病人が出た時には医師にもなり、また週に何回か村に一軒の学校で生徒達に数学と理科を教えていました。
シスター・リエは菜園と家畜の世話、祭壇の手入れを任されていて、彼ら３人は厳しく簡素ですが充実した毎日を送っていました。
今はもう過ぎ去った昔のお話です。
吸血鬼フローライトとリエの娘シスター・サラとの出会いはそれから17年後のことでした。
おしまい
檸檬児
'2003-12-30