リエ
ドドール村の小さな教会には２人の神父さんと敬虔なシスター・リエとが暮らしています。
若いアレクシス神父は毎日元気に悪霊退治に、経験豊かなカルクマン神父は村人の悩みの相談はもちろん、病人が出た時には医師にもなり、また週に何回か村に一軒の学校で生徒達に数学と理科を教えています。
シスター・リエは菜園と家畜の世話、祭壇の手入れを任されていて、厳しく簡素ですが充実した毎日を送っています。
村の境界から向こうにはどこまで続いているのか分からない深い森が広がっていて、時にそこから悪霊がさ迷い出てきます。
たいていはアレクシス神父の活躍で大事に至ることなく追い払うことが出来るのですが、場合によってはカルクマン神父の協力が必要になることがあります。
アレクシス神父は都の大きな神学校を卒業したとのことですが、もっかの悩みは静かに神学の研究がしたいと言うことです。でも、その願いはなかなか叶えられそうもありません。
更にカルクマン神父との神学上の解釈の違いで時々衝突するのももう一つの悩みの種です。
とは言え、村人達にとってはこの小さな教会は村の守りであり、２人の神父さんとシスター・リエは大変に尊敬されています。
今日は悪霊も現れず天気も良く、アレクシス神父は久しぶりに神学の研究に没頭しようと机のところに向かいました。古くから続いていた修道院に秘蔵されていたナコト写本がようやく手に入ったのです。
手に入ったいきさつは、その修道院の若い神学者がこともあろうにナコト写本を「音読」してしまったため、とんでもない状況になり修道院を丸ごと廃棄せねばならなくなり、その時のどさくさに紛れてとのことですが、詳しいことはバチカンから箝口令が出されて不明でした。
噂では変貌し崩壊してゆく修道院から一匹の黒猫がこの書物を口にくわえて逃げ出して来たとも聞いていますが、真偽のほどは定かではありません。
噂に聞いていた稀覯本を研究できる喜びに、神父はいそいそと机のある部屋へと向かいました。
が・・・なんと！ 思わずアレクシス神父は十字を切りたくなりました。
シスター・リエが面倒みている野良猫達がアレクシス神父の座席で太平楽を決め込んでいるではありませんか。
猫は魔女の使い魔とも言いますが、こんな幸せそうな寝顔と肉球を見せられては追い払うことも出来ません。
諦めて庭に出て読書するアレクシス神父でした。
今日はアレクシス神父はカルクマン神父と神学上の解釈の違いでまたまた衝突してしまいました。
「カルクマン神父！ また昼ごはん当番をさぼってシスター・リエに押し付けましたね。これで何度目ですか！」
「おぉ、アレクシス神父。物質的な問題など魂のそれと比べたら大した問題ではないのです。私はこのような魂の問題に悩む迷える小羊に・・・」
「これのどこが羊ですか！？」
「はて、羊ではないとすると一体なんと？」
「ヤギです！ それも態度のデカい。そもそもカルクマン神父の悪霊共に対する態度は甘すぎます」
「彼らにも言い分はあるのだよ。力ずくでの解決が全てではない。時には彼らと般若湯を酌み交わし・・・」
「あ〜〜！ 菜園で作った１５年ものの葡萄酒を！ 道理で減るのが早いと思ってたら。それに般若湯ってなにごとですか。あなた本当に天主教徒ですか！？」
アレクシス神父の悩みは尽きそうもありません。
こんなカルクマン神父でしたが、リエは神父のもう一つの顔を知っていました。
自らの信仰に疑問を持ち真剣に悩むカルクマン神父の顔です。
神父はヴァチカンに秘蔵されていたという『ピラト写本』を手に入れていました。
涜神の書として禁書扱いされていたこの書物がなぜここにあるかは言えません。
ただ、この書物には信仰への疑問の全ての答えが記されていると伝わっておりました。そして読んだ人間は二度と信仰の道へ戻ることが出来なくなるとも語られていました。
この世には数冊の写本しか存在しないこの書物を前に、カルクマン神父は人知れず苦悩しておりました。
敬虔なシスター・リエは、この書物のことも神父の苦悩の訳も知りませんでしたが、日に日にやつれてゆく敬愛するカルクマン神父の様子に胸を痛めておりました。
今から17年前のことです。
檸檬児
'2003-12-30