サラ
窓から差し込む月の光の中で16年間の眠りからフローライトは目覚めました。
フローライトはベッドの蓋を開け、静かに起き上がります。
部屋はどこから吹き込んだのか枯葉で散らかっていますが、それ以外は眠りについた時のままです。山奥の森の底にあるこの屋敷には絡み合うイバラ、藤の蔦に遮られ人間が来ることも見つけることさえ出来ません。
窓から見える青い月は、シスター・リエのはにかんだ微笑を思い出させます。
リエはフローライトに優しく接してくれました。そのリエは16年前にこの世を去り、もうどこにもいません。
リエをフローライトから奪い去ったカルクマン神父を思い出し、彼女は我知らず頬が強張ります。
フローライトは生まれたばかりのサラを預かってもらった老シャルル神父を思い出し、心が弾みます。
「彼に会いに行こう。もう16年も経ったけれどまだ元気かしら」
あの教会は遠い土地でしたが、フローライトの足なら問題になりません。
フローライトはクローゼットから、リエに貰った十字架を縫い付けたケープのドレス選び身にまといます。
これをいつも身に付けていれば安心だと言葉と共に手渡してくれた、リエの心尽くしの十字架です。
「サラはどんな子に育ったのかしら。リエに似た子だといいなあ」
期待にフローライトの頬に微笑みが浮かびます。
いつも明るいシスター・サラは町中の人気者です。それなのに今夜の青い月は奇妙な胸騒ぎを引き起こします。
孤児としてこの教会でシャルル神父の手厚い比護の元で育ち、シャルル神父の死後に赴任してきたカルクマン神父も厳格だけれど心優しく、何の不満もないはずなのに、時折妙な不安を感じます。
今夜の月はその不安を呼び覚ますのです。
そう言えばシャルル神父の死後、この教会に赴任して来たカルクマン神父は、サラの顔を見てひどく驚いた恐怖に近い表情を浮かべました。その事が時々奇妙に思い出されます
カルクマン神父がそんな表情を浮かべたのはその時だけで、あれは何かの見間違いだったのだろうとサラも今では思っています。
時々思い出したようにサラは同じ夢を見ます。
どことも知れないどんよりとした暗がりの中空に檻が吊るされていて、その中に自分に似た顔のシスターが閉じこめられています。シスターは泣きながら必死に祈っています。
檻の下の荒れ果てた地面から誰かがシスターへと手を差し伸べています。その顔は見えません。理由もない恐ろしさがその後ろ姿から漂っています。
見たくない、見たくないと思いながらも、視点はじりじりと廻っていつか自分が檻の中のシスターになり、下から見上げる人へと焦点が合ってゆきます。
ぼんやりとしたその顔がはっきりしかけた途端、いつもその悪夢は唐突に終わります。
青い月がこの悪夢の記憶を呼び覚まし、シスター・サラは身震いします。
「いつか、あの人に出会うことがあるのかしら。あの檻の中のシスターは自分なのかしら」
サラは十字架を握りしめ、祈りの言葉を繰り返します。
サラは春の祭りの日にお使いの途上で踊りの輪を眺めていました。本当は町の皆と一緒に踊りたいのですが聖職者の身ではそれもままなりません。
そんなサラに踊りの輪の中から見慣れない少女が近づいてきました。
フローライトと名乗ったその少女は手を差し出し、一緒に踊って欲しいと笑いかけました。
慌てて断ると、その少女はサラの目を真っ直ぐに見詰め甘やかに微笑み、手を振って踊りの輪に戻ってゆきました。
その少女を目で追うと、次々に相手を変えながら踊りの流れの中を縫うように舞ってゆき、時々サラの方へと視線を飛ばしては目が合うと微笑みをよこします。
並外れたしなやかな身ごなしです。
気が付くとサラはずっとその少女の姿を追っていました。
急にその少女の姿を見失い、踊りの輪の中に視線をさ迷わせても見つからず、そんな自分の姿に冷静になって、お使いの途上であることを思い出し、サラは教会へと戻ることにしました。
すると最初の路地を曲がったところで、サラは見失ったあの少女に再び出会ったのです。
二人は話を交しながら教会の近くまで歩みを共にしました。
それがサラとフローライトとの最初の出会いです。
それから二人はよく言葉を交すようになったのです。
何度かフローライトは教会を訪れました。
旅人だと言うフローライトはカルクマン神父を以前から知っているようです。それどころか、サラの実の母のことも知っているらしいそぶりです。
でもフローライトの姿を見たカルクマン神父は激しい怯えを見せたのです。
全てが暗転し始めたのは、フローライトの導きで封印されていた黒い本を見せられた時からでした。その書物はカルクマン神父が封印したものでした。
サラの話の続きを語るためには話を17年前に遡らさねばなりません。
檸檬児
'2003-12-30