湿った季節
窓の外からは今日も雨の音がする。
この季節は室内にいて雨に濡れたわけでもないのに、いつも肌はうっすらと湿っていてけだるい。気圧が低いせいもあるかもしれないけれど、頭もぼんやりする。
それでも裸足になりさっぱりとした服に着替えて、雨がこない向きの窓を開けると、肌を抜ける風が気持ちいい。
私の他には誰もこの部屋にはいない。
ここは長いこと誰も使っていない部屋だ。それでも床は清掃され、リノリュウムの上を裸足で歩くとひんやりした感触が応えてくれる。
部屋にあった長椅子は幼いころ病弱だった私が具合が悪くなった度に連れてこられた病院の待合室の長椅子を思い出させる。どんなひどい病気の時にも、院長室のドアが開いて、白髭の太った院長先生が笑顔で話しかけてくれると、もうこれで助かるんだと不思議に安心した。
その院長先生ももうこの世にはいない。病院も閉じられて久しい。
長椅子に寝そべり、窓からの風に身をまかせると、とりとめもない想いが浮かんでは消える。
ふと、気付く。
なぜ、私はここにいるのだろう。ここはどこなのだろう。
この部屋には長椅子と窓のカーテン以外は何もない。でも、この部屋の間取りには記憶があるのだ。
そうだ。私は季節の変わり目ごとに、体調を崩していた。そんな私が子供の頃に通っていたあの病院の待合室の間取りそのままだ。
頭の方の部屋の隅には大きな本棚があって、婦人雑誌やグラビア雑誌、子供の為の絵本が並んであった。足の方の入口の横にはスリッパが沢山並んだ棚があった。
そして正面は院長室のドアだった。
でも、本棚もスリッパの棚も、院長室のドアもここにはない。
ここはどこなのだろう。たしか私は目まいがしたので自分の部屋のベッドで横になって休んでいたのではなかっただろうか。
どこか不合理なことが起こっているのに、私は不安を覚えるでもなく、この長椅子に横になっている。
ふと、風に乗って空気に匂いが混じる。この生臭い匂いは私の肉の匂いだ。
気配に振り返り身を起こすと、当然のようにあの人が大鎌を持って立っている。
深い地階から濡れた石段を上がってやってきたのだ。
私の瞳があの人の瞳にとらえられる。彼女の視線が私の身体をゆっくりと撫でる。
私は気付く。このドレスを私が身に付けているのは、彼女に見てもらいたかったかったからなのだ。
私の身体は自由を失う。自分の意志ではもう指一つ動かないのに、私には何の不安もない。
彼女は並んで長椅子に腰を下ろすと、軽々と私を膝の上に抱き上げる。
ひんやりとしたその顔を私に押し付けと、私の身体のけだるいほてりがその肌に吸われてゆく。
彼女の囁きは鈴のように澄み、耳を洗う。
ひんやりとした手が身体中を撫で、ためらいのない頬擦りがその跡をどこまでも追い、冷えた鼻が私の匂いを嗅ぎ、冷えた舌が私の肌を味わう。
何度も夢の中で見たいとなみが今日も繰り返される。
肌を合わせたまま微睡み合う。
重なった肌から私のぬくみが彼女の身体の奥へと流れてゆく。でも、彼女は決して私のぬくみを飲み過ぎはしない。私の肌が冷えきる前に彼女は身を離し、ほほえみを浮かべるのだ。
それでも、肌を合わせるたびに彼女の頬に生気が宿ってゆくことを私は喜んでいる。
今も夢を見ているのだと自覚はある。
彼女の囁きに窓からの雨の音が交差する。目覚めが近いのだ。
いつものように目覚めは霧が晴れるように訪れた。
でも、これまでは自分の部屋のベッドの上で目覚めは訪れた。
今日の目覚めはそうではなかった。
部屋の右の隅には壊れた本棚があった。左手の戸の外れた入口のドアの横にはクモの巣の張った棚があり、その前の床にスリッパが散乱している。
正面には入口が口を開き、その奥は真っ暗な部屋が広がっていた。
脚の取れた長椅子が私の側に横倒しになり、朽ちたカーテンの窓からは雨を抜けてきた風が私の肌をなぶる。
ここは、幼い頃に私が通っていた、今は閉じられているはずのあの病院だったのだ。
檸檬児
'2005-9-24