ほたるの夢
どんよりと澱んだ紅い部屋なのか平原なのか分からないところに私は一人立っていた。
眠ったのはお屋敷のメイド部屋のベッドの中だったはずだ。
「ここは夢の中だ」
ベッドに入った後も気が騒ぎ妙に寝付けられなかったのだけれど、いつの間にか脈絡のない夢が断続する眠りに落ちていたのだ。
夢を見ているのに心は冷めていてこの紅い空間は緞帳のようなもので、背後に別の背景が潜んでいることが分かる。それらは森のようにも廃墟の群れのようでもあるらしい。緞帳がさっと引かれると本当の姿が現れるのだ。
突然奇妙な人物の姿が紅い空間の彼方に出現する。
これまで見たこともない男性だ。大きな握り石のついたステッキをつき、地を這う古風なマントで全身を覆い歩いている。その歩く姿がだんだんこちらに近づいてくることが分かる。
見えている姿は一人なのに、その背後に何か恐ろしいものが大勢付き従っているのが分かる。
男性がこちらに視線を向ける。口元に笑みを浮かべた。
私は自分に何の力もないことが分かる。この男性の意図には逆らえないのだ。理由の分からない怯えが身に走る。
私や私の愛する者を守る力は私にはないのだ。
助けて。
私の口は糊付けされたように開かず言葉が出ない。
助けて、助けて。
私は誰に助けを呼んでいるのか。
笑みを浮かべた黒衣の男性の姿が止めようもなく大きくなってくる。その手に持つステッキの握り石の縞模様まではっきりと見える。
助けて、助けて、助けて！
男性の背後に靄のように澱んでいた奇怪な姿の者共が朧にそのシルエットを視界一杯に現し始める。
ぎしぎしと彼らの身体が軋む音が周り中に溢れる。
目が覚めた。
私は暗い廊下に置かれた椅子に座っていた。
着ているのはお気に入りの白いサマードレスだった。
「ここもまだ夢の中だ」
すぐに気付く。ここに来たのは初めてではない。
しんとした空気の中、天井を覆う闇の奥からざわざわとかすかな音が木霊する。ここは見慣れたお屋敷の地階にある回廊なのだ。
もちろん、本当のお屋敷には地階は存在していないことは分かっているけれど、夢の中の私はこちらの世界をそのままに受け入れる。
回廊には冷えた空気が澱んでいる。
暗がりのそこここに何かがひそんでいる気配がする。
そして私を呼ぶ声が、より深い地の底から聞こえてくる。
声に呼ばれるままに私は回廊の奥へと歩き始める。
細工を施した重い木のドアが回廊に並んでいる。
前回ここに来た時に中を覗いたことがあった。壊れた家具や古い絵が埃をかぶって並んでいた。
床に、私にも覚えがあるシャルル坊っちゃんが壊したおもちゃも転がっていた。あれは確かゴミの日に出したはずなのに。
なくしたはずだった縫いぐるみがソファーの上で埃をかぶっている。
回廊の突き当たりは小さな明り取りのガラスが嵌まったドアで終わっている。ここは地階のはずなのに外の光が曇りガラスを通して闇に近い回廊に差し込んでいる。
ドアの真横の壁にさらに下へと向かう入り口が開き、ほんのりと明りが漏れている。
その入り口をくぐると石の階段が一直線に下へと伸びている。
私は階段をおりてゆく。
赤い壁面には白く筋が走りどこともしれない光源からの灯をつややかに反射する。まるでガラスのようだ。この赤い色はそのガラスの向こうから押し付けられる柔らかいものの色なのだ。
視線を向けると分からないが、視界の隅では壁面の模様がゆっくりと動き変化してゆく。
階段の一番下には出口が開き、赤い靄にけぶっている。呼び声はその奥から聞こえているのだ。
上の回廊とは違ってほんのりと空気にぬくみを感じる。
踏みしめる石段は薄く濡れている。
空気に生臭い匂いが混じる。
嫌いな匂いではない。
私の肉の匂いだ。
階段を下り出口をくぐると赤い部屋がある。その広さは分からない。どこまでも赤い色が広がっている。
私の正面には十字架が立ち、黒衣のメイドが鎖で縛りつけられている。十字架には乾いた血が一面にこびりついていた。
十字架の下には硬く黒く枯れたバラの蔓がほとんど崩れかけて散らばっている。
前回、ここに来た時に蔦は十字架とこの人の全身に絡みついていた。
十字架を濡らす血は、バラの棘に全身をえぐられたこの人の血だったのだ。
その時、私はその蔦を引き剥がした。前の夢はそこで終わっていた。
私は今この人の顔を見上げている。
いつ手にしたのか、くすんだ色の巨大な鎌を手にしている。
この鎌の一薙ぎで、この人の手足を縛めている鎖を断ち切ることが出来ることを、なぜか私は知っている。
大鎌はこの人の得物なのだ。
この人？ 何を言っているのだ、私は。私は彼女をよく知っているはずなのだ。
私があの入り口からこのフロアに現れた時から、彼女の視線は私を追っていた。
私をここに呼んだのは彼女だ。今、彼女は何も言わずに私を見詰めている。
私の肉の匂いの漂うこの赤い部屋で、彼女は私を待っていたのだ。
彼女の視線を追って私は気付く。この白いサマードレスを私が身に付けているのは、彼女に見てもらいたかったかったからなのだ。
私は何をするつもりなのだろう？ 彼女の縛めを解いたら何が起こるのだろう？
大鎌の柄を握ったまま、私は彼女を見上げ続ける。
彼女の閉じていた口が開いた。
私は彼女の言葉に操られたように答える。
自分の声で私は目覚める。
いや、声は実際には出さなかったのだと思う。
メイド部屋のベッドの中だった。日の出前の青い光が窓から差す。まだ起床時刻には随分と早い。お屋敷の全てが眠りについている。
驚くほどの汗が寝巻きを濡らしていた。枕カバーまでもが私の汗で湿っている。
何かの病気なのだろうかと疑ったけれど気分は軽い。
汗まみれの寝巻きを脱ぎ、部屋着に着替える。こんな時刻にシャワーを浴びるわけにはゆかない。
電気も点けず、窓からの薄明かりを私は椅子に身を預けて見詰める。
ふと私は思う。
もし今ドアを開け暗い廊下を渡り階段を下りてゆけば、存在しないはずのお屋敷の地階への回廊が口を開けているのではないか。
そう思った途端、汗の引いた肌に冷気が走る。鳥肌が立っている。
あの音は何だったのだろう？
ちょうどその時、お屋敷のずっと下の方から響いてきた弾けるような音は。
私はじっと耳を澄ます。
気のせいだったのだろうか。それとも古いお屋敷にありがちな柱の鳴る音だったのだろうか。音はそれっきり鳴ることはなかった。
同人サークル「瀬」
檸檬児
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'2005-9-24